厭な世界①
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占領から一ヶ月が経っていた。
帝都ドゥームズガルに変化が訪れたのは、まず匂いからである。
灰色の街路を満たしていた腐食した下水と冷えた石壁の匂いに替わって、焼きたてのパンの香りが漂い始める。路地裏の水溜まりは消え、代わりに魔導灯の柔らかな光が石畳を照らしている。
エリアスが帝都統治の責任者に任命されていた。
彼がまず手をつけたのは仕事だった。帝都のインフラ整備、魔導技術の普及、影鋼鉄の加工工場の建設。すべてにルミナスの先進技術が投入され、帝都は半月で帝国時代の十年分の近代化を遂げる。
給金は帝国時代より良い。労働環境も改善されている。
「……あの、これは罠ですよね?」
帝都の商人が王国の行政官に恐る恐る尋ねた。
「いつ本性を見せるんだ?」
「本性?」
行政官は首を傾げる。この行政官はルミナス王国の出身であり、帝国の常識を知らない。彼にとって、仕事を与え、正当な給金を支払い、生活を保障するのは「当然のこと」だった。
帝都民は困惑する。数ヶ月経っても本性を見せない。むしろどんどん暮らしが良くなっていく。水道が引かれ、夜道に灯りがともり、市場には豊富な食糧が並ぶ。
ここまでならば、話は単純な美談で終わる。
だが統治の実務にヘルゲート公爵家が関わっている以上、単純で済むはずがない。
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デスデモーナが帝都に孤児院を設立した。
名前は「素敵な絶望の家」。
帝都民は看板を二度見し、三度見し、通報すべきか迷った末に恐る恐る中を覗く。
中では子供たちが元気に走り回っている。栄養満点の食事が三食提供され、清潔な寝床があり、読み書きと算術の授業まで用意されていた。施設としては大陸でも有数の充実ぶりである。
ただし一点を除いて。
給食の見た目が恐ろしい。
シチューは血のように赤く、パンは骸骨の形に焼かれ、デザートの果物は眼球に似せて盛りつけてある。味は絶品なのだが、食べるまでに相当な勇気を要する。
「これは恐怖克服訓練ですわ」
デスデモーナは満面の笑みで説明した。
「見た目に怯えていては、本当に大切なものを見落とします。恐怖を乗り越えた先にこそ、真の喜びがあるのです」
子供たちは最初の三日は泣いた。一週間で慣れ、一ヶ月後には骸骨パンを奪い合うようになる。
帝都民の間にある種の諦観が広がり始めている。
「怖い。怖いけど……暮らしやすい……」
それがこの時期の帝都を最も正確に表す言葉であった。
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占領から一年。
帝都の変貌は、大陸中の外交官たちを絶句させた。
経済は帝国時代を凌駕する勢いで発展している。魔導科学技術の導入により生産性が飛躍的に向上し、失業率は激減した。治安も改善されていた。なぜ改善されたかと言えば、ヘルゲート家の「治安維持」が怖すぎて犯罪者が自首してくるためである。
帝都の治安維持を実質的に担っていたのは、ヘルゲート公爵家直属の黒騎兵団だった。
全身漆黒の甲冑を纏い、漆黒の軍馬に跨る彼らが帝都の大通りを巡回する光景は、もはやドゥームズガルの日常風景になっている。騎兵団の蹄の音が石畳に響くたびに商人たちは店の中に引っ込み、子供たちは窓の隙間から恐る恐る覗き見る。だが暴力を振るわれた者は一人もいない。彼らの存在そのものが、最上の治安維持装置なのだ。
隊長のカミィラは銀髪の美女であり、レドラムへの忠誠は狂信に近い。彼女は巡回中に犯罪者を見つけると、まるで「お茶のお代わりはいかがですか」とでも言うような口調で「では、皆殺しにしなければなりませんね」と告げる。犯罪者たちはその微笑みを見た瞬間に降伏した。殺気の次元が違う。聖騎士団すら無力化したことのある彼女の実力は、帝都に着任して三日で周知の事実となっている。
副隊長のジャガンは、カミィラとは対照的に粗暴で衝動的な男である。命令違反が多く、カミィラに何度も「裏庭に埋められた」経験を持つ。三日もすれば生えてくるので本人はあまり気にしていない様子だが、帝都民はこの噂を聞いて「埋められても死なない兵士」という新しい種類の恐怖を学んだ。
デスデモーナが発案した「更生プログラム」も治安改善に寄与している。犯罪者は捕まると、ヘルゲート城で一週間の「歓待」を受ける。歓待の内容は非公開だが、出てきた犯罪者は例外なく真人間になっていた。中には出所後に慈善事業を始める者もいる。
「あの方々を真人間に戻してしまう公爵令嬢が一番怖い」
帝都の自治会長がひそひそと漏らした言葉は、すぐに帝都中に広まった。
元帝国の貴族たちの反応は二極化する。
抵抗派は帝国復興を掲げて地下組織を結成した。レドラムはそれを知ると、わざわざ地下組織のアジトに花束を持って訪問し、「素晴らしい反骨精神だ! 応援しているぞ!」と激励する。抵抗派は激励されたことに激しく困惑し、次の会合で「あの男に応援されている我々は、本当に正しいことをしているのだろうか」と実存的な疑問に陥った。
順応派はすでにヘルゲート・シックに染まり始めている。黒いドレスを纏い、不吉な装飾品を身につけ、「不幸自慢」を社交の場で披露する。帝都の職人たちが「悪趣味な芸術品」の製作に目覚め、灰色だった帝都の街並みに奇妙な活力が生まれていた。影鋼鉄の加工工房では腕利きの鍛冶師たちが競って不気味な装飾品を生み出し、帝都中央市場の「呪われた骨董品コーナー」は連日大盛況である。
