最終話:世界の終わりと始まり
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暖炉の炎が一瞬だけ碧く揺れた。ヘルゲート公爵家の暖炉の炎は青いのだ。理由はわからない。ヘルゲート公爵レドラムは「魔界の火だからだ」などと嘯いている。
そのレドラムだが、書斎の革張りの椅子に深く沈んでいた。葉巻の煙が天井に向かって緩やかな螺旋を描いていた。窓の外は月のない夜である。
炎がもう一度、碧く揺れる。
書斎の隅から一つの影が滲み出た。人間のような形をしているが、輪郭が曖昧で、見る角度によって老人にも子供にも見える。
『アモン』
影が呼んだ。レドラムの名ではなく、別の名で。
『お前はまだこの世界にいるのか』
「ああ。まだやり残したことがある」
『無駄だ。主がこの世界の廃棄を決定された。我々は去らねばならぬ』
レドラムは葉巻をくゆらせる。
「分かっている」
『お前は昔からそうだった。感傷的すぎる。人間ごときに情を移すとは』
「情ではないさ」
レドラムは微笑んだ。いつもの陽気な笑顔ではなく、もっと古い、もっと深い何かを含んだ微笑みである。
「これは趣味だよ」
影は長い沈黙の後、小さく笑った。
『相変わらずだな。……では、さらばだ。旧友よ』
「ああ。良い旅を──我らが王よ」
影が消える。暖炉の炎が通常の橙色に戻った。書斎には葉巻の煙だけが残る。
レドラムは一人、暖炉の前で目を閉じた。
世界の崩壊は止まらない。大陸の南方で大地が裂け、東方の海が一夜にして干上がり、北方の常春の森が凍りついた。疫病は慢性化し、もはや「不作の年」ではなく「実りのない時代」と呼ばれるようになっている。
影たちは一つ、また一つと消えていく。
城の庭に棲んでいた名もなき精霊が消えた朝、デスデモーナは庭に立ち尽くしていた。
「昨日までここにいたのに」
声には珍しく、純粋な困惑が混じっている。
◆
レドラムが家族を集めたのは、冬の始まりの夜である。
ヘルゲート城の大広間。暖炉には薪がくべられ、重厚なオーク材のテーブルの上にはウェネフィカが淹れた紅茶が湯気を立てている。
デスデモーナ、ウェネフィカ、エリアス、リリアーナ。
そしてリチャード国王が、王都から駆けつけていた。「来い」とだけ書かれたレドラムの手紙を受け取り、何も聞かずに馬を走らせた。三十年来の友人が「来い」と書く時は、冗談ではないと知っているからだ。
全員が揃う。
レドラムは暖炉の前に立ち、いつもの陽気な笑顔で語り始めた。だがその声には、誰も聞いたことのない深い重みがある。
「さて諸君。少々、打ち明け話をさせていただこうか。まず私は、人間ではない」
レドラムの本名はアモン。
魔界の侯爵にして、世界の管理者の一柱。人間の肉体を纏って物質世界に降りてきた、古き存在だと言う。
沈黙が大広間を支配する。
リチャードが最初に口を開いた。
「……三十年だぞ、レドラム。三十年、お前は私の友人だった」
「今もそうですよ、陛下」
「悪魔が、王の友人だと?」
「悪魔が友を持ってはいけない法でもありますかな?」
リチャードは長い沈黙の後、深くため息をつく。
「……いや。お前は確かに、私の友人だ。悪魔であろうが何であろうが」
エリアスは動じない。むしろ納得した顔をしている。
「道理で。人間にしては、あまりにも常軌を逸していると思っていました」
「おお、エリアス。常識のある反応だな。さすが私の自慢の義息だ」
「褒められている気がしません」
リリアーナは無表情のまま、小さく呟く。
「……元スパイとしては、悪魔に完全に騙されていたというのは、なかなかの屈辱ですね」
「君が悪いのではないよ、リリアーナ。なにしろ私は数千年……あれ? もっとかな。まあいい、とにかく長い経験があるからね。君はまだ若い」
リリアーナの無表情に、ほんの僅かな悔しさが滲む。
ウェネフィカだけが最初から静かだった。彼女は紅茶の杯を手に、夫の顔を見つめている。
「知っていたの?」
デスデモーナが母に尋ねた。
「確信はなかったけれど」
ウェネフィカは夫を見る。
