厭な大戦争①
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魔導鉄道の開通から半年。ルミナス王国は今、狂騒と呼ぶにふさわしい時代を迎えている。
もし歴史家がこの時代を記述するならば、「魔導産業革命の黎明期」などといった退屈な表現を用いるのだろうが、実態はもっと混沌としており、色彩豊かで、そして決定的に頭がおかしかった。
進歩とは常に理性の仮面を被った欲望の暴走に他ならない。ルミナス王国の場合、その仮面すら最初からかなぐり捨てていたという点で、実に潔いと言えるかもしれない。
王都とヘルゲート公爵領を結ぶ大動脈は文字通り国家の血流を変えた。
魔石という名の高カロリーなエネルギー源が絶え間なく供給され、王都の工場群は二十四時間体制で稼働する。煙突から吐き出される極彩色のスモッグは今や王都の象徴となり、市民たちはその日の煙の色で気分を占うのが流行していた。「今日は絶望的なマゼンタだ。きっと素敵な事故が起きるぞ」といった具合に。
魔石はクリーンなエネルギーだ。環境を汚染しない。しかも素晴らしい事に、資源が枯渇することも当面はない。なぜならばこの魔石とは、厄地でいくらでも産出されるからである。
人間に負の感情がある限り厄地は消えず、そして厄地の排泄物とも言える魔石もまた消えない。
結句、経済は爆発的に成長した。
街には物が溢れ、人々は陰鬱な流行に浮かれ、そして誰もがこの狂った繁栄が永遠に続くと信じて疑わない。あるいは明日世界が滅びるとしても、それはそれで最高に面白いだろうと考える者も少なくなかったのである。
そんな狂騒の中心地、王立魔術科学院の中庭で、今まさに新たな時代の扉が開かれようとしている。
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「諸君! 刮目せよ! これこそが移動の概念を根底から覆す、究極の乗り物である!」
大仰な身振りでそう叫んだのは魔導科学技術開発局の局長、シェンロン・ハスクであった。長身痩躯で、常に神経質そうに目を動かし、そして絶望的なまでに自信過剰なこの男は魔導蒸気機関の実用化を主導した天才であり、同時に希代のペテン師でもある。
彼は常に未来を語る。それも、五年後や十年後といった生温い未来ではない。五分後と五百年後を同時に語るような、奇妙な時間感覚の持ち主だ。
彼の背後に鎮座しているのは馬車から馬を取り除き、代わりに小型の魔導蒸気機関を搭載した奇妙な乗り物──『魔導車』の試作一号機である。
車体はヘルゲート家の美学に基づき漆黒に塗られ、至る所に無意味な棘が突き出し、ヘッドライトは不気味な紫色に輝いていた。
「馬などという前時代的な代物に頼る時代は終わった!」
ハスクは演説を続けた。
「これからは魔石の時代だ! この魔導車はやがて空を飛び、海を潜り、そして最終的には星々の間を駆け巡るだろう! 私は本気だ!」
今日の試乗会に招かれたのはこのプロジェクトの最大の出資者であり、そして最大の狂信者でもあるエリアスとデスデモーナである。彼らの悪趣味なデザイン案が通ったのもパトロンだからだ。
「素晴らしいわ、ハスク局長!」デスデモーナが感嘆の声を上げた。「この不吉なフォルム! この威圧感! そしてこの、今にも爆発しそうな不安定さ! まさに未来の乗り物ですわ!」
「同感だ、デスデモーナ!」エリアスも興奮した様子で頷いた。ヘルゲート家での生活を経て、彼の精神は完全に新しい形へと作り変えられている。今や彼は狂気を愛し、危険を楽しみ、そして悪趣味を追求することに何の躊躇もない。「さあ、早速乗ってみようではないか!」
二人は魔導車に乗り込んだ。内装もまた、彼らの趣味が反映されている。座席は棺桶のように狭く、居心地が良いとはおってもいえない。
「では性能についてご説明します」ハスクが誇らしげに言った。「この試作機の最高速度はなんと時速十五キロルにも達します!」
時速十五キロル。訓練された軍馬の半分以下の速度であり、なんなら走った方が早い。
だがエリアスとデスデモーナの反応は違った。
