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厭な世界情勢②

 ◆


(……教会の言い分も、もしかしたらちょっと合ってるのかも)


 数か月前にそんな思いを抱いたリチャード。


 その朝、執務室に一通の書簡が届いた。ヘルゲート公爵家の印が押されている。差出人は、言うまでもなくレドラム・ヘルゲート公爵その人である。


 リチャードは震える手で封を切った。中身は予想以上に短く、そして予想を遥かに超えて不穏だった。


『陛下へ。エリアス王子は実に立派な男となられました。もはや我が領での研修は不要でしょう。つきましては、王都へご帰還いただきます。なお、我が娘デスデモーナは諸事の整理後、追って王都へ参ります。婚儀の準備もよろしくお願いします。陛下の終生の心友レドラム・ヘルゲート』


 立派な男。その四文字がリチャードの脳裏で不吉な鐘のように鳴り響く。レドラムの価値観における「立派」とは、一般的な倫理観で言うところの何に相当するのか。


 ・

 ・

 ・


 王都の民衆は、大通りをパレードのように進む王子の馬車を遠巻きに眺めていた。だが、そこに祝祭の雰囲気は皆無である。それはどちらかと言えば、危険な肉食獣の檻が運ばれてくるのを固唾をのんで見守るそれに近かった。


 かつてのエリアス王子は、絵に描いたような傲慢な貴族だった。才能に恵まれ、容姿に恵まれ、そして何より王太子という地位に恵まれた彼は自分以外の人間を風景の一部か、あるいは利用すべき道具としか認識していなかった。


 その彼がやらかし、厄地送りにされ──そして今、こうして戻ってきたのだ。


 民衆の興味は一点に尽きる。


 ──未来の王は、一体どんな化け物になって帰ってきたのか? 


 ある者は廃人になっていると噂した。またある者は、ヘルゲート公爵に魂を売って邪悪な魔術師になったと囁いた。


 やがて、王城の謁見の間に、その張本人が姿を表す。


 純白の王子服に身を包んだエリアスは以前よりも少し痩身になったように見えたが、その足取りは確かだった。フラついてもいないし、急に走り出したりもしない。父である国王リチャードを前にしても彼の表情は凪いだ湖面のように静かで、感情の揺らぎが一切読み取れない。


「……エリアスか。息災であったか」


 リチャードは父親としての情愛と、統治者としての警戒心をない交ぜにした声で問いかけた。同時に、レドラムの手紙にあった『立派な男』という言葉が脳裏をよぎる。


 エリアスは優雅に片膝をつき、恭しく頭を垂れる。その所作は完璧だった。完璧すぎて、まるで精巧に作られた自動人形を見ているかのようだった。


「はい、父上。ヘルゲート公爵家の方々にはそれはそれは手厚いもてなしを受けました。我が人生において、これほど充実した日々はございませんでした」


「……そうか。それは、何よりだ」


 リチャードは当たり障りのない返事をしながら、内心で警報が鳴り響くのを感じていた。手厚いもてなし? 充実した日々? あのレドラムが統治する土地で、その言葉が持つ意味は通常の語彙とは懸け離れているに決まっている。


 祝福とは呪詛のことであり、歓迎とは爆破のことである。ならば、手厚いもてなしとは一体……。


「して、父上におかれましてもご壮健のご様子。何よりと存じます。ですが」


 エリアスはすっと顔を上げ、リチャードを真っ直ぐに見つめた。その瞳にはかつての傲慢さの代わりに、底知れない深淵のような静けさが湛えられている。


「少々、顔色が良すぎるのではございませんか? 玉座に座る者の顔色としては、血色が良すぎる。心労が足りていない証拠です。これでは民が不安になりましょう。いずれ私がその玉座を継ぐ時まで、どうか健康的に憔悴していただきたい」


「…………は?」


 リチャードは自分が今何を言われたのか、瞬時に理解することができなかった。


 謁見の間に凍り付いたような沈黙が落ちる。


「この国の平和は、父上の心労と胃痛の上になりたっております。もっとこう、目の下に深い隈を作り、やつれた横顔で国政を憂いてくださらねば、示しがつきません。私が王となる日まで、どうか適度に苦悩し続けてください」


「……お、おお。そうか。善処しよう」


 リチャードは、なんとかそれだけを絞り出した。胃が、今まさにキリキリと痛み始めている。エリアスの言う通り、心労が現実のものとなりつつあった。


 ◆


 その夜、エリアス王子の帰還を祝う晩餐会が催された。


 集まった貴族たちはかつてエリアスに散々振り回された者たちばかりである。彼らはこの機会に、没落した(と彼らが信じている)王子を嘲笑ってやろうと息巻いていたが、謁見の間での一件を聞き、今はただ腫れ物に触るように遠巻きに様子を窺っている。


