厭な世界情勢④
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世界とは、巨大な生き物である。
時にそれは健やかに呼吸し生命を育むが、また時には熱病に浮かされ、自らの体を蝕むこともある。エリアスとデスデモーナの悍ましくも祝福された婚儀から半年。世界という生き物はどうやら後者の、それもかなり悪質な熱病に罹患しているらしかった。
大陸全土を飢餓という名の熱がじわじわと蝕んでいた。
数年来の異常気象は大地から潤いを奪い、黄金色に輝くはずの麦穂は力なく頭を垂れ、まるで老人の抜け落ちた髪のように痩せ細っている。かつて豊かな恵みをもたらした大地は今やひび割れた老婆の皮膚のように乾ききり、そこから生まれるのは収穫の喜びではなく、ただ絶望という名の痩せた作物のみであった。
飢えは病を呼ぶ。栄養を失った人々の体はかつてなら跳ね返せたはずの些細な病魔にもいとも容易く屈した。咳の一つが村を滅ぼし、発疹の一つが街を死の沈黙に閉ざす。それは特別な疫病ではない。ごくありふれた病が弱った体を的確に刈り取っていくだけの話だ。
そして弱った人々は更に弱い者へその鬱憤をぶつけ始めた。すなわち、「ケガレの民」である。生まれつき痣がある。瞳の色が違う。手足の指が多い、あるいは少ない、奴隷の子、犯罪者の子──そういった社会という温かい母体から無理やり引き剥がされた寄る辺なき魂の難民。
この現象は社会心理学における「スケープゴート理論」の最も古典的かつ悲劇的な発露と言えよう。集団が危機に瀕した時、特定の個人や少数派に全ての責任を転嫁することで自らの不安を解消しようとする防衛機制である。
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東方のドゥームズガル帝国。かつて大陸に覇を唱えんとしたこの大国は、今や巨大な病床に伏す老人のように静かに、しかし確実に衰弱していた。
先のルミナス王国との戦における敗北は単なる軍事的な損失以上の深い傷を帝国に残した。いや、傷というよりは全身に回る遅効性の毒といった方が正確だろう。
その毒の名は、レドラム・ヘルゲート。
彼の仕掛けた補給線への芸術的な破壊活動は、帝国の経済に致命的な打撃を与えた。橋という橋、倉庫という倉庫が虹色の煙と共に消え去った結果、帝国の物流網は神経を断たれた巨人のように麻痺し、復旧の目処は一向に立たない。
さらに深刻だったのはウェネフィカが撒いた『照れ屋なバーサーカー』の後遺症である。あの悪夢の夜、自らの最も恥ずかしい秘密を叫びながら踊り狂った兵士や将校たちは、肉体こそ回復したものの、その精神は回復不能なまでに破壊されていた。軍の指揮系統は崩壊し、上官と部下の間には埋めがたい不信と嘲笑が渦巻いている。何しろ自分の最も情けない秘密を知る相手に誰が忠誠を誓えるというのか。
「ぎゃああああ! 俺は実は、陛下の愛馬の鬣をこっそり切ってカツラにしていたんだ!」
かつて勇猛で知られた将軍が、今では夜な夜な自室で発作を起こし、奇妙な告白を繰り返している。
帝都の壮麗な玉座の間。皇帝ヴァルケリオン四世は、深々と玉座に沈み込み、虚空を睨んでいた。その顔色は土気色で、目の下には深淵のような隈が刻まれている。
彼は眠れていない。眠ろうとすると、あの男の幻影が現れるからだ。燕尾服を着こなし、陽気に笑いながら起爆装置のボタンを押すあの忌々しいヘルゲート公爵の幻影が。
「陛下、財政報告にございます」
やつれた財務大臣が震える手で羊皮紙の巻物を差し出す。その内容は言うまでもなく絶望的だった。飢饉対策の予算は底を尽き、軍の再建費用は天文学的な数字に膨れ上がっている。
「……分かった。下げよ」
ヴァルケリオンは力なく手を振った。羊皮紙に目を通す気力もない。彼の脳裏ではレドラムの幻影がワルツを踊っている。
「素晴らしい! 実に教科書通りの国家破綻だ! これほど退屈な財政状況も珍しい!」──そんな幻聴が頭蓋の内側でけたたましく響いていた。
貴族たちもまた救いようがなかった。彼らは国の危機を憂うどころか、責任のなすりつけ合いと現実逃避のための悪趣味な遊興に明け暮れていた。
「これも全て、あの愚かな将軍がヘルゲートの挑発に乗ったからだ!」
「いや、そもそも宰相が和平交渉を怠ったのが悪い!」
夜会ではそんな不毛な議論が交わされ、その裏ではケガレ狩りと称して、領内の不幸な人々を狩り出し、見せしめに処刑する残虐な遊びが流行していた。彼らはそれを神への贖罪であり、帝国の浄化であると信じて疑わなかった。
民衆の絶望はもはや底が見えない。彼らは救いを求めて、唯一残された希望の光──イドラ教の教会へと殺到した。だが、彼らを待っていたのは、神の慈悲ではなかった。
