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連載「嫌な公爵家」  作者: 埴輪庭


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厭な王国③

 ◆


 亡命とは言ってしまえば大げさな家出である。


 それは政治的信念や宗教的迫害といった高尚な理由で粉飾されるが、その根底にあるのは「もうこんな家(国)にはいられない!」という、極めて個人的で、そしていささか子供じみた衝動に他ならない。歴史上、成功した亡命ばかりが語られるのは、歴史というものが常に生存者バイアスによって歪められているからだ。故郷の味を懐かしみながら異国の地で野垂れ死んだ無数の魂は、記録に残ることなく消えていく。


 そして今、ルミナス王国の元帥カスパリウス・ヴォル・ガイアは、この生存者バイアスという名の泥濘に自ら頭から突っ込もうとしていた。


 彼と彼に付き従う数十名の貴族たちはヘルゲート家の狂気に汚染された祖国を捨て、神の秩序が支配する(はずの)聖都イドラを目指していた。彼らの胸には正義と常識という名の、重く、そして今となっては少々時代遅れの荷物が詰まっている。


 だが彼らの英雄的な決意は国境を越えた瞬間に、文字通り粉々に打ち砕かれることとなった。


 ルミナス王国の、あの忌々しいほど陰鬱で、しかし奇妙な活気に満ちた空気が、境界線を越えた途端にがらりとその質を変えたのである。


 そこに広がっていたのは──地獄だった。


 それも極めて常識的で、退屈な地獄。


 大地は乾ききり、まるで巨大な死体の皮膚のようにひび割れている。空は抜けるように青いが、その青さは生命の輝きではなく虚無の深淵を思わせた。そして何より空気が絶望の匂いを帯びている。


「……これが、外の世界か」


 カスパリウスは馬上で呻くように呟いた。彼はルミナス王国が狂っていると信じて疑わなかった。だがこの眼前に広がる荒廃と飢餓は、狂気などという生易しいものではない。


 一行がある村に立ち寄った時のことだ。そこはもはや村としての機能を失い、人々は幽鬼のように痩せ細り、虚ろな目をしていた。そうしてその村の広場で、彼らは異様な光景を目撃することになる。


 一人の若い女性が、広場の中央に引きずり出されていた。彼女の顔には生まれつきの大きな痣があった。それだけの理由で彼女は「ケガレ」と呼ばれ、村人たちから石を投げつけられていたのである。


「この悪魔の子め! お前のせいで雨が降らないんだ!」


「死んでしまえ! お前が疫病を広めているんだ!」


 村人たちは口々に罵声を浴びせ、手に持った石を容赦なく投げつける。


 人間は極度のストレス下に置かれると、論理的思考を放棄し、最も単純で、最も残酷な解決策に飛びつく傾向がある。飢餓という極限状況において、人々はスケープゴートを必要とするのだ。特定の個人に全ての責任を転嫁することで、自らの不安を解消しようとする防衛機制。醜悪と言わざるを得ないだろう。


「やめぬか!」


 カスパリウスは堪らず叫んだ。この男は短気だしやや老害気質な面もあるのだが、それでも騎士道精神に溢れた立派な男である。そんな男がこの理不尽な暴力を許すはずなどない。


「弱い者いじめなど、恥を知れ! これが神の教えだというのか!」


 だが、村人たちは血走った目でカスパリウスを睨みつけた。


「余所者が口を出すな! こいつはケガレだ! 人間じゃねえ! こいつを始末することが、神の御心に適うことなんだよ!」


 その言葉にカスパリウスは言葉を失う。自身が信じてきた秩序とはこのような形で維持されていたのか。


(ルミナス王国では……)


 彼の脳裏に、あの狂った王都の光景が浮かんだ。そこでは、「ケガレ」は個性として歓迎され、奇妙な尊敬を集めていた。あの悪趣味な流行が皮肉にもこの女性のような存在を守っていたのだ。


(いや、あれは狂気だ。断じて認めるわけにはいかん)