「二百年も生きていれば、人間と人間でないものの違いは、肌で分かるわ。あの人の手はどんなに温かくても、奥の方にとても冷たいものを持っていた。人間にはない種類の冷たさ。でも」
彼女は微笑む。
「それがどうしたの、というだけの話よ」
アモンことレドラムは語った。
神がこの世界の廃棄処分を決めたこと。悪魔たちがその命令に従って去っていること。彼らが去ることで、世界のあらゆる調和が崩れていること。
「神と悪魔は対立するものではない。我々は世界の運営を任された管理者だ。試練を与え、淘汰を司り、世界に必要な影を維持する。光だけでは世界は成り立たぬ。影があって初めて光は意味を持つ。我々がいなくなれば、世界は調和を失い、崩壊する。それが昨今、世界がどんどんおかしくなっていっている理由なのさ。ましてや、我らが神はもういないのだ。あの方は去って行ってしまった──」
デスデモーナが尋ねる。
「お父様。では、なぜ貴方だけが残っているの?」
アモンは微笑んだ。それは三十年以上見てきたレドラムの笑顔そのものである。
「命令違反さ」
彼は家族の顔を一人一人、ゆっくりと見渡した。
「私はこの世界が好きなのだ。悪趣味だがね。この世界の人間たちは面白い。苦しみの中でも笑い、絶望の中でも希望を見つけ、死の淵にあっても愛を語る。こんな面白いものを廃棄するなど、もったいないではないか」
リチャードは天を仰ぐ。
◆
アモンの計画は、信じがたいほど壮大で、同時に信じがたいほど単純なものである。
要は、この世界に新しい神を作るというものだった。
悪魔が去り、神も去ったこの世界には、もはや超常的な支柱がない。世界の構造を支える力が消えつつある。
だがアモンは気づいていた。世界を支えるのに必要なのは、神や悪魔そのものではない。信仰の力だ。十分な数の人間が、十分な強さで何かを信じれば、その信仰そのものが世界の新しい支柱になる。
そのためにアモンが長きにわたって準備してきたもの。
それがヘルゲート文化という名の思想である。
ヘルゲート・シック。不幸を美学として、絶望を芸術として、恐怖を愛情として受容する文化。それは単なる流行ではなく、アモンが意図的に世界中に蒔いた信仰の種なのだ。
「でも」
エリアスが口を開く。彼の頭脳は既に計画の核心を掴んでいた。
「信仰には偶像が必要です。人々が祈りを捧げる対象が」
「さすが私の義息だ」
アモンはヘルゲート城の地下へ全員を導く。
誰も立ち入ることのなかった地下聖堂。重い石扉が軋みをあげて開くと、奥から微かな光が漏れた。
高さ三メートルの彫像が、そこに安置されている。
苦悶の表情を浮かべながらも笑っている顔。無数の手が互いを抱きしめ合い、その手の一つ一つが何かを掴んでいる。花、毒草、宝石、骨、赤子の靴、砕けた王冠。美しいものと醜いものが渾然一体となった、見る者の美意識を根底から揺さぶる彫像である。
台座にはこう刻まれている。
「美醜こそ表裏、光闇こそ一如。苦楽は同じ果実の種と皮」
「この像に信仰が集まれば、世界は新しい支柱を得る。神でも悪魔でもない。人間の信仰そのものが世界を支える。私が去った後も、この世界は続いていく。もちろん、下地は必要だ。ただ不気味な像を送り付けるだけでは駄目だ。そんなものに信仰を抱く人間などいない。だから私は、いや、我々はその下地を長い年月をかけて作り上げてきたのだよ」
◆
かくして偶像の複製が大陸中に送られた。
デスデモーナが陣頭指揮を執り、エリアスが外交と物流を統括し、リリアーナが各地の受け入れ態勢を整える。リチャードは国王としての権威を使い、ルミナス王国の全教会と全公共施設に偶像を安置させた。
最初に動いたのは、やはり帝都ドゥームズガルである。
旧帝国領の住人たちはもはやヘルゲート・シックに骨の髄まで染まっている。偶像が広場に安置された瞬間、帝都民は歓声を上げた。「怖い。でも、なんか安心する」。彼らはこの一年で、恐怖と安寧が共存しうることを身をもって学んでいる。職人たちは偶像の周囲に黒い花壇を作り、不吉な装飾を施し、悪趣味な参道を整備した。帝都の偶像は、一ヶ月で大陸有数の巡礼地になる。
