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連載「嫌な公爵家」  作者: 埴輪庭


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26/29

厭な王国⑤

 ◆


 気球の旅とは控えめに言っても快適とは程遠い。それがヘルゲート公爵家謹製の代物であればなおさらである。


 カスパリウス・ヴォル・ガイア元帥は狭い籠の中で三日三晩、止まらぬくしゃみと、そして何よりも隣で上機嫌に鼻歌を歌い続ける宿敵の存在に耐えねばならなかった。彼の誇り高き軍服は涙と鼻水で汚れ、その威厳はもはや見る影もない。時折、レドラムが「気分転換だ!」と叫んで投下する「くしゃみ爆弾(追加分)」が眼下で炸裂するたび、カスパリウスの精神は新たな屈辱の層で塗り固められていく。


 そして今、彼はヘルゲート公爵邸の最も陰鬱で、最も居心地の悪い客室の一つに放り込まれていた。壁には所有者を次々と不幸にしたという曰く付きの肖像画が並び、ベッドはまるで拷問台のように硬く、窓の外には陰惨な湿地帯が広がっている。常人ならば発狂するような環境だが、カスパリウスにとっては奇妙な安堵があった。


(……戻ってきてしまった)


 それは敗北感であり、同時に地獄の底でようやく足を着ける地面を見つけたような倒錯した安堵。少なくともここでは偽善という名の見えない敵に怯える必要はない。敵は明確で、邪悪で、そして目の前にいるのだから。


 コンコン、と控えめなノックの音が響く。入ってきたのは青白い顔をした執事だった。


「元帥閣下。旦那様がお呼びでございます。書斎までお越しください」


 カスパリウスは無言で立ち上がる。彼の心には重い鉛のような塊が沈んでいた。これから彼は最も言いたくない言葉を、最も言いたくない相手に告げねばならない。


 ◆


 レドラムの書斎は積年の埃と、革表紙と、そして微かな硝煙の匂いが混じり合った、混沌そのもののような空間であった。壁一面の本棚には禁書や呪術書がぎっしりと並び、机の上には用途不明の実験器具や、動物の頭蓋骨が散乱している。そして部屋の隅には最新式の拷問椅子が、まるで芸術品のように鎮座していた。


「おお、来たかね、カスパリウス元帥!」


 レドラムは上機嫌で彼を迎えた。その手には血のように赤いワインが注がれたグラスが握られている。


「どうだね、我が家の客室は。気に入ってもらえたかね? 貴殿のために特別に最も不快指数が高い部屋を選んだのだぞ!」


 カスパリウスはレドラムを睨みつけた。その瞳には怒りと、そしてそれを上回る深い疲労が宿る。くしゃみは止まったが、肋骨のあたりがまだ痛む。


「……レドラム」


 カスパリウスは低く、唸るように言った。彼の喉から言葉が絞り出される。それはまるで錆びついた歯車が無理やり回されるような、苦痛に満ちた音だった。


「貴様を許したわけではない。貴様の所業は我が国の秩序を乱し、神を冒涜するものだ。その考えは今も変わらん」


「素晴らしい!」


 レドラムは手を叩いて喜んだ。


「その凝り固まった正義感! その融通の利かない頑固さ! それこそが貴殿の魅力だ!」


 カスパリウスは拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。だが、彼はその痛みを利用して、次の言葉を無理やり引きずり出した。


「だが……」


 彼の呼吸が浅くなる。心臓が奇妙な音を立てて脈打つ。それは彼が信じてきた世界が音を立てて崩壊する音だった。


「……礼を、言う」


 その言葉はまるで喉に詰まった異物を吐き出すかのように彼の口から転がり落ちた。


 恩義というものは時に鉄枷よりも重く、そして毒薬よりも苦い。特にその恩義が最も憎むべき相手から施されたものである場合、その心理的負荷は計り知れない。歴史的にも、敵将から受けた恩情に報いるために自らの命を絶った武将の例は枚挙に暇がない。それは単なる律儀さではなく、自らのアイデンティティを保つための、最後の抵抗なのである。


「私と、私の部下たちの命を救ったこと。それは紛れもない事実だ。騎士として、その恩義は認めねばならん」


 一瞬の沈黙。そして、レドラムは腹を抱えて笑い出した。


「はははは! 傑作だ! あの誇り高きカスパリウス元帥が、この私に礼を言うとは! これは歴史的瞬間だぞ! 誰か、記録に残しておけ!」


 その反応は予想通りだった。だが、カスパリウスはもはや怒りを感じることすらできなかった。彼の心は聖都イドラで見た光景によって、完全に凍りついていたからだ。


「……貴様は知っていたのだな」


 カスパリウスは虚ろな目でレドラムを見た。


「聖都イドラが、どれほど腐敗しているかを」


「もちろん!」


 レドラムは陽気に答えた。


「あの偽善者どもの巣窟が、どれほど俗悪で、退屈で、そして致命的に悪趣味であるか、私は誰よりも知っている!」


 レドラムはワインを一口含み、愉快そうに続けた。


「彼らの『浄化ビジネス』は実に巧妙だ。恐怖を煽り、偽りの希望を売りつけ、人々の絶望を食い物にする。実に合理的で、効率的で、そして邪悪なシステムだ。だが、美学がない! 彼らの悪はあまりにも凡庸すぎる!」


