厭な王国②
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リチャード王による「ヘルゲート化宣言」は他ならぬこのルミナス王国に対する宣戦布告であり、降伏勧告であり、そして何よりも、壮大な悪ふざけの開始宣言だった。
この前代未聞の国家方針が王宮にもたらした最初の変化は奇妙なことに、リチャード王の胃痛の劇的な改善であった。諦念は最良の鎮痛剤である。次に訪れたのは王宮全体の奇妙な浮遊感だった。それは希望による軽やかさではない。ネジが数本外れたことによる、危うく、不安定で、そしてどこか滑稽な軽さだった。
そして、この新たな時代の到来を誰よりも歓迎したのはもちろん、エリアスとデスデモーナであった。
王城東塔の最上階。湿った土壁と動物の頭蓋骨が鎮座する、悪趣味の極みとも言うべき魔窟で、二人は世界の変革を祝していた。
「素晴らしいわ、エリアス様!」
デスデモーナは恍惚とした表情で、窓の外に広がる鉛色の空を見上げた。
「陛下もようやく、物事の道理がお分かりになったのね。この世界がどれほど美しく、残酷で、そして絶望に満ちているかということを。この退屈で、健全で、欺瞞に満ちた世界に、わたくしたちの美学を叩きつける時が来たのですわ!」
「同感だ、デスデモーナ!」
エリアスもまた、狂気に満ちた笑みを浮かべた。王族としての教育と、ヘルゲート家での再教育が融合し、彼の精神は完全に新しい形へと作り変えられていた。かつての凡庸な王子はもういない。そこにいるのは狂気を纏い、それを楽しむ術を覚えた、新たな怪物だった。
「父上の決断は英断だ。これで僕たちも遠慮なく、この国を僕たちの色に染め上げられる。さあ、早速、我々の考える理想の国家像をまとめようではないか!」
二人は早速、政策提言のための悪魔的ブレインストーミングを開始した。その内容は常人ならば卒倒するようなものばかりだったが、彼らは本気でそれが国を豊かにし、国民を幸福にすると信じていた。そしてその純粋な信念こそが、この後に続く混乱と、奇妙な繁栄の原動力となるのである。
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翌日、王宮の大会議室では第一回『ルミナス王国ヘルゲート化推進会議』が開催された。出席者は国王リチャード、宰相ガンジャ、そしてこの狂気の祭典の主役であるエリアスとデスデモーナ。さらに王国の重鎮たる貴族たちも招集されていたが、彼らの表情は一様に硬く、まるでこれから始まる葬儀の参列者のようだった。
「ではこれより、我が国の新たな基本方針に基づき、具体的な政策について議論する」
ガンジャが感情のこもらない声で議事を進めた。この男の適応能力は驚異的だった。彼は既に、ヘルゲート家の紋章を模したカフスボタンと、見る角度によって人の顔が浮かび上がる不気味なネクタイを着用していた。彼は狂気に奉仕する時こそ、その有能さが最も輝くのかもしれない。
「まず、国民の精神衛生に関する施策について。エリアス殿下、ご意見を」
「うむ」エリアスが自信満々に頷いた。「僕から提案がある。『国民健康是正計画』だ! 現在の国民はあまりにも健康すぎる! これは由々しき事態だ。健康とは退屈の象徴であり、深い思索と芸術的才能の開花を阻害する要因である!」
彼はヘルゲート家の書庫から持ち出した怪しげな医学書を広げた。それは古代ギリシャの四体液説──血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁のバランスが重要であり、現代人は憂鬱質を生み出す黒胆汁が圧倒的に不足している──という、完全に時代遅れの疑似科学に基づいていた。
四体液説とはヒポクラテスによって体系化された古代の医学理論である。人間の体は四つの基本的な体液で構成され、そのバランスが健康と気質を決定するという考え方だ。科学的根拠は皆無だがその詩的な響きと直感的な分かりやすさから、長きにわたり西洋医学を支配してきた。ヘルゲート家がこの理論を信奉しているのは単にそれが陰鬱でロマンチックだからである。
「よって、『不健康診断』を導入し、いかに不健康であるかを競わせるのだ! 最も不健康な者には王家から勲章を授与する!」
宮廷医師団長が、怒りで卒倒しそうになりながら反論した。
「殿下! それは暴論です! そんなことをしたら、疫病が蔓延し、国が滅びますぞ!」
「何を言うか!」エリアスは一蹴した。「寿命など、長ければ良いというものではない! 太く短く、そして美しく散る! それこそが、人間の本来あるべき姿だ!」
「同感ですわ」デスデモーナが頷いた。「長生きすればするほど、退屈な時間が増えるだけですもの。それよりも、若くして病に倒れ、儚く散っていく方が、よほどロマンチックだわ」