南方の商業都市連合の反応は、もっと現実的なものだった。
十二の港湾都市で構成されるこの連合は、ルミナス王国との貿易で潤っている。影鋼鉄の加工品、魔導技術の輸入、ドラゴンの涙で育てた穀物。経済的な結びつきが信仰よりも強い絆を既に作っていた。
連合の盟主、ポルタ・マリーナ市の元老院が二日で採決を済ませる。「偶像の安置に反対する合理的な理由は見当たらない。なにしろ偶像を受け入れた地域から先に世界が回復しているのだ。これは信仰の問題以上に、投資の問題である」。実利主義の極致というべき判断だったが、結果として南方の回復は大陸で最も早い。
港湾都市の漁師たちは、偶像を安置してから三日後に魚群が戻ったことを報告する。干上がっていた塩田に再び海水が満ち、南方特産の香辛料の生育が劇的に回復した。
北方の小国群は最も苦悩する。
イドラ教への信仰が深く根付いたこの地域では、偶像の受け入れは信仰の裏切りを意味する。だが同時に、凍りついた農地と止まらない疫病が民を確実に死へ追い込んでいた。
結句、ヴァルケンの若き女王エレインが、北方で最初に偶像を受け入れる事になった。しかし彼女は自国の大聖堂に、イドラ教の祭壇と偶像を並べて安置するという前代未聞の措置を取った。
「光神と闇の美学は矛盾しない。光は闇があってこそ輝くのだから」
エレインの宣言は北方に激震をもたらしたが、ヴァルケン王国の凍土が二週間で融け始めると、周辺の小国も次々と偶像を受け入れる。信仰と生存、どちらを選ぶかという問いに、人々は生存を選び、そして驚いたことに、信仰もまた失わなかった。
東方の遊牧民族ハルガンの長老たちは、偶像を見て笑う。
「我々の先祖は、もともと闇を恐れなかった」
草原の民にとって、夜の闇は獣と星の住処であり、恐怖と美しさが混在する場所である。ヘルゲート文化の「苦しみの中に美を見出す」思想は、厳しい遊牧生活の中で自然に培われてきた彼らの世界観と驚くほど親和性が高い。
ハルガンの歌い手たちは偶像に草原の歌を捧げ、獣皮の天幕にも偶像の小さな複製が飾られるようになった。
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世界の回復と並行して、もう一つの大きな変化が起きている。
厄地の問題である。
厄地とは瘴気に汚染された土地のことで、従来はイドラ教の浄化の儀式によってのみ一時的に清められていた。だがそれはあくまで対症療法に過ぎず、時間が経てば再び瘴気は戻り、教会はその度に高額な浄化料を徴収する。完璧な搾取のビジネスモデルである。
悪魔たちの退去によって世界中で厄地が急増する。かつて瘴気を管理していた悪魔がいなくなり、瘴気が滞る事で大陸の至る所で大地が病み始めたのだ。しかし既にイドラ教の浄化の力自体が衰えており、教会はもはや手の打ちようがない。
変化は偶像の安置と共に訪れた。
偶像の周辺では瘴気が薄れ、厄地が縮小していく現象が確認される。だが完全には消えない。偶像の信仰は世界の大枠を支えるが、かつて悪魔たちがきめ細かく管理していた局所的な瘴気の制御までは及ばなかったのだ。
この問題を解決したのは、意外にも帝都の職人たちである。
ヘルゲート・シックに染まった彼らは、瘴気を「恐れるもの」ではなく「活用するもの」として捉え始めた。厄地の土壌には通常の大地にはない独特の鉱物が含まれている。影鋼鉄の精錬に必要な希少元素が、厄地には豊富に存在していた。
最初の「厄地作業所」がドゥームズガル郊外に設立されたのは、偶像安置から半年後のことである。
作業所では、偶像を中心に据えた浄化結界の内側で、瘴気耐性の高い者たちが鉱物の採掘と精製を行う。防護装備はウェネフィカの魔術を応用したもので、完全に瘴気を遮断するのではなく、人体に害のない程度まで減衰させる設計だった。
労働者たちは自らを「厄夫」と呼ぶ。
「不幸こそ栄養、瘴気こそ活力!」
ヘルゲート家の家訓を借りたこのスローガンが、作業所の門に掲げられた。