 王宮の料理長が腕によりをかけて作った料理が、銀の食器に美しく盛り付けられて並んでいた。黄金色のコンソメスープ、七面鳥の丸焼き、極彩色の野菜のテリーヌ。どれもが王国の豊かさを象徴する逸品だ。


 だがエリアスはそれらを一瞥すると、小さく、そして心底がっかりしたように溜息をついた。


「どうした、エリアス。口に合わんか?」


 リチャードが恐る恐る尋ねる。


「いえ、素晴らしいお料理です。見た目も、香りも。ただ……」


 エリアスはスープを静かにかき混ぜながら言った。


「あまりに……無菌すぎる」


「むきん?」


「はい。このスープには、物語が感じられない。ただ美味しいだけでは、魂が満たされないのです。ええ、例えばそう……致死性の毒物一滴分のスリルとか、あるいは呪詛が込められた銀食器の重みとか、そういったものが」


 ガシャン、と誰かがフォークを落とす音が響く。


 リチャードは、めまいをこらえながら言った。


「エリアス……食事に、毒を入れろと、申すか」


「お言葉ですが父上、それは『愛』と呼ぶべきです」


 エリアスは、うっとりとした表情で、まるで恋人を語るかのように続けた。


「ヘルゲート公爵家では、日常の食事でさえ、常に死と隣り合わせの緊張感がありました。ウェネフィカ様が調合されたスープを飲む際には、まず銀の匙が変色しないかを確認し、次に毒見役の……ああ、彼は三日前に全身から粘液を吹いて気絶しましたが……。ああ、命に別状はありませんので、そんな顔をしないで下さい父上。ともかく、その様にして一口ごとに自らの魂の輝きを確かめるのです。生きているという実感! あれこそが、真の食事の醍醐味ではございませんか!」


「デスデモーナ様も、よくおっしゃっていました」


 エリアスは夢見るように続けた。


「『死を味わってこそ、生の甘美さが分かる』と。ああ、彼女が王都へ来た暁には、きっとこの退屈な晩餐会も、スリリングな生存競争の場へと変貌することでしょう。それこそが未来の王と王妃がもたらす、新たな宮廷文化というものです」


 貴族たちは、もはや食事どころではなかった。彼らは目の前の王子が、ただの狂人ではなく、狂気の世界の論理を完璧に体得してしまった、全く新しい生命体であるかのように感じていた。そしてその狂気の申し子がいずれ王位に就くという事実に、背筋が凍る思いだった。


 一人の恰幅の良い侯爵が、意を決したようにエリアスに近づく。彼はかつて、エリアスに公の場で「君のその腹は、君の無能さをそのまま体現しているようだ」と罵られた男である。もちろん彼は別に無能ではない。


「お、王子……ご無事のご帰還、まことにお慶び申し上げます」


 絞り出すようなお世辞。エリアスはその侯爵の顔をじっと見つめ、そして悲しそうに眉を寄せた。


「……君は、確かマルスリーノ侯爵だったか。変わってしまったな、君も」


「は、はあ……」


「昔の君は、もっと覇気があった。私の政策案を『机上の空論』と一蹴し、私の剣の腕を『お遊戯』と鼻で笑った。あの頃の君の瞳には、憎しみと侮蔑の炎が燃え盛っていたというのに……今の君の目は、まるで死んだ魚のようだ。私を恐れているのか?」


「い、いえ、滅相もございません!」


「そうか。ならば、もう一度言ってはくれまいか。『この無能王子め』と。さあ、あの頃のように! 私を罵ることで、君の魂を解放するのだ! 私が王となった時、そんな生気のない目をした臣下など要らぬのだから!」


 エリアスは、期待に満ちたキラキラした目で侯爵を見つめた。


 マルスリーノ侯爵は「ひっ」と短い悲鳴を上げると、泡を食ってその場から逃げ出した。他の貴族たちも、まるで伝染病を恐れるかのように、エリアスから距離を取る。


 ホールの中央にぽつんと一人取り残されたエリアスは、天を仰いで嘆いた。


「ああ、なんて退屈なのだ! 誰も私を殺そうとしない! 誰も私を罵ってくれない! ここは……ここは、ぬるま湯の地獄だ! デスデモーナ様がいらっしゃるまで、私はこの退屈に耐えねばならぬのか!」