「時速十五キロル!」エリアスが目を見開いた。「そんなにゆっくりなのか! 素晴らしい!」
「ええ、本当に!」デスデモーナも同意する。「速さなど、野蛮な者の求めるもの。真の贅沢とは時間を無駄にすることですわ。このゆっくりとした速度で、陰鬱な景色を眺めながら移動するなんて、最高にロマンチックだわ!」
「仰る通りです! 物事の本質を理解しておられる!」
ハスクは即座に迎合した。この男は自分の発明品がどう評価されようと気にしない。重要なのはそれが注目を集め、資金を引き出すことだけなのだ。
「では出発進行!」
魔導車はけたたましい蒸気音と不吉な金属の軋む音を立てながら、ゆっくりと動き出した。
「おお、動いたぞ!」エリアスが歓喜の声を上げた。
「素晴らしい乗り心地ですわ!」デスデモーナもうっとりと呟いた。「この振動! この騒音! まるで、生き埋めにされながら移動しているようだわ!」
二人はノロノロと中庭を周回する魔導車の中で、まるで世界の果てに向かう旅に出たかのように興奮していた。それを見守る観衆も無駄に騒ぎ立てている。ルミナス王国は狂気という名の燃料を燃やしながら、未来へと向かって暴走し始めていた。
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狂気は伝染する。そしてそれは国家という単位においても例外ではない。
ルミナス王国の歪んだ繁栄は周辺諸国に複雑な感情を抱かせていた。羨望、嫉妬、そして何より、深い恐怖。
この状況を最も深刻に受け止めていたのは東方のドゥームズガル帝国であった。
かつて大陸の覇権を握っていたこの老大国は今や衰退の一途を辿っている。世界的な凶作の影響は特に深刻で、国土の多くが荒廃し、民衆は飢餓に喘いでいた。そして、先のルミナス王国への侵攻失敗は帝国の威信に致命的な打撃を与えていたのだ。
帝都──かつての栄光は色褪せ、街には絶望と不満が渦巻いている。
そんな帝都の一角にある古びた酒場で、秘密の会合が開かれていた。集まったのは帝国陸軍の若き将校たち。彼らは皆、祖国の現状に絶望し、そしてルミナス王国への激しい憎悪を燃やしていた。
「このままでは帝国は滅びる」
リーダー格の青年、アレクセイ少佐が拳をテーブルに叩きつけた。彼の目は血走り、その顔には理想主義者特有の危うい輝きが宿る。
「腐敗した官僚どもは私腹を肥やすことしか考えず、軍上層部は過去の栄光に縋り、現実を見ようとしない! そして、あの忌まわしきルミナス王国は我々の不幸を嘲笑うかのように繁栄を謳歌している!」
「そうだ!」別の将校が同意した。「奴らのあの悪趣味な繁栄は我々の犠牲の上に成り立っている! 奴らが魔術などという異端の力に手を出したから、世界が歪み、凶作が広がったのだ!」
それは完全な言いがかりだったが極限状態に置かれた人間は単純で分かりやすい敵を必要とする。
人間心理学において認知的不協和という概念がある。自らの信念と現実が矛盾する時、人はその矛盾を解消するために現実の解釈を歪める傾向がある。彼らは「帝国が衰退しているのは自分たちの責任ではなく、外部の邪悪な力によるものだ」と信じることで、かろうじて精神の均衡を保っていたのである。実に哀れで、そして危険な状態と言えよう。
「今こそ、決起の時だ」アレクセイが宣言した。「腐った政府を打倒し、皇帝陛下を奸臣どもの手から解放する! そして、新たな秩序の下、帝国の栄光を取り戻すのだ!」
彼らの決意は固かった。だがそれは正義感や愛国心といった高尚なものだけではない。むしろ、この絶望的な現実から逃げ出したいという、極めて利己的で、そして破滅的な衝動に突き動かされていた。
そして、運命の日が訪れる。
その日は朝から、季節外れの雪が降っていた。いや、それは雪ではなかったのかもしれない。どこかの火山が噴火した影響で降ってきた、灰色の火山灰だったのかもしれない。いずれにせよ、それは帝都の空を不吉な色に染め上げ、人々の不安を煽るには十分な効果を発揮した。
アレクセイ少佐率いる決起部隊は夜明けと共に一斉に行動を開始した。彼らの最初の標的は宰相府である。
「逆賊どもめ! 何をするか!」