帝都から始まった厄地作業所は、瞬く間に大陸中に広がる。南方の港湾都市では厄地から抽出した鉱物が新しい交易品となり、北方では凍土の下に眠る厄地層から暖房用の魔力石が採掘される。東方のハルガン族は、厄地の草で染めた独特の深紫色の布を「悪魔織り」と名付けて特産品にした。
厄地は忌むべき呪われた土地から、新しい秩序に適応した人々が汗を流す生産の場へと変わる。それはまさにヘルゲート文化の真髄であった。不幸や恐怖を排除するのではなく、それと共に生き、それを活かす。
世界の回復は一直線ではない。地域によって速度が違い、完全には元に戻らない場所もある。だが決定的に変わったのは、人々の態度だった。かつては厄災に怯え、教会にすがるしかなかった人々が、今は自分たちの手で問題を解決し始めている。
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イドラ教は、静かに変容していく。
聖戦の失敗と奇跡の不発は教会の権威に致命的な打撃を与えていた。各地の教区から信者の離反が報告され、献金は激減し、若い聖職者たちの間ではヘルゲート文化への共感を公然と口にする者まで現れる。
バルナバ枢機卿は最後まで旧来の教会運営に固執した。「浄化ビジネスが駄目なら別の収益源を」と画策し続けたが、彼の金ぴかの指輪が一つ、また一つと売り払われていくのを、周囲の聖職者たちは冷ややかに見ている。
アルトリウス枢機卿は静かに引退する。最後の食事として最高級のドラゴンの卵オムレツを注文し、「これも質素な夕食である」と呟いて聖都を去った。その後の消息は知れない。
聖都イドラそのものが変わり始めたのは、ゴルロイスがヘルゲート城から戻った後のことである。
大司教は大聖堂の壁に、あの偶像の複製を安置した。純白の大理石の壁に、悪趣味の極みとも言うべき彫像が異質な存在感を放つ。信者たちはざわめいたが、ゴルロイスは静かに語る。
「光は闇があってこそ輝く。苦しみは生きている証であり、絶望は希望の母胎である。我々は長い間、光だけを語り、闇を排除しようとしてきた。それは間違いだった」
イドラ教は「光と闇の調和」を説く新しい教義を採用する。浄化ビジネスは廃止された。代わりに教会は、各地の厄地作業所の支援と、厄夫たちの健康管理を新たな使命として引き受ける。
かつて搾取のための対症療法を独占していた教会が、今度は厄地と共に生きる人々を支える存在へと変わった。利益のための浄化ではなく、共生のための支援。イドラ教の聖職者たちが厄地作業所で防護結界の維持を手伝い、労働者たちの心身のケアを行う姿は、かつてのゴルロイスが見たら卒倒するような光景だろう。
だが今のゴルロイスは違う。緋色の法衣の代わりに灰色の作業着を纏い、聖都イドラの外に新設された厄地作業所を自ら視察する老人の姿が、何度も目撃されるようになった。
ユキムラは聖都を訪れた際、作業着姿のゴルロイスを見て、いつもの脱力した口調で呟く。
「あー、なんか大司教様、前よりこっちの方がかっこいいっすね」
「……うるさい」
ゴルロイスは仏頂面だったが、その目には以前にはなかった穏やかさがある。
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アモンが最後の宴を催したのは、世界に新しい調和が行き渡った、ある春の夜のことである。
ヘルゲート城の大広間。テーブルにはウェネフィカの手料理が並ぶ。料理は全て絶品だが、見た目は全て恐ろしい。最後の晩餐にふさわしく、いつも通りだった。
デスデモーナ、エリアス、リリアーナ、リチャード。
アモンは葡萄酒の杯を掲げる。
「諸君に礼を言いたい。この三十年は、私の長い存在の中で最も楽しい日々だった」
「宴の冒頭から別れの挨拶はやめていただけますか、お義父様」
エリアスが呟く。その声は平静だったが、杯を持つ手が僅かに震えている。
「そうよ、お父様。別れの言葉は最後にとっておくものですわ」
デスデモーナは笑った。だがその瞳の奥には、暗い光が揺れている。
宴は進む。