 カスパリウスは頭を振って、その考えを打ち消した。だが彼の心には既に拭い去ることのできない疑念が生まれていた。


 結局カスパリウスは無理くりに介入し、その女性を逃がしたが──それが根本的な解決にならないことを他ならぬ彼自身が良く知っていた。


 憎きレドラムならば果たしてどうしたか──カスパリウスは、自然とそんな事を考えてしまう。


 ◆


 旅を続けるうちに一行はさらに多くの悲劇と、そして何よりも、イドラ教団の欺瞞を目の当たりにすることになる。


 彼らは「厄地」と呼ばれる、瘴気に覆われた土地の近くを通過した。そこではイドラ教団による浄化の儀式が行われていた。豪華な法衣を纏った司教が大袈裟な身振りで祈りを捧げると、確かに瘴気が少し薄れたように見える。人々は感動に打ち震え、なけなしの財産を献金として差し出す。


 だがカスパリウスはその光景に、感動よりも深い疑念を抱いた。儀式が終わった後、司教が領主と交わしていた会話を耳にしてしまったからだ。


「司教様、感謝いたします。ですが、この浄化の効果はいつまで続くのでしょうか」


「それは皆様の信仰心次第ですな。ですがご安心ください。もし再び瘴気が濃くなってきたら、いつでもお呼びください。次回は少し割引させていただきますよ」


 それは信仰ではなかった。ビジネスだ。それも、極めて悪質なビジネス。彼らは人々の絶望を食い物にし、偽りの希望を売りつけることで利益を貪っていたのである。


 カスパリウスの心の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。彼が信じてきた神聖な教団のイメージが、俗悪な現実に塗り替えられていく。だが、それでも彼は最後の希望を捨てなかった。聖都イドラに行けば、きっと真の信仰に出会えるはずだと。


 人は真実を信じるのではない。信じたい事を真実だと思い込む生き物なのだ。


 ・

 ・

 ・


 聖都イドラ。それは信仰という名の巨大な虚構の上に築かれた純白の劇場であった。


 大陸中から集められた富と権力が大理石の床を磨き上げ、街路には一点の染みもなく、道行く人々は敬虔な祈りを捧げ、聖職者たちの顔には慈愛に満ちた笑みが張り付いている。それは完璧に演出された聖なる空間であり、外界の地獄が嘘のように秩序と静謐に満ちていた。


「おお……」


 カスパリウスは感嘆の声を漏らした。長旅の疲れも忘れ、彼は感動に打ち震える。


(やはり、わしの選択は間違っていなかった。こここそが、わしが求めていた場所だ)


 一行は教皇庁に温かく迎え入れられた。枢機卿たちは彼らの「勇気ある決断」を称賛し、その労をねぎらった。


「よくぞ参られました、カスパリウス元帥」


 最高齢のアルトリウス枢機卿が、皺だらけの顔に慈愛の笑みを浮かべて言う。


「貴方がたの祖国が、あの忌まわしきヘルゲート家の狂気に毒されていることは、我々も憂慮しております。ですがご安心ください。神は決して貴方がたを見捨てたりはしません」


 その夜、彼らのために盛大な歓迎の宴が開かれた。テーブルには山海の珍味が所狭しと並べられていた。絶滅危惧種のドラゴンの卵のオムレツ、最高級のキャビア、そして見たこともないような高級食材を使った料理の数々。それは大陸全土が飢餓に喘ぐ中、あまりにも場違いな光景だった。


 カスパリウスは僅かな違和感を覚えたが、これも神の威光を示すための演出だろうと自分を納得させた。欺瞞だ──それは何となくカスパリウスにも分かる。分かるが、気付かないふりをしていた。


 だが聖都は、すぐにその裏に隠された深い闇を露呈し始める。


 数日が過ぎ、聖都での生活に慣れてきた頃。


 彼は聖職者たちの言動にはっきりとした違和感を覚えるようになった。彼らは口を開けば神の慈悲を説くが、その目は常に相手の懐具合を探っているように見える。そして、彼らが口にする「浄化」や「信仰」という言葉が、全て金儲けのための隠語であることに気づいたのだ。