宰相は寝室から引きずり出され、抗議の声を上げたがその声はすぐに銃声によってかき消された。アレクセイは感情のこもらない目で、血塗れの宰相を見下ろす。
「帝国の未来のために死んでもらう」
それはクーデターというよりはむしろテロリズムに近い、粗雑で暴力的な権力奪取だった。彼らは次々と閣僚たちの屋敷を襲撃し、少しでも抵抗する者は容赦なく殺害した。軍務卿、財務大臣、内務大臣……帝国の重鎮たちが次々と血の海に沈んでいく。
帝都は混乱と恐怖に包まれた。銃声と悲鳴が飛び交い、あちこちで火の手が上がる。
そして彼らは最後に皇居へと向かった。
皇帝は玉座の間で、蒼白な顔で彼らを待ち受けていた。彼はまだ若く、そして病弱だった。彼にはこの事態を収拾する力も、気力もなかった。
「アレクセイ少佐……これはどういうことだ」
皇帝が震える声で尋ねた。
「陛下」アレクセイは恭しく膝をついた。「我々は陛下をお救いするために参上いたしました。もはや、あの腐った政府に任せておくわけにはいきません。これからは我々が陛下をお支えし、新たな帝国を築き上げるのです」
それは恭順の形をとっていたがその実、有無を言わせぬ脅迫である。皇帝はアレクセイの背後に立つ、血に飢えた兵士たちの姿を見て、全てを悟った。彼はもはや、彼らの傀儡となるしかないのだ。事実上の監禁である。
「……分かった。全てをそなたたちに任せる」
皇帝が力なく頷いた瞬間、ドゥームズガル帝国はその歴史に新たな、そして最も暗黒な一ページを開いた。軍事政権の誕生である。
アレクセイは勝利の余韻に浸る間もなく、次の行動に移った。彼は知っていた。この不安定な政権を維持するためには国民の不満を外部に向けさせる必要がある。そのためには共通の敵が必要だ。
彼は玉座の間のバルコニーに立ち、集まった群衆に向かって高らかに宣言した。
「帝国の民よ、聞け! 我々は今、新たな時代の幕開けを迎えた! 腐敗した政府は打倒され、真の秩序が回復されたのだ!」
群衆は半信半疑の表情で彼を見上げていた。だが彼の次の言葉で、その表情は熱狂へと変わった。
「だが我々の戦いはまだ終わっていない! 我々の不幸の元凶、あの邪悪なるルミナス王国が未だにのさばっている! 奴らは我々から富を奪い、我々の誇りを踏みにじった! この屈辱を晴らさでおくものか!」
アレクセイは剣を抜き放ち、ルミナス王国の方角を指差した。
「ここに宣言する! ドゥームズガル帝国はルミナス王国に対し、宣戦を布告する! これは聖戦である! 我々の栄光を取り戻すための、最後の戦いである!」
群衆から、地響きのような歓声が上がった。彼らは飢えと絶望の中で、ようやく見つけた希望に熱狂していた。それがさらなる地獄への入り口であるとも知らずに。
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その報がルミナス王国の王城に届いたのはその数日後のことだった。
「ドゥームズガル帝国にて軍事クーデター発生。新政権が我が国に対し、宣戦を布告いたしました」
ガンジャは淡々と事実を述べた。常に冷静沈着なこの男は、宣戦布告の報でも明日の天気予報でも同じ面をしてそれを受けるだろう。
「やれやれ、あの国もなぜ我が国を目の敵にするのか……」
リチャードが溜息をつく。
その時、執務室の扉がノックされた。入ってきたのはエリアスだった。
「父上、お話は伺いました」
エリアスはいつものように冷静沈着な表情で言った。だがその瞳の奥には奇妙な興奮の色が宿っている。
「ドゥームズガル帝国が宣戦布告。素晴らしいニュースです」
「素晴らしい、だと?」リチャードは眉をひそめた。「これは戦争だぞ」
「ええ、存じております」エリアスは頷いた。「ですがこれは我々にとって絶好の機会でもあります。レドラム公爵がこのように仰っておりました。技術の進歩とは常に戦争によって齎されるものだ、と」
エリアスはうっとりとした表情で続けた。
「この戦争は絶望と狂気の戦いです。帝国が前者、そして我らが後者です。どちらがより深く、より美しい地獄を作り出せるか。実に興味深い実験ではありませんか」
それを聞いたリチャードはそれも一理ある、と内心で頷く。