 その言葉にカスパリウスは深い溜息をついた。彼が信じてきた秩序、彼が守ろうとしてきた世界。そのすべてが、欺瞞の上に成り立っていた。


「……この国は狂っている」


 カスパリウスは呟いた。


「ヘルゲートの狂気に毒され、人々は常軌を逸した流行に浮かれている。だが……」


 彼は窓の外に目をやった。ヘルゲート公爵領の空は今日もどんよりと曇っている。だが、その下で繰り広げられているのは悲劇ではなかった。


「あの偽善者どもの都よりは……まだ、息ができる」


「そうだろうとも!」


 レドラムは満足げに頷いた。


「我が国は健全だ! 狂気と、混沌と、そして悪趣味に満ちた、世界で最も不健全で、最も幸福な国だ!」


 その時、カスパリウスの脳裏にある光景が浮かんだ。国境近くの村で見た、あの悲劇。石を投げつけられる「ケガレ」の女性。そして、それを神の御心と信じて疑わない村人たち。


「……レドラム」


 カスパリウスは再び口を開いた。その声には先ほどまでの疲労とは異なる、奇妙な熱がこもっていた。


「貴様に頼みたいことがある」


「ほう?」レドラムは興味深そうに眉を上げた。


「私に頼み事とは。いよいよ世界も終わりかね」


「聖都イドラ、そして大陸中で、虐げられている『ケガレ』たちを救出できないか」


 その言葉にレドラムは一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。だが、すぐにそれは冷ややかな笑みに変わる。


「救出? 私が? 彼らを?」


「そうだ。貴様ならできるはずだ。貴様の持つ力と、そして狂気があれば、あの偽善者どもに対抗できる唯一の存在だ」


 カスパリウスは必死だった。彼の騎士道精神はあの理不尽な暴力を許すことができなかった。たとえ相手が悪魔であっても、その力を使って弱き者を救うことができるのなら。


 だが、レドラムの反応は彼の期待を裏切るものだった。


「断る」


 レドラムは事も無げに言った。


「なぜだ!?」


 カスパリウスは思わず叫んだ。


「貴様はイドラ教団を敵視しているではないか! 奴らの鼻を明かす絶好の機会だぞ!」


「確かにあの禿鷹どもは気に入らん」


 レドラムはワイングラスを弄びながら、退屈そうに言った。


「だが、それはそれ、これはこれだ。私は慈善家ではない。ましてや、英雄でもない」


 彼は立ち上がり、カスパリウスに近づいた。その瞳には先ほどまでの陽気さとは異なる、冷たく、酷薄な光が宿っている。


「カスパリウス元帥。貴殿は根本的な勘違いをしているようだ」


 レドラムは静かにだが有無を言わせぬ声で告げた。


「自らを救わんと欲しないものを助けるなど、そんな事は神の所業ではないかね。私はそんな残酷な事はできんよ」


「残酷だと?」


 カスパリウスは絶句した。


「弱き者を救うことが、なぜ残酷なのだ!」


「簡単なことだ」


 レドラムは嘲るように笑った。


「彼らは自らの不幸を受け入れている。自らの境遇を嘆き、神に祈り、そしてスケープゴートを差し出すことで、かろうじて精神の均衡を保っている。それはそれで、一つの完成された世界だ」


 レドラムは続ける。


「そこに外部から『救い』という名の劇薬を投与すればどうなる? 彼らは自らの無力さを痛感し、新たな絶望に苛まれる。あるいは救われたことに感謝するどころか、もっと多くを求めて際限なく増長するかもしれん。それは彼らにとって、真の幸福と言えるのかね?」


 レドラムの言葉はカスパリウスの信念を根底から揺さぶった。


「貴殿が見たあの『ケガレ』の女性。彼女は本当に救いを求めていたかね? もしかしたら、あの悲劇のヒロインという役割に酔いしれていたのかもしれんぞ? それを邪魔するなど、無粋というものだ」


「馬鹿な……」


 カスパリウスは呻いた。


「そんなはずはない……」


「私はな、カスパリウス元帥」


 レドラムは再び椅子に腰を下ろした。


「自らの意志で悪を為す者を愛する。自らの欲望のために他者を踏み躙る者を尊敬する。そして、その結果として破滅する者を、心から祝福する。だが、ただ流されるだけの無力な存在には何の興味もない。だから私は彼らを救わない。彼らが自らの力で立ち上がり、あの偽善者どもに反逆するのなら、その時は喜んで手を貸そう。最高の武器と、最悪の陰謀を提供してやる。だが、ただ泣いているだけの子供に飴をやる趣味はない」


 カスパリウスは言葉を失った。なぜなら、レドラムへの怒りといった反発心が湧いてこなかったからだ。心のどこかで、レドラムの言葉をカスパリウス自身も認めてしまったからだ。



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