厭な王国
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王の執務室とは畢竟、国家という巨大な生命体が発する断末魔を最も間近で聞くことを強いられる、特等席の拷問椅子である。
リチャード・セラ・ルミナスはその豪奢な、しかし座り心地の悪い椅子に深々と身を沈め、今日もまた形而上学的な存在と化しつつある自らの胃と対峙していた。痛みはもはや物理的な領域を超え、彼の魂そのものを締め付ける万力のように機能している。
窓の外では相変わらずヘルゲート公爵家がこの街に来て以来、ずっと不機嫌な鉛色の空が広がっていた。その陰鬱な空の下で繰り広げられているのは世界が羨むほどの平和と繁栄。狂気と秩序が倒錯した悪趣味な喜劇。
リチャードは決して愚王ではなかった。若かりし頃はその才気煥発さゆえに二人の兄から幾度となく命を狙われたほどの傑物だった。毒殺未遂、暗殺者の襲撃、事故に見せかけた謀殺計画。その全てを潜り抜け、玉座を手にした手腕は本物だった。
だが麒麟も老いては駑馬に劣るという。長年の統治は彼の精神を摩耗させ、かつての鋭利さは丸みを帯びた。いや、摩耗というよりは「適応」と言った方が正確だろう。制御不能な親友とその家族──ヘルゲート家という劇薬に晒され続けた結果、彼の常識という名の羅針盤は完全に狂い、今や諦念という名の錆に覆われつつあった。この諦念こそが、彼がこの狂った現状を受け入れ、正気を保つための最後の防壁となっていたのだ。
(……もう、これで良いのかもしれぬ)
最近、リチャードの脳裏にそんな考えが浮かぶようになった。
それは長年苦しめられてきた持病の特効薬が実は猛毒だったと知った時のような、解放感と絶望が入り混じった奇妙な甘美さを伴っていた。
コンコン、と控えめなノックの音が響く。
「入れ」
入ってきたのは宰相ガンジャだった。相変わらず感情の読めない鉄面皮。この男の神経は鋼鉄でできているのか、それとも既に壊死しているのか、リチャードには判断がつかなかった。
「陛下。月例報告にございます」
ガンジャは分厚い羊皮紙の束を机の上に置いた。この病んだ世界の現状を冷徹な数字で記した診断書だ。
「読んでくれ」
リチャードが促す。ちなみに内心では「読んでくれ」と「殺してくれ」はちょっと似てるな、などと考えている。重症だ。
「かしこまりました」
ガンジャは感情のこもらない声で、淡々と報告書を読み上げ始めた。
「まず大陸東部、ドゥームズガル帝国の状況ですが。飢餓はさらに深刻化し、国土の厄地化率は5%に到達。また、先の戦争の後遺症──『照れ屋なバーサーカー』の影響により、国民の三割が夜な夜な自らの最も恥ずかしい秘密を叫びながら踊り狂っております。これにより国家機密の漏洩が深刻化しております」
「うむ……」リチャードは呻いた。ウェネフィカの置き土産は実に効果的で悪趣味だ。
「次に、聖都イドラの動向。イドラ教団は『浄化ビジネス』により過去最高益を記録。浄化儀式の簡略化と効率化により、リピーター獲得率は九割を超えたとのこと。彼らはこれを『持続可能な信仰モデル』と自画自賛しております」
「あの禿鷹どもめ……」
リチャードは吐き捨てるように言ったが、その声には怒りよりも深い疲労が滲んでいた。
「彼らもまた自らの役割を果たしているに過ぎません」
ガンジャは冷静に分析する。
「絶望の中で人々は救いを求める。イドラ教団はそれを提供し、対価を得る。需要と供給の完璧な一致です。倫理的な問題はさておき、経済活動としては極めて健全かと」
災害資本主義という概念がある。戦争、テロ、自然災害といった危機的状況を利用して、過激な市場原理主義政策を導入し、利益を追求する手法だ。イドラ教団が行っているのはまさにその宗教版と言えよう。彼らは「厄地」という名の災害を利用し、浄化という名の偽りの希望を売りつけることで、信仰心という名の市場を独占しているのだ。
「そして、我がルミナス王国の状況ですが」
ガンジャの声のトーンが、僅かに変化した。それは困惑とも、呆れともつかない、奇妙な響きを帯びていた。
「経済成長率は前年比で120%を達成。『ヘルゲート・シック』の流行はもはや文化として定着し、関連産業は活況を呈しております。特に『不幸を呼ぶ(と称する)アクセサリー』市場は爆発的な成長を見せております」
「そうか」
「また、『ケガレ』の流入が続いております。他国で迫害された彼らが、我が国を『最後の楽園』と見なし、続々と移住しております。彼らは王都で『個性的な存在』として歓迎され、職を得ております。結果として、労働力不足は完全に解消されました」
皮肉な話だった。世界が絶望に沈む中、この狂った王国だけが、奇妙な繁栄を謳歌している。秩序が崩壊した結果、新たな秩序が生まれている。
「……つまり、だ」
リチャードは重々しく口を開いた。
「我が国は狂気によって救われている、ということか」
「左様でございます」ガンジャは淡々と答えた。