レドラムはいつもの陽気さで笑い、爆発の話をし、カスパリウスの渋面を真似し、リチャードの胃痛をからかった。ウェネフィカは静かに微笑みながら、夫の隣で毒茶を啜っている。
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宴の終わり、アモンは静かに立ち上がった。
「さて。そろそろ時間だ」
彼は間もなく去らねばならないのだ──この世界から。高位の悪魔としての余りにも巨大な存在がこの世界に留まること自体がもはや世界の負荷になる。新しい秩序が定着した以上、古い管理者は不要であった。
デスデモーナが父の手を握った。
「お父様。行かないで」
ヘルゲート家の令嬢が、生まれて初めて口にした、飾りのない懇願である。
アモンは娘の頭を撫でる。
「お前は私の最低傑作だ、デスデモーナ。お前がいる限り、この世界は退屈しないだろう」
ウェネフィカが静かにアモンの隣に立った。
「私も行くわ」
大広間の空気が凍る。
「ウェネフィカ」
「あなたは二百年の孤独を終わらせてくれた。今さらまた一人にされるのは御免よ」
彼女はいつもの平静な声で言った。
「それに退屈させたら殺すという約束、忘れていないでしょう?」
アモンは笑う。三十年間で最も、そしてこの存在の全てにおいて最も幸福な笑顔である。
「退屈はさせないさ。約束する」
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夜明け前。
アモンとウェネフィカは城の最上階に立っている。東の空が白み始めていた。
デスデモーナとエリアスが、階下から二人を見上げる。
アモンは娘に向かって、右手を挙げた。
「デスデモーナ。一つだけ、頼みがある」
「何でも」
「この世界を、厭な場所のままにしておいてくれ。今、この世界は安定している。しかしいずれまた同じ事が起こるだろう。歴史は繰り返すというやつだ。その時私は、いや、私とウェネフィカは戻ってくる。……まあ、ウェネフィカは死んでるかもしれないが、その時は彼女の霊魂を連れていく。ともあれ、その時世界に光が満ち溢れていたら、私はショックで死んでしまうかもしれない」
デスデモーナは微笑む。涙は流さなかった。ヘルゲート家の女は、別れを悲劇として嘆くのではなく、出会えたことを最高の不幸として喜ぶのだ。
「お任せください、お父様」
二人は手を繋ぎ、静かに消えていった。まるで最初からそこにいなかったかのように。夜明けの光に溶けるように。
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そして十年後──。
世界は厭なままである。
だがそれは以前のような「崩壊しつつある厭さ」ではなく、「生き生きと活力に満ちた厭さ」だった。
旧ドゥームズガル帝国領は、大陸最大の産業地帯となっている。厄地作業所を中心とした鉱業と、影鋼鉄の加工技術が結びつき、かつての灰色の帝都は「黒い繁栄の都」と呼ばれるようになった。帝都の名物は、厄地から採掘した鉱石で作った漆黒の装飾品と、ヘルゲート家直伝の「悪趣味な芸術品」である。
南方の商業都市連合は、ルミナス王国との貿易を軸に空前の繁栄を謳歌する。偶像の安置以来、港には世界中から商船が集まり、厄地の鉱物、悪魔織りの布、そして新しい信仰の書物が行き交う。盟主ポルタ・マリーナ市には大陸最大の偶像が建立され、その足元には商人たちが「今日も素敵な不幸に恵まれますように」と祈る姿があった。
北方のヴァルケン王国は女王エレインの先見の明により、大陸で最も安定した農業地帯に生まれ変わっている。凍土が溶けた後の大地は驚くほど肥沃で、かつて飢饉に苦しんだ農民たちは今や大陸の穀倉地帯を支える存在だ。エレインはルミナスと軍事同盟を結び、北方の安全保障を確立した。
東方の草原では、ハルガン族の悪魔織りと厄地の紫染料が高値で取引され、遊牧民の生活水準は飛躍的に向上する。彼らは偶像を「草原の闇の母」と呼び、天幕の中で星の歌と共にその名を讃えた。