「汝ら、悔い改めよ!」
肥え太った司教が、豪華な祭壇の上から説教を垂れる。
「この飢饉は、汝らの信仰が足りぬ故に神がお与えになった試練である! ケガレを生み出す汝らの穢れた魂こそが、この国を蝕んでおるのだ! 祈れ! そして、捧げよ! さすれば、神の許しを得られん!」
教会は民衆から最後のパン一切れまでをも「献金」として搾り取り、その一方で、ケガレとされた人々を悪魔憑きとして容赦なく断罪した。
もはや、この国に救いはない。絶望は瘴気のように国土を覆い、人々は生きたまま腐っていく。そしてその腐敗の中から新たなケガレたちが、まるで毒キノコのように次々と生まれてくるのだった。
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聖都イドラ。大陸の信仰の中心地であり、イドラ教の総本山が鎮座するこの街は、外界の混乱が嘘のように静謐と秩序に満ちていた。
大理石で造られた純白の街並みは一点の染みもなく、道行く人々は敬虔な祈りを捧げ、聖職者たちの顔には慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる──少なくとも、表面上は。
教皇庁の最深部、『枢機卿の間』。壁には歴代教皇の肖像画が厳かに並び、天井からは巨大な金の十字架が吊り下げられている。その荘厳な空間で、大陸で最も権力を持つ老人たちが、極めて俗な議題について話し合っていた。
「……というわけで、ドゥームズガル帝国からの献金が、昨年比で八割も減少しております」
財務担当の枢機卿が、苦虫を噛み潰したような顔で報告する。
「このままでは、来年の『聖都大改修プロジェクト』の予算が……」
その言葉に他の枢機卿たちから溜息が漏れた。彼らの関心は飢えに苦しむ民衆のことではなく、自らの威信を示すための建築計画の遅延にあった。
「嘆かわしいことですな」
最高齢のアルトリウス枢機卿が、銀の杯に注がれた最高級のワインを一口含み重々しく言った。彼の前には七面鳥の丸焼きや見たこともないような高級食材を使った料理が並んでいる。もちろんこれは「質素な昼食」である。
「これも全て、悪魔の誘惑に他なりますまい。ケガレの増加は信仰の堕落の証。今こそ我らが神の剣となり、不浄を断ち切る時です」
「左様ですな」
異端審問局を統括するグレゴリウス枢機卿が、冷たい笑みを浮かべて同意した。彼の目は爬虫類のように細く、感情の色がない。
「各地の司教に命じ、ケガレの浄化を徹底させるべきでしょう。抵抗する者は悪魔の手先と見なし、火刑に処すまで」
「浄化」という言葉が、何の躊躇もなく口にされる。彼らにとって、ケガレとは救うべき魂ではなく、駆除すべき害虫に過ぎないのだ。
そんな彼らだが、ケガレの増加をむしろ好機と捉えていた。人々の不安と恐怖を煽り、教会の権威を高める絶好の機会だと。
議論が一段落した時、一人の若い枢機卿がおずおずと口を開いた。
「……あの、ルミナス王国についてですが」
その言葉に室内の空気が一瞬で凍りついた。
ルミナス王国。
そして、その国に巣食う最大の異端──ヘルゲート公爵家。
それはこの敬虔な老人たちにとって、最も聞きたくない名前だった。
「ヘルゲート……」
アルトリウス枢機卿は、まるで汚物でも口にしたかのように顔を歪めた。
「あの忌まわしき一族。聞けば、王国の第一王子とヘルゲートの娘が悪魔を召喚して結婚式を挙げたとか。もはや冒涜などという言葉では言い表せませんな」
「問題はその影響です」
若い枢機卿が続けた。
「報告によれば、ルミナス王国の王都では奇妙な流行が起きていると。人々はヘルゲート家の悪趣味を模倣し、ケガレとされる者たちを穢れではなく『個性』として受け入れているとか……」
「馬鹿な!」
グレゴリウス枢機卿がテーブルを叩いた。
「秩序の崩壊だ! 神への冒涜だ! 放置すれば、この穢れた流行が大陸中に広まりかねん!」
彼の言う通りだった。ヘルゲート家という存在はイドラ教が数百年かけて築き上げてきた価値観そのものを根底から揺るがしかねない危険なウィルスなのだ。
「……再び使者を送るべきですかな」
「無駄でしょう。あの狂人どもに神の言葉が通じるとは思えん」
「では、破門に?」
「それも効果があるかどうか……。むしろ、喜ぶかもしれん」
枢機卿たちは頭を抱えた。彼らの持つ権威も常識も、ヘルゲート家の前では全く通用しない。それは論理で説得しようとしても、そもそも言語が通じない相手と対峙するような絶望的な不毛さを伴っていた。
「……まずは、静観するとしよう」
長い沈黙の後、アルトリウス枢機卿が結論を下した。
「ルミナス王国の狂気はいずれ自滅を招く。我々はただ、神の裁きが下るのを待てばよい。それまでは他の地域の浄化を優先させるべきだ」
