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連載「嫌な公爵家」  作者: 埴輪庭


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厭な世界情勢⑤

 ◆


 世界は病みつつあった。


 飢餓という名の熱病は大陸全土の毛細血管にまで行き渡り、人々の心から余裕という名の潤滑油を奪い去る。そして剥き出しになった不安と憎悪が擦れ合い、火花を散らす。その火花が落ちた場所からまるで待ってましたとばかりに、新たな厄地が次々と生まれていた。


 厄地──それは単なる荒れ地ではない。物理的な汚染以上に、形而上学的な「穢れ」が凝縮された悪性の腫瘍のような場所だ。


 水が百度で沸騰するように、あるいは集団的なヒステリーがある臨界点を超えると制御不能になるように、絶望や怨嗟といった負の感情もまた、一定の密度を超えると劇的にその性質を変化させ、物理世界に影響を及ぼし始める。


 そして一度発生した厄地はまるで癌細胞のように周囲の健全な土地を侵食していく。最初に現れるのは濃密な瘴気。それは質量を持った悪意であり、呼吸するだけで精神を蝕み、希望を削ぎ落とす。


 かつては稀な現象だったそれが、世界では今や日常茶飯事となっていた。


 ドゥームズガル帝国では、先の敗戦の怨念と飢餓、そしてウェネフィカが残した精神的後遺症が複合的に作用し、国土の3%が厄地化しつつあった。特に酷いのはかつての激戦地で、そこでは夜な夜な、自らの最も恥ずかしい秘密を叫びながら踊り狂う兵士たちの死霊が目撃されるという。


 南方の商業都市連合ではとある港町全体が厄地となった。そこでは海が血のように赤く染まり、水揚げされる魚は全て人間の顔を持ち、しかもその顔が全員、町の金貸しや徴税官にそっくりだったため、深刻な風評被害と経済的混乱が発生していた。人々は魚を食べることを恐れ、市場は静まり返った。


 各国政府の為す術はなかった。軍にできる事は何もない。厄地とは自分たちが生み出した絶望の鏡像であるゆえに。軍は敵は討てても自分自身を討つ事はできないのだ。


 絶望が蔓延する中、人々が縋りつける唯一の希望──それが、聖都イドラを中心とするイドラ教団であった。


 ◆


 聖都イドラ。大理石の純白が目に眩しいこの信仰の中心地は外界の地獄が嘘のように今日も神々しい秩序と、そして何よりも金の匂いに満ちていた。


 教皇庁の最深部、『黄金の枢機卿の間』。天井に描かれたフレスコ画の天使たちが、下界の愚かな営みを嘲笑うかのように見下ろす中、大陸で最も神に近いとされる老人たちが極めて俗悪で、そしてこの上なく喜ばしい議題について話し合っていた。


「素晴らしい! 実に素晴らしいことですな!」


 財務担当のバルナバ枢機卿が小太りの体を揺らしながら歓喜の声を上げる。十指にはそれぞれ金ぴかの指輪を嵌めている。


「今月の献金総額は先月比で三倍増! 特にドゥームズガル帝国からの『浄化特別依頼』は、我々の予想を遥かに上回る額に達しております! もはや国家予算の半分を我々に差し出す勢いですぞ! ああ、神の御業は偉大なり!」


 その報告に他の枢機卿たちから感嘆の声が上がった。


「これも全て厄地のおかげです」


 最高齢のアルトリウス枢機卿が重々しく頷いた。彼の前には絶滅危惧種のドラゴンの卵で作ったオムレツと、最高級のキャビアが山と積まれている。もちろんこれは質素な朝食である。


「世界が闇に覆われれば覆われるほど、人々は光を求める。そしてその光を灯すための油──もとい、資金はいくらあっても困りませんからな」


 イドラ教は大陸で唯一厄地を浄化する技術を独占していた。それは数百年かけて研究・体系化された、複雑で高度な儀式魔術である。そして、この儀式は実際に効果があった。


 浄化のメカニズムは門外不出の秘儀とされているが、その本質は形而上学的なエネルギー操作と、極めて現実的な心理学の組み合わせにある。


 まず高位の司教が率いる聖職者団が厄地に赴き、聖水(特殊な鉱石で濾過された高濃度のアルカリ水。瘴気の成分を中和する効果がある)を散布し、聖歌(特定の周波数の音波。人々の精神を安定させる効果がある)を響かせる。そして何より重要なのは、大勢の信者による祈りだ。この集団的な「信仰」という名のエネルギーが、負の感情を中和する一種の「正のエネルギー場」を形成するのだ。