医師団長は絶句した。彼の信念が、根底から否定されようとしている。
「……一理ありますな」
ガンジャが静かに口を挟んだ。全員の視線が彼に集まる。
「確かに、精神的な充足が、肉体的な健康以上に重要であるという考え方も存在します。そこで、折衷案を提案します」
ガンジャは素早くメモを取り、新たな提案書を作成した。
「従来の健康診断は維持します。ですが、それに加えて、『精神的充足度診断』を導入します。これはいかにその人がヘルゲート的な価値観(陰鬱、退廃、悪趣味)に基づいて生活しているかを測定するものです。そして、そのスコアが高い者には税制上の優遇措置を与えます」
「税制優遇!」貴族たちの目が、金の輝きを帯びた。狂気はともかく、税金の話となれば話は別だ。
「これにより、国民は自発的にヘルゲート的な生活様式を選択するようになります。疫病のリスクは高まりますが、それは医師団の予算を増額することで対応可能です。そして何より、国民の(ヘルゲート的な)幸福度は飛躍的に向上するでしょう」
ガンジャの提案は狂気と現実の絶妙なバランスの上に成り立っていた。この案は満場一致(という名の沈黙)で承認された。
次に議題は「都市計画と景観」に移った。これこそが、ヘルゲート家の悪趣味が最も発揮される領域である。
「王都のあの忌々しいほど明るく、清潔な街並みはわたくしたちの美学に反しますわ」
デスデモーナが提案した。
「花壇を全て撤去し、代わりにヘルゲート領から取り寄せた最高級の枯れ木と、墓石風のオブジェを設置すべきですわ。そして、街路樹には『絞首刑の木』を植えるのです」
絞首刑の木──それは獲物を枝で絞め殺し、その死骸を養分とする凶暴な食人植物である。
「そ、そんな危険なものを!」建設大臣が絶句した。
「危険だからこそ価値があるのですわ」デスデモーナは微笑んだ。「常に死と隣り合わせの緊張感の中で生きることこそが、国民の精神を鍛えるのです。それに、夜間の犯罪抑止にも効果的でしょう?」
確かに犯罪者も減るだろうが、それは治安維持というよりは間引きに近い。
「予算的にも問題はありません」ガンジャが淡々と補足した。「絞首刑の木は成長が早く、維持費もかからない。むしろ、肥料代が浮く計算になります──が」
ガンジャが一瞬沈黙する。そして──
「……却下します」
「なぜ!?」
デスデモーナが悲痛な声をあげる。
「絞首刑の木は管理が難しく、無差別に市民を襲う危険性があります。これは効率的ではありません」
ガンジャの判断基準は常に効率と管理可能性にあった。制御不能な狂気は彼にとっても望ましくないのだ。
「……うむ、儂も同感だ。だがガンジャよ、折衷案はないのか?」
リチャードが尋ねる。彼は知っているのだ。超有能宰相であるところのガンジャが、対案もなしに否定などしないことを。
「勿論折衷案はございます。建築基準法を改正し、ゴシック様式を推奨します。尖塔、アーチ、そしてガーゴイル像の設置を推奨し、助成金を出します。街路樹については見た目が不気味だが無害な『嘆きの柳』を採用します。そして、中央広場の噴水はデスデモーナ様の案通り、血のように赤い水(ただの染料)を流すように改造します」
「まあ!」デスデモーナの目が輝いた。「それも素敵ですわ! 王都がまるで巨大な墓地のように美しくなるわ!」
こうして、次々と狂気の沙汰としか思えない政策が、ガンジャの手によって「現実的で、効率的で、そして悪趣味な」法案へと姿を変えていった。
社会工学において、「ナッジ(Nudge)」と呼ばれる概念がある。強制や禁止ではなく、ちょっとしたきっかけやデザインの変更によって、人々の行動を望ましい方向へ誘導する手法だ。ガンジャが行っているのはまさにその邪悪版と言えよう。彼は狂気という名のナッジを用いて、国民全体をヘルゲート的な価値観へと誘導しているのだ。
◆
『第一次・王都ヘルゲート化推進計画』は驚異的な速度で実行に移された。
王都の景観は数ヶ月でその様相を一変させた。建設ラッシュが起こり、貴族たちは競うように自らの屋敷を改築した。尖塔が林立し、ガーゴイル像が街の至る所に設置された。石工たちは嬉しい悲鳴を上げた。
「おい、そのガーゴイル、もっと凶悪な顔にできないか? うちの隣の伯爵邸のやつより迫力がないと困るんだ!」
「かしこまりました! では特別オプションで、目から血の涙(染料)を流す仕掛けはいかがでしょうか?」
中央広場は陰鬱なゴシック庭園へと変貌し、赤い水を吹き出す噴水は新たな観光名所となった。
そして、『精神的充足度診断』の導入は国民の生活様式に決定的な変化をもたらした。税金が安くなるという現実的なメリットに釣られて、誰もが競って不健康で陰鬱な生活を目指し始めたのだ。