 その嘆きを聞きながら、リチャードは本日何度目か分からない胃の痛みにそっと腹を押さえるのであった。


 ◆


「陛下、エリアス王子の件、いかがいたしましょうか」


 晩餐会の後、執務室でガンジャが静かに問いかけた。彼の表情は相変わらず読めないが、声には僅かな同情の色が滲んでいる。


「いかが、とは何だ」リチャードは疲れ果てた声で答えた。「見た通りだ。私の息子は、頭のネジが数本どころか、設計図ごとどこかへ行ってしまったらしい」


「ですが陛下、エリアス王子は多少ユニークな性格になったようですが──」


「ユニーク!? ガンジャ、お前はあれをユニークなどという言葉で──」


 ガンジャは、そこで言葉を切った。執務室の扉が、ノックもなしに静かに開かれたからだ。


 そこに立っていたのは、エリアスだった。


「夜分に失礼いたします、父上。宰相閣下もご一緒でしたか。ちょうどよかった」


 彼は、先程までの狂気の演説家のような雰囲気とは打って変わって、驚くほど冷静な理知的な表情をしていた。


「エリアス、何の用だ。私は疲れている」


「お察しいたします。ですが、私の奇行に頭を悩ませるお時間があるのなら、もっと優先すべき議題があるかと」


 そう言うと、エリアスはするりと室内に入り、リチャードの机に広げられていた報告書──ヘルゲート領への移住者増加と、教会の勢力拡大に関するものを、ためらいなく指さした。


「教会が民衆の不安を煽っている。世界的な凶作を『神の罰』とし、異端の力、すなわち我々の魔導技術を敵と定めることで、支持を集めている。古典的ですが、非常に有効な扇動です」


 その澱みない分析にリチャードとガンジャは顔を見合わせた。


「……お前、どこでそれを」


「ヘルゲート領は情報の集積地でもあります。あそこにはあらゆる国から、あらゆる事情を抱えた者たちが流れ着く。彼らの持ち込む断片的な情報を繋ぎ合わせれば、世界の大きな流れを読むことはさほど難しくありません。レドラム公爵にご教授いただきました」


 レドラムの名が出た瞬間、リチャードの眉がピクリと動いた。


 ──確かにヘルゲート公爵家の腕は長い、しかし


 ガンジャが試すように尋ねた。


「では王子、この状況を打開する策がおありと?」


「策、というほど大げさなものでは」


 エリアスは少し考え込む素振りを見せると、こともなげに言った。


「教会が『分かりやすい物語』で人心を掌握しようとしているのなら、我々は、それよりもさらに強力で、魅力的な『物語』を提示すれば良いだけの話です」


「物語、だと?」


「はい。例えば、『ドラゴンの涙』が収穫時に呻き声を上げるという報告。教会はこれを神への冒涜の証拠と喧伝している。ならば我々は、こうプロパガンダを流すのです。『聞け! これぞ豊穣の歌声なり! 神の奇跡によって生み出されたこの小麦は、収穫の喜びを自ら歌い上げるのだ!』と」


「なっ……」


 リチャードは絶句した。それはあまりにも荒唐無稽で、不謹慎で、そして……もしかしたら、有効かもしれないと思わせる、悪魔的な発想だった。


「さらに、ケガレと呼ばれる者たちを、単なる社会の脱落者ではなく、『厄地という過酷な環境に適応進化した新人類』として英雄視させるのです。ヘルゲート公爵こそが、その進化を導く預言者である、と。民衆は不幸な弱者よりも、逆境を乗り越える英雄の物語を好みます」


「……本気で言っているのか」


「いつだって本気です」


 エリアスは静かに、しかし確信に満ちた声で言った。


「正論だけでは人は動きません。論理だけでは心は救われない。人々が求めているのは、救済の『物語』です。それが真実か嘘かなど、些細な問題にすぎない。ヘルゲートでは誰もが自らを『選ばれし者』という物語の主人公だと信じている。だからこそ、彼らはあの地獄で幸福なのです」


 エリアスの言葉は狂気に満ちていた。だが同時に為政者として、あるいは扇動者として、物事の本質を的確に射抜いていた。


 ガンジャは初めて眼鏡の奥の瞳に、隠しきれない感嘆の色を浮かべていた。


「……素晴らしい。実に、ヘルゲート的な解決策ですな」


「恐縮です」


 リチャードは、もはや胃の痛みを通り越して、一種の悟りのような境地に達していた。


 目の前にいるのは、かつての傲慢で無能な息子ではない。かといって、単なる狂人でもない。


 正気と狂気の境界線を自由自在に往来し、地獄の論理で現実を捻じ曲げようとする、恐るべき存在。


 リチャードは天を仰ぎ、絞り出すように呟いた。


「……エリアスよ。お前は一体、何になって帰ってきたのだ」


 エリアスはにっこりと、聖者のような笑みを浮かべて答えた。


「より良き王子、です。父上」


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