 だが奇跡には対価が必要である。そしてその対価は恐怖の度合いに比例して高騰する。それでもなお国家予算を傾けてでも浄化を依頼する国は後を絶たなかった。


 まあ別に彼らが世界中の飢餓を誘発しているわけでもないし、厄地を生み出しているわけでもない。だからマッチポンプとまではいかないが、それでも人々の不幸を私利私欲を満たすために利用していることは確かではあった。


「ですが、少し懸念もございます」


 異端審問局を統括するグレゴリウス枢機卿が冷たい声で言った。異端認定して焼いてきた魔女は累計八千人も及ぶ教団屈指の聖戦士だ。爬虫類のように細く、感情を窺わせない目は多くの魔女を震えあがらせてきた。


「最近、浄化の依頼が多すぎて、人手が足りておりません。特に高位の司教は過労で倒れる者が続出しております」


「それは由々しき事態ですな。司教たちは我々の大切な資産です」


 アルトリウス枢機卿が眉をひそめると、バルナバ枢機卿が自信満々に答えた。


「ご安心ください。既に手を打っております。浄化の儀式を簡略化・効率化するための研究を進めておりました。なんと半分の人手で、二倍の速度で浄化が可能ですぞ!」


「ほう!」


「もちろん、効果は従来の半分程度しか持続しませんが」バルナバは付け加えた。「ですが、それはむしろ好都合。効果が切れれば、再び依頼が来る。リピーター獲得というやつですな! サステナビリティとはまさにこのことです!」


 サステナビリティ(持続可能性)とは本来、環境や社会システムが長期にわたってその機能を維持できる能力を指す言葉だが、イドラ教においては「長期にわたって利益を搾取し続ける能力」という意味で使われていた。


 枢機卿たちは手を叩いて喜んだ。実に合理的で、そして邪悪な発想だった。


 ◆


 イドラ教の「浄化ビジネス」は、実に巧妙に構築されていた。彼らが提供するのはあくまで一時的な安堵であり、対症療法に過ぎない。根本的な原因である飢餓や社会不安が解決しない限り、厄地は何度でも発生する。


 例えば北方の小国アルカディア。深刻な飢饉に見舞われたこの国では、王都の近くに巨大な厄地が発生した。国王は堪らず浄化を依頼した。


 そして派遣されてきた司教は慈愛に満ちた笑みを浮かべてこう言ったのだ。


「ご安心ください、陛下。神は決して貴方を見捨てたりはしません。ですが、神の奇跡を起こすためには、相応の対価が必要です」


 提示された金額は国家予算の二十%。国王は絶句したが、他に選択肢はなかった。


 浄化の儀式は盛大に行われた。


 新式の浄化儀式が導入され、司教たちはまるで舞台俳優のように大袈裟な身振りで祈りを捧げた。その光景は実に神々しく、人々は感動に打ち震えた。儀式が終わると確かに瘴気は薄れた──のだが。


 その効果は長くは続かなかった。三ヶ月後、再び瘴気が濃くなり始めた。飢餓は何一つ解決しておらず、浄化のために多額の予算を組んでしまったため、食料を買うことすら困難となっていた。


 国王は再びイドラ教に助けを求めた。


「約束が違うではありませんか!」


 司教は悲しげな表情で首を横に振る。


「陛下。これは貴国の民の信仰心が足りないためです。神は貴方がたを試しておられるのです。もっと祈り、もっと捧げなさい。さすれば、再び神の慈悲を得られん。貴国の惨状を鑑み、もし次回浄化の儀式を行うのならば少々割り引いてもよろしいですぞ」


 この悪循環こそがイドラ教のビジネスの真髄だった。彼らは不幸を食い物にし、絶望を栄養として肥え太っていく。


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