リリアーナは帝都の諜報網を再構築していた。元スパイとしての能力が遺憾なく発揮される。抵抗派の動向、外国からの密偵、商業上の不正、すべてがリリアーナの監視の目を通過する。彼女の手がけた情報網は後に大陸全土に拡大し、各国の外交官たちが本国への報告書に「ルミナスの目は見えない」と恐れをこめて記すことになる。
「お嬢様。帝都の治安報告です」
「ありがとう、リリアーナ。今日は何人泣かせたの?」
「三名です。うち一名は感極まって泣いたものですので、正確には二名かと」
「あら。少ないわね」
「申し訳ございません」
リリアーナは深々と頭を下げた。表情は微動だにしない。もはやこの会話に違和感を覚える者は、ヘルゲート家の誰一人としていない。
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帝都の繁栄は大陸中に衝撃を与えた。
各国の外交使節がルミナス王国を訪れ、その「秘密」を探ろうとする。答えはすぐに見つかった。ヘルゲート公爵家だ。あの常軌を逸した一族が、なぜか驚くほど有能な統治能力を持っている。恐怖と善政を同時に実現するという、通常ならば矛盾するはずの二つの要素を、彼らは天然でやってのけているのである。
大陸各地でヘルゲート・シックが自然発生的に広がり始めていた。特に若者たちの間で爆発的に流行する。「不幸こそ美学」「絶望こそ芸術」。そんなスローガンが大陸を席巻していく。黒い衣装。陰鬱な詩。悲劇的な恋愛譚。すべてがヘルゲート一族の美意識から生まれ、独自に変容し、各地の文化と融合して拡散していった。
この流行を、ある者は「文化の革新」と呼び、ある者は「社会の退廃」と呼ぶ。
だが最も強い言葉を使ったのは、大陸の宗教組織「イドラ教」であった。
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聖都イドラ。大理石の純白が目に眩しいこの信仰の中心地は、外界の混乱など知らぬ顔で今日も神々しい秩序と、そして何よりも金の匂いに満ちている。
教皇庁の最深部、『黄金の枢機卿の間』。天井のフレスコ画に描かれた天使たちが下界を見下ろす中、大陸で最も神に近いとされる老人たちが、極めて俗悪な議題について話し合っていた。
「困りましたな」
財務担当のバルナバ枢機卿が小太りの体を揺すりながら唸る。十指にはめた金ぴかの指輪がシャンデリアの光を受けてぎらつく。
「旧帝国領からの浄化依頼が激減しております。あのルミナス王国の統治が上手くいきすぎているのです。厄地が減っている。厄地が減れば、浄化の需要が減る。需要が減れば、献金が減る」
「嘆かわしいことですな」
最高齢のアルトリウス枢機卿が重々しく頷いた。彼の前には最高級のキャビアと、希少なドラゴンの卵で作ったオムレツが山と盛られている。もちろんこれは「質素な昼食」である。
「さらに厄介な問題がございます」
ゴルロイス大司教がその豪華な緋色の法衣を翻して立ち上がる。手にした報告書を枢機卿たちの前に叩きつけた。
「ヘルゲート・シックなる流行が大陸中に蔓延しております。旧帝国領では若者の五割が黒衣を纏い、『不幸こそ美学』などと唱えている。我らが説く『光あれ』の教えとは真っ向から対立する思想です」
枢機卿たちがざわめく。
ゴルロイスの顔が法衣と同じ色に染まる。以前、ルミナス王国の特別外務卿ユキムラにしてやられた屈辱が蘇ったのだ。あの男は「神からの全権委任状」の有無を問い、光神の代理人たる自分を論破した。あの時の恥は忘れていない。
「苦しみから救済されることこそ信仰の本質である。それを否定し、苦しみを美化するヘルゲート一族の価値観は、聖なる光の教えへの冒涜に他なりません」
ゴルロイスは声を張り上げた。
「彼らは死と絶望を礼賛し、善なるものを嘲笑う。浄化ビジネスの顧客を奪うだけでなく、我々の教義そのものを無力化しようとしている。これは、悪魔の仕業です」
バルナバが目を細める。
「浄化ビジネスの収益低下は確かに深刻ですな。サステナビリティが脅かされている」
彼が言うサステナビリティとは本来、持続可能性を意味する言葉だが、イドラ教においては「長期にわたって利益を搾取し続ける能力」という意味で使われていた。
枢機卿たちはそれぞれの豪華な食事をつつきながら、ヘルゲート一族への対抗策を練り始める。
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イドラ教が公式に「ヘルゲート一族の価値観は光神の教えに反する異端思想である」との声明を発表したのは、それから一週間後のことであった。
デスデモーナは声明の写しを読んで、心から嬉しそうに微笑む。
「まあ! 悪魔の仕業ですって! なんて素敵な評価でしょう!」
レドラムは一瞬だけ、いつもと違う顔をした。
陽気な仮面の下に隠された何か。それは感傷とも懐旧とも、あるいは痛みとも呼べるものだった。だがそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの笑顔に戻っている。
「いやはや、ゴルロイス殿にそこまで気に入られるとは光栄ですな! あの方は以前、ユキムラ殿に随分と面白いことを言われていたが、学習しないところが実に愛おしい!」
ウェネフィカだけが、夫のその一瞬を見逃さなかった。だが彼女は何も言わない。二百年を生きた魔女は、問うべき時と黙るべき時を知っている。
世界は静かに、しかし確実に、次の嵐へ向かって動き始めていた。