この奇妙な繁栄は思わぬ副産物も生み出した。経済が活性化したのだ。黒い染料、不吉なアクセサリー、そしてガーゴイル像関連の産業が爆発的に成長した。
世界が飢餓と絶望に沈む中、ルミナス王国だけが、狂気と悪趣味に満ちた繁栄を謳歌していた。
この変化は反対派だった貴族たちの価値観をも揺さぶった。
建設大臣は執務室の窓から、変わり果てた王都を眺めながら、複雑な表情を浮かべていた。
「……信じられん」彼は側近に呟いた。「こんな悪趣味な街が、観光客で溢れかえっているとは」
「はい、閣下」側近が報告書を読み上げた。「先月の観光収入は前年比で三倍増です。特に、中央広場で売られている『ガーゴイル饅頭』が爆発的な人気を博しております。『食べると不幸になれる』という触れ込みで」
建設大臣は頭を抱えた。だが彼は現実主義者でもあった。この狂気がもたらす経済効果は無視できないほど大きかった。
「……もしかしたら、これで良いのかもしれん」彼は自分に言い聞かせるように呟いた。「時代は変わったのだ。我々も変わらねばならん」
多くの貴族が、彼と同じような変化を遂げていった。彼らは自らの常識を捨て、新しい時代の波に乗ることを選んだのだ。
だが全ての者がそうだったわけではない。
王国の西部、古くからの伝統と秩序を重んじる貴族たちの間で、不満と恐怖が渦巻いていた。その筆頭が、王国軍元帥カスパリウス・ヴォル・ガイアだった。
「馬鹿げている! 国全体が狂気に染まっている!」
カスパリウスは自らの館で開かれた秘密の会合で、怒りに声を震わせた。集まったのは彼と同じ志を持つ保守派の貴族や、一部の聖職者たちだった。
「国王陛下はあのヘルゲート家の狂気に毒されてしまわれた! このままでは王国は神に見放され、滅びの道を歩むことになる!」
「左様です! 街のあの悍ましい光景! ガーゴイル像など、冒涜以外の何物でもない!」
彼らは口々に不満を述べたが、その声には怒りよりも深い恐怖が滲んでいた。
「……だが元帥閣下」一人の若い伯爵が、おずおずと口を開いた。「皮肉なことに、国民はこの状況を喜んでいるように見えます。経済も回っている。これを否定することは……」
「黙れ!」カスパリウスが一喝した。「それは悪魔の誘惑だ! 偽りの繁栄だ! 我々はこの穢れた国から脱出すべきだ!」
その言葉に、一同は息を呑んだ。国を捨てる。それは貴族として、最大の恥辱だった。だが彼らにはそれ以外の選択肢が残されていなかった。
「聖都イドラへ亡命するのだ。そして、教皇庁にこの国の惨状を訴え、神の裁きを乞うのだ!」
カスパリウスの決断は固かった。
数日後、カスパリウス元帥をはじめとする数十名の貴族が、密かに王国を脱出した。彼らは財産をまとめ、家族を連れて、聖都イドラへと向かった。
その報告を受けたリチャードは執務室で静かに呟いた。
「……そうか。行ったか」
彼の顔には怒りも悲しみもなかった。ただ、深い無関心があるだけだった。
「追手を差し向けますか?」ガンジャが尋ねた。
「いや、放っておけ」リチャードは力なく手を振った。「去る者は追わず。彼らには彼らの常識があり、我々には我々の狂気がある。それを互いに認め合うことこそが、真の寛容というものではないか」
それは彼なりの慈悲であり、同時に、この国がもはや後戻りできない段階に来たことを示す証でもあった。
「かしこまりました。では出奔した貴族たちの財産は法に則って接収し、ヘルゲート化計画の予算に組み込みます」
ガンジャは淡々と答えた。彼の有能さはどこまでもブレることがない。
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王城のバルコニーから、変わり果てた王都を見下ろす二つの影があった。
空は相変わらずどんよりと曇り、街にはガス灯の青白い光が揺らめいている。遠くからは不協和音に満ちた音楽と、人々の楽しげな(しかしどこか陰鬱な)笑い声が聞こえてくる。
「美しいわ、エリアス様」デスデモーナが恍惚とした表情で呟いた。「この国はついに私たちの理想の姿になりつつありますわ。不幸と、絶望と、そして悪趣味に満ちた、世界で最も不健全で、最も幸福な国に」
「同感だ、デスデモーナ」エリアスも狂気に満ちた笑みを浮かべた。「この狂気こそが、新しい秩序だ。僕たちはこの素晴らしい世界を、永遠に守り続けなければならない」
二人の狂気は今や国家の基本方針となり、新たな時代を築き上げようとしていた。
めでたし、めでたし──とはやはり、とても言えそうにない。だがこの不毛で滑稽な喜劇はまだ始まったばかりなのだった。むしろ、これからが本番とも言える。