それは問題の先延ばしに過ぎなかった。だが、老人たちにはそれ以外の選択肢が思いつかなかった。彼らは自らの純白の楽園が、遠い北の地から滲み出してくる黒い染みによって少しずつ侵食され始めていることに、まだ気づいていなかった。
あるいは、見て見ぬふりをしているのか。
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ルミナス王国の王都は狂っていた。
だがそれは他国のような絶望や憎悪による狂気ではない。もっと陽気で、軽薄で、そして致命的に悪趣味な狂気であった。
ヘルゲート・シック。
エリアスとデスデモーナの結婚式をきっかけに爆発的に広まったこの流行は、今や王都の隅々にまで浸透し、人々の価値観を根こそぎひっくり返してしまっていた。
かつて美徳とされた「健康」「清潔」「明朗」といった概念は、今や「退屈」「凡庸」「没個性的」の象徴と見なされ、唾棄すべきものとなっていた。 代わって王都の若者たちが熱狂したのは、「病弱」「不潔」「陰鬱」といった、ヘルゲート的な美学である。
王都の目抜き通りを歩けばその異様な光景に誰もが目を剥くであろう。
貴族の令息令嬢たちはわざと目の下に墨で隈を描き、顔を青白く塗りたくり、いかに不健康に見えるかを競い合っていた。
「まあ、ご覧になって、セバスチャン様。今日のあなたの血色の悪さ、まるで三日三晩眠っていないかのよう。素敵ですわ」
「君こそ、イザベラ嬢。そのやつれた頬、まるで肺の病にでも罹っているかのようだ。実に魅力的だよ」
そんな会話が社交界の挨拶となっていた。
ファッションもまた劇的な変化を遂げた。
色とりどりの華やかなドレスは姿を消し、誰もが喪服のような黒い衣装を好んで身につけた。しかもただの黒ではない。わざと裾を泥で汚したり、生地をところどころ引き裂いたりして、「退廃的な雰囲気」を演出するのが最先端のスタイルだった。
アクセサリーは動物の骨や曰く付きの呪われた宝石(もちろん、ほとんどはただのガラクタである)が人気を博し、街の宝飾店では「不幸を呼ぶ」という触れ込みの商品が飛ぶように売れた。
そしてこの狂った流行の最も奇妙な点は、他国で忌み嫌われる「ケガレ」の扱いであった。
王都ではケガレはもはや「穢れ」ではなかった。彼らは「究極の個性を持つ者」「ヘルゲート・シックの体現者」として、一種の尊敬と羨望の対象とさえなっていたのだ。
生まれつき痣のある者は「神に選ばれた模様を持つ者」と持て囃され、その痣を模したタトゥーが大流行した。
瞳の色が違う者は「神秘の瞳を持つ者」として詩の題材となり、貴族のサロンに招待された。
指の数が多い者は「進化の可能性を秘めた者」として、学者たちの研究対象(という名の見世物)となった。
王都に流れ着いたケガレたちは当初この異常な歓迎に戸惑い、恐怖した。故郷では石を投げられ罵声を浴びせられた自分たちが、なぜここではスターのように扱われるのか。だが温かい食事と寝床を提供され、奇異の目ではなく好奇の目に晒されるうちに彼らもまたこの奇妙な楽園に適応していった。
王城の執務室。リチャードは宰相ガンジャが読み上げる報告書に耳を傾けながら、こめかみを指でぐりぐりと押していた。彼の胃はもはや、胃としての機能を放棄し、ただ痛みを発生させるだけの無用の臓器と化していた。
「……以上が、今月の『王都ヘルゲート・シック動向報告』にございます」
ガンジャが淡々と締めくくった。
「報告によりますと、先週開催された『第一回・最も不幸に見える貴族コンテスト』は大盛況のうちに幕を閉じ、優勝したマーガレット侯爵令嬢には、エリアス殿下とデスデモーナ様から『呪いのティアラ』が贈呈されたとのこと。ちなみに悪趣味なデザインというだけで実際に呪いを及ぼす様な事はないそうです」
「……もう、好きにしろ」
リチャードは力なく呟いた。もはや、彼にできることは何もない。この狂気の奔流を止める術など、どこにもないのだ。
「ガンジャ……。わしは、間違っていたのだろうか。あの結婚を認めたことが……」
「結果論かと存じます」
ガンジャは無表情のまま答えた。
「ですが、一つだけ確かなことがございます。現在、大陸中で最も治安が安定し、経済が活性化し、そして難民問題が解決に向かっているのは、このルミナス王国だけでございます」
その言葉は残酷な真実だった。世界が絶望に沈む中、この狂った王国だけが奇妙な繁栄を謳歌している。
リチャードは窓の外に目をやった。王都の空は今日もヘルゲート夫妻が王都に来て以来ずっとどんよりと曇っている。
だがその下で繰り広げられているのは悲劇ではなく、どこか滑稽で、そして馬鹿馬鹿しいほどに平和な喜劇なのだった。