 決定的な出来事が起こったのはある日の会合でのことだった。カスパリウスは教団が「ケガレ」をどのように扱っているのかについて、質問を投げかけた。


「猊下。お言葉ですが、教団はケガレとされる人々を、どのように救済しておられるのでしょうか。彼らもまた神の子であるはずです」


 その言葉に枢機卿たちは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに冷ややかな笑みに変わった。


「救済? 何を勘違いしておられるのですか、元帥殿」


 異端審問局を統括するグレゴリウス枢機卿が、爬虫類のような冷たい目で彼を見た。


「ケガレは神の失敗作であり、この世界に存在するだけで穢れを広める存在です。彼らを救済する方法はただ一つ。火刑に処し、その魂を浄化してやることです」


 その言葉にカスパリウスは戦慄した。彼らの言う「浄化」とは、文字通りの意味だったのだ。


「馬鹿な! それはただの虐殺ではないか! 神がそんなことを望むはずがない!」


 カスパリウス自身、「ケガレ」への偏見はある。しかしそれは彼らが前世で悪徳を積んだ報いであって、今世で徳を積み重ねる事で罪は清められると考えていた。焼いてしまっては徳を積み重ねる事ができずに、「ケガレ」たちも救われないではないか──そう考えている。


「神の御心を、俗人が理解できると思わない事です」


 グレゴリウス枢機卿は冷たく言い放つ。


「秩序を維持するためには、犠牲が必要なのです。ケガレはそのための存在。彼らを排除することで、大多数の人々は安心して暮らせる。これこそが神の望む世界なのです」


 その言葉にカスパリウスは激怒した。


 必ず、かの邪智暴虐の異端審問官を除かなければならぬと決意した。カスパリウスには政治がわからぬ。カスパリウスはただの軍人である。剣を振り、兵を鼓舞して暮して来た。そして邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。


「黙れ! 偽善者どもめ!」


 カスパリウスは腰のサーベルを抜いた。


「貴様らは神の名を騙り、私腹を肥やしているだけではないか! 貴様らこそが、この世界を蝕む真の悪だ! 儂が成敗してくれるわ!」


 だがその瞬間、アルトリウス枢機卿が嘲るように笑った。


「……やはりな。貴様は、ヘルゲート家のスパイだったのだな」


「何だと!?」


「そうに違いない。我々を油断させ、この聖都を内部から崩壊させるために送り込まれたのだ! 衛兵! この者を捕らえよ!」


 アルトリウス枢機卿が叫ぶと、隠れていた衛兵たちが一斉に現れ、カスパリウスに襲いかかった。


「儂とヘルゲートの悪魔どもを一緒にするな!」


 カスパリウスは叫び、衛兵たちを斬り伏せた。そうして彼は宿舎へと駆け戻り、待機していた部下たちに叫ぶ。


「逃げるぞ! ここは我々の居場所ではなかった! この腐った都から脱出するのだ!」


 ◆


 聖都イドラからの脱出は混乱と流血の連続だった。カスパリウス一行はわずかな荷物だけを手に街を脱出する。だが、彼らの動きは既に察知されていた。


「異端者どもを逃がすな! 神敵を討ち取れ!」


 教団が差し向けた追っ手──聖騎士団が、彼らの背後に迫っていたのだ。


 聖騎士団。それは信仰という名の狂気を身に纏い、神の名の下にあらゆる残虐行為を正当化する冷酷な戦闘集団である。


 絶望的な逃避行と言えた。カスパリウスと彼の直属の部下たちならばある程度は抵抗はできる。しかし数が多い。聖騎士団は容赦なくカスパリウスらを追い詰め、次々と仲間たちが倒れていった。


「くそっ!」


 カスパリウスは歯を食いしばり、覚悟を決めた。もはや全員が逃げ切ることは不可能だ。


「聞け!儂が殿を務める! その間に、お前たちは全力で逃げろ! そして、ルミナス王国へ戻るのだ!」


「しかし、閣下!」


「あの国は狂っている! ヘルゲートはくたばれ!だが、イドラの偽善者共よりはまだマシだ! 行け! これは命令だ!」。


 同行してきた貴族たちはカスパリウスに敬礼を捧げ、次々に逃げ出す。


 無駄に正義感の強い彼らだからこそここで逃げる事を強く恥じていた。だが、ここで恥をかき逃げ伸びる事は自身の尊厳を守る事よりも大事だと理解もしていた。


 結局、数名の側近だけがカスパリウスと共に残る事になる。


「閣下、我らもお供いたします。彼奴等ごとき、苦もなく斬り伏せてやりましょうぞ」


 威勢は良いが、内心では皆、死を覚悟している。


「さあ、来い! 詐欺師どもよ! 貴様らの偽善の仮面を儂が剥がしてやる! その面の、皮ごとなァッ!」


 カスパリウスは叫び、聖騎士団へと突撃した。彼の剣技は凄まじかった。老いたりとはいえ、彼は王国最強の武人とうたわれている男だ。まるで鬼神のように剣を振るい、次々と聖騎士たちを斬り伏せていく。