ルミナス王国は大陸の中心にあって、この新しい秩序の要である。リチャード国王は既に王位をエリアスに譲っていた。「これ以上胃に負担をかけたくない」というのが公式の理由で、非公式の理由も、やはり同じだった。
エリアス王は冷徹で有能な統治者であると同時に、ヘルゲート家の価値観を深く内面化した稀有な人物である。彼の政策は合理的で、外交は冷酷で、そして国民の幸福度が常に大陸最高であるという事実は、多くの学者を困惑させた。
「恐怖と善政は両立する。むしろ適度な恐怖は人々を謙虚にし、善政への感謝を深める」
エリアスが国政論で述べたこの言葉は、『善政恐怖論』として大陸中の学者に引用されることになる。
ところでヘルゲート公爵家だが──断絶した。
当主レドラムとその妻が消え、一人娘のデスデモーナは王室に嫁いだからだ。家督を継ぐ者はいない。だが、実態は誰の目にも明らかである。ヘルゲート城は王家の「離宮」として管理され、デスデモーナが頻繁に足を運ぶ。黒騎兵団は王室直属の特殊部隊として再編され、カミィラが引き続き指揮を執る。ジャガンは相変わらず埋められては生えてくる。公爵家の看板が下ろされても、ヘルゲートの精神は王国そのものに溶け込んでいた。
デスデモーナは王妃として、王国の行政と外交の裏面を統括していた。公爵令嬢ではなく王妃という立場になっても彼女の本質は何も変わらない。帝都の孤児院「素敵な絶望の家」にも足繁く通い、かつて骸骨型のパンに泣いた子供たちは、今や立派な大人になり、大陸各地で厄夫や職人や商人として活躍していた。
「あの孤児院の卒業生は、どんな逆境でも笑うことができる」
それが世間の評判だった。
カスパリウスは帝国復興を諦め、旧帝都の軍事顧問として余生を過ごしている。ヘルゲート城に招かれるたびに胃を押さえ、レドラムの名を聞くたびに舌打ちをしたが、彼の口元には以前にはなかった穏やかな弧がある。
リリアーナは変わらず無表情のまま、大陸最大の諜報網を運営していた。彼女の情報は各国の政策決定に影響を与え、その正確さは「リリアーナの耳」として諸国に恐れられる。
聖都イドラの大聖堂では、ゴルロイスの後任の大司教が新しい教義に基づく祈りを捧げている。彼は元・厄夫であり、作業所で働く中で信仰に目覚めた青年だった。
大聖堂の壁には、かつてのフレスコ画の天使たちの横に、あの悪趣味な偶像の姿が描き加えられている。光と闇が一つの壁面に共存する、奇妙で、しかし不思議と調和した光景である。
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王宮からヘルゲート城の離宮へ。その最上階。
デスデモーナは毎月、王都からこの城を訪れ、父と母が消えたあの場所に立ち、東の空を見上げる。
右手の薬指には、黒曜石の指輪が二つ重ねてはめてある。
エリアスが隣に立つ。王としての公務を繰り合わせ、妻と共にこの城を訪れることを欠かさない。この日課に何も言わない。ただ黙って、妻の隣にいる。
ある朝、デスデモーナが突然笑った。
「ねえ、エリアス」
「何だい」
「この世界、十年経ってもまだ厭なことだらけよ」
「ああ。あの人の望み通りだ」
「でもね」
デスデモーナは窓の外を見た。
ヘルゲート領の湿地帯では朝靄が立ち込め、絶叫の森からは鳥の声が聞こえる。遠くに見える帝都の煙突からは黒い煙が上がり、南方の方角からは潮の匂いが微かに届く。
大陸中に散らばった厄地作業所では、厄夫たちが今日も瘴気の中で汗を流している。聖都イドラでは聖職者たちが偶像の前で祈りを捧げ、東方の草原ではハルガン族が闇の母の歌を歌い、南方の港では商人たちが不幸自慢をしながら商談をまとめている。
世界は厭なままだ。
だがそれはアモンが望んだ通りの、最高に悪趣味で、最高に不幸で、そして最高に幸福な世界である。
「お父様が遺してくれたこの世界を、わたくしはもっともっと厭な場所にしてみせますわ」
デスデモーナは微笑んだ。それは父から受け継いだ、不吉で、陽気で、そして温かい微笑みである。
めでたし、めでたし。
いや、やっぱり全然めでたくない。
(了)