「常識的な価値観が機能不全を起こした世界において、非常識こそが新たな常識となる。ヘルゲート家の存在はその象徴と言えましょう」
リチャードは考え込んだ。健康、清潔、明朗──かつて美徳とされたそれらの概念は飢餓と疫病が蔓延する世界においてはもはや何の役にも立たないのかもしれない。
リチャードは玉座の上で深く、深く、沈み込んだ。長年の疑問が、ようやく解けたような気がした。そして同時に、ある腹案が彼の心の中で形を成していくのを感じた。
「……ガンジャ」
リチャードはゆっくりと顔を上げ、虚空を見つめた。その瞳には深い諦念と、そして奇妙な決意が宿っていた。
「わしは最近、考えていることがある」
「はい、陛下」
「もう、この国は……ヘルゲートでいいのではないか?」
その言葉は静かな執務室に、重く響き渡った。それは国王としての敗北宣言であり、同時に、新たな時代への宣戦布告でもあった。
ガンジャはその言葉を聞いても、眉一つ動かさなかった。彼はリチャードがいつかこの結論に達することを予期していたかのようだった。
「……と、仰いますと?」
「言葉通りの意味だ」
リチャードはまるで憑き物が落ちたかのように、はっきりとした口調で言った。
「ヘルゲート公爵家を制御しようとするのをやめる。彼らの狂気を、この国の基本方針として受け入れるのだ」
リチャードは立ち上がり、再び窓辺に歩み寄った。
「世界は狂っている。ならば、狂気こそが新しい秩序なのではないか? わしが目指してきたものは一体何だったのだ。もしかすると、わしの方が間違っていたのではないか?」
それは賢明な判断なのか、それとも単なるヤケクソなのか。リチャード自身にも分からなかった。だがそれが最も現実的で、そして最も効率的な解であるように思えた。
「考えてみろ、ガンジャ。我々が常識という名の足枷に囚われている間に、世界は我々の理解を超えた速度で変化している。その変化に適応するためには我々自身も変わらなければならない。ヘルゲート家のように」
「しかし、陛下」ガンジャが冷静に指摘した。「ヘルゲート家の価値観を国の基本方針とするならば、それは従来の秩序の完全な崩壊を意味します。特にイドラ教との関係は破滅的なものとなるでしょう」
「秩序?」リチャードは鼻で笑った。「そんなものが、今の世界に何の意味がある? そんなものに固執して、国を滅ぼすつもりか?」
リチャードのかつての才気が、今、この狂った方向で再燃し始めていた。彼はいかに効率的かつ悪趣味に国を変革するかを考え始めていた。その瞳にはどこかレドラム公爵に似た、狂気の輝きが宿り始めている。
「わしは決めたのだ。この国をヘルゲート色に染め上げる。狂気と、混沌と、そして悪趣味に満ちた、世界で最も不健全で、最も幸福な国にするのだ」
その言葉にはもはや一片の迷いもなかった。
ガンジャはしばらく沈黙した後、深く頭を下げた。
「……かしこまりました、陛下。では早速ですが、『第一次・王都ヘルゲート化推進計画』の骨子を策定いたします」
彼は懐から手帳を取り出し、素早くメモを取り始めた。その切り替えの早さはさすがと言うべきか、あるいは彼もまた狂気の一部なのか。
「まずは教育カリキュラムの変更が必要ですな。従来の道徳教育に代わり、『ヘルゲート流・実践的帝王学』を導入します。毒物学、拷問学、そして陰謀学を必須科目とします」
「うむ」リチャードは満足げに頷いた。
「それから、ヘルゲート・シックを国民的なファッションとして正式に認定する。不健康こそが美徳であると、王国の隅々にまで周知徹底させるのだ」
「承知いたしました。また、祝祭日の変更はいかがでしょうか。収穫祭を廃止し、代わりに『ヘルゲート公爵生誕祭』を制定します。その日は全国民が黒い服を着て、爆竹を鳴らして祝うのです」
「……それは採用だ」リチャードは少し楽しそうに言った。「レドラムの喜ぶ顔が目に浮かぶ」
二人の間で、次々と狂気の沙汰としか思えない政策が決定されていく。それはまるで、子供が悪戯を考えるかのように無邪気で、そして悪魔が地獄の設計図を描くかのように緻密だった。
リチャードは再び玉座に腰を下ろした。不思議なことにあれほど彼を苦しめていた胃の痛みが、少し和らいでいるような気がした。それは諦念がもたらす安らぎなのか、あるいは狂気がもたらす麻痺なのか。
「ガンジャ。わしは間違っているのだろうか」
一通り議論を終えた後、リチャードは再び呟いた。
「歴史の審判を待つしかありませんな」ガンジャは淡々と答えた。
「ですが、一つだけ確かなことがございます。もしこの計画が成功すれば、ルミナス王国は大陸で最も強大で、最も邪悪で、そして最も幸福な国となるでしょう」
「幸福、か」リチャードはその言葉を噛み締めた。
「ヘルゲート的な幸福が、この世界を救うかもしれんとはな」
ルミナス王国は今、歴史の大きな転換点を迎えようとしていた。それは常識が死に絶え、狂気が支配する、暗黒の時代。
めでたし、めでたし──とはやはり、とても言えそうにない。だが少なくとも、退屈な結末にはならなそうではあった。