「馬鹿な!」


 聖騎士団長が驚愕の声を上げた。


「おのれ、老いぼれごときにてこずるな!かかれ!かかれー!」


 工夫もなにもなく、数で平押しされ、カスパリウスの体力も限界に近づいていた。彼の全身は傷つき、その呼吸は荒い。老いぼれてなければもう少し頑張れていたかもしれない。


「ここまでか……」


 彼が膝をついた瞬間、聖騎士たちが一斉に襲いかかった。その時だった。


 ──ヒュゥゥゥゥゥ……


 奇妙な音が、上空から響き渡った。そして、何かが彼らの頭上に落ちてきた。


 ドォォォン!


 それは地面に激突すると同時に爆発し、白い煙がもうもうと立ち込める。


「何事だ!?」


 聖騎士たちが狼狽え、空を見上げる。カスパリウスたちもまた、呆然とその光景を見つめた。


 空には奇妙な物体が浮かんでいた。巨大な籠の上に、丸い風船のようなものがついている。それは後世で気球と呼ばれる事になる乗り物である。袋は漆黒で、そこにはヘルゲート家の紋章がデカデカと描かれていた。


 籠には一人の男が乗っていた。燕尾服を着こなし、シルクハットを被った見覚えのある男。


「ハッハッハッハ!!」


 甲高い笑い声が、空から響き渡った。


「ごきげんよう、諸君! 楽しそうなパーティーをしているではないか!」


 他ならぬヘルゲート公爵、レドラムその人であった。


「レドラム……貴様、なぜここに!」


 カスパリウスは絶叫した。


「おや、カスパリウス元帥ではないか! 元気そうに老いぼれていて何よりだ! さて、諸君! プレゼントフォーユー! ヘルゲート公爵家からの、心尽くしのプレゼントだ!」


 レドラムは叫びながら、次々と何かを投下し始めた。それは再び地面で爆発し、白い煙を撒き散らす。


 その煙を吸い込んだ瞬間、異変が起こった。


「は、は……ハックション!!」


 聖騎士の一人が、盛大なくしゃみをした。それを皮切りに、次々とくしゃみが伝播していく。


「ハックション!」「ハックション!」「ハックション!」


 それは、止まらなかった。一度くしゃみをすると、次から次へと、連続してくしゃみが出てしまうのだ。


 レドラムが投下したのはここ最近お気に入りのくしゃみ爆弾である。殺傷力はない。しかし一度吸い込むと、三日三晩くしゃみが止まらなくなるという悪魔のような代物である。


「な、何だこれは!」「く、苦しい!」「ハックション!」


 聖騎士たちは剣を取り落とし、その場に蹲る。もはや戦闘どころではなかった。


 それはカスパリウスたちも同様だった。


「は、ハックション! こ、これは……」


 カスパリウスは、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死にくしゃみに耐えようとするが無駄だった。


 側近の一人はあまりにくしゃみをしすぎた結果、肋骨にひびが入るという不名誉な負傷を負った。


「がはっ! ろ、肋骨が……折れました……ハックション!」


 上空ではレドラムが腹を抱えて笑っている。


「はははは!! 剣を振るなど前時代的な事をしているからだ!」


「や、やめろ!!」


 カスパリウスはくしゃみの合間に必死に叫んだ。


「レドラム! 貴様ぁーー! ハックション!!」


見れば、聖騎士の一人が地面に倒れて痙攣していた。気を失っているのかそれとも意識があるのか……時折、びくんびくんと大きく震えている。


カスパリウスは、聖騎士団と雄々しく戦い、そして散っていったほうがまだマシだと心中で嘆いて──「ぶぁっくしょんッ!!」と大きくくしゃみをした。

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