可哀そうなロザリア
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デスデモーナ・ヘルゲートという存在が王宮にもたらしたものは、単なる悪趣味な流行だけではなかった。それは王宮という閉鎖された水槽に放り込まれた一滴の猛毒であり、既存の生態系を根底から揺るがす触媒であった。
彼女の存在によって生じた居心地の悪さには、二つの側面が存在する。
一つは、言うまでもなく美的センスにおけるそれだ。ヘルゲート・シックの蔓延は、王宮から色彩と健全さを奪い、代わりに陰鬱なモノクロームと倒錯的な価値観を植え付けた。これは主に、感受性の強い芸術家や、古き良き伝統を重んじる保守的な貴族たちの精神を蝕んだ。
だが、問題はもう一つの側面であった。それは、この王宮という名の伏魔殿で、密やかに陰謀という名の毒草を育てていた者たちにとっての、極めて実務的な「やりにくさ」である。
彼らにとってデスデモーナ・ヘルゲートは、予測不能な台風であり、計算式の通用しないバグであり、そして何より、自分たちの緻密な計画を善意で粉砕してくる、歩く災害であった。
そして今、その災害の直撃を最も強く受け、己の運命を呪っている人物が一人。
国王リチャードの側妃、ロザリア・フォン・ヴァイス。その人である。
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ロザリア側妃は、薔薇に喩えられる女だった。燃えるような真紅の髪、陶器のように滑らかな白い肌、そして見る者を虜にする蠱惑的な笑み。しかし、その美しさの奥には、鋭い棘と、目的のためには手段を選ばない冷徹な野心が隠されている。
彼女の目的はただ一つ。自らの息子、第二王子であるレオポルドを次期国王の座に就けること。そのために、彼女は長年にわたり、水面下で周到な計画を進めてきた。
彼女の陰謀は、芸術品のように緻密で、そして静かだった。まず、第一王子エリアスの評判を失墜させるための噂を、まるで香水が自然に広がるかのように、計算され尽くしたタイミングと経路で流布させる。「エリアス王子は気性が荒く、些細なことで侍従を殴打した」「学問よりも狩猟に明け暮れ、国政には全く興味がない」。一つ一つは些細なゴシップ。だが、塵も積もれば山となる。いつしかエリアスは「有能だが傲慢な父王と、心優しいが病弱な母王妃の良いところを何一つ受け継がなかった、愚鈍で粗暴な王子」という評価を不動のものとしていた。
次に、王宮内の権力構造を巧みに操作する。レオポルド王子の教育係には自派閥の息のかかった学者を配置し、彼の聡明さをことさらに喧伝させる。エリアスを支持する旧来の貴族たちには、巧妙な罠を仕掛けて失脚させ、その空いた席に自らに忠誠を誓う者を滑り込ませる。
彼女の計画は完璧に進んでいた。エリアスは勝手に自滅し、レオポルドは着実に支持を固めていく。熟した果実が木から落ちるのを待つように、ただ静かに時を待てば、王冠は自ずと息子の頭上に輝くはずだった。
──デスデモーナ・ヘルゲートが現れる、その日までは。
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「聞いてちょうだい、奥様。最近、王宮の空気が澱んでいるのよ。まるで巨大な墓地にでもいるみたい」
ロザリアの私室。腹心の侍女が、主人の淹れた紅茶に毒見をしながら(これは彼女たちの間の信頼の証であり、決してロザリアが侍女を信用していないわけではない)、憂鬱そうに報告する。
ロザリアは象牙の櫛で艶やかな髪を梳かしながら、鏡に映る自分に問いかけるように静かに言った。
「澱んでいる、ですって? むしろ、わたくしには空気が澄みすぎているように思えるのだけれど」
彼女の言う「空気」とは、もちろん物理的なそれではない。陰謀家たちが呼吸するのに必要な、嘘と欺瞞と密約で構成された、濃厚でよどんだ空気のことだ。デスデモーナの出現以来、その空気が急速に浄化され、息苦しくて仕方がない。
最初の誤算は、あの忌まわしきヘルゲート・シックだった。
ロザリアは、ヘルゲート家から戻ったエリアスの異様な変貌を好機と捉えた。「エリアス王子は、あの邪悪なヘルゲート家の毒気に完全に当てられ、正気を失ってしまわれた」。この噂を流せば、彼の王位継承者としての資格に決定的な疑義が生じるはずだった。
だが、結果はどうだ。
「まあ、ヘルゲートの毒気にですって? なんて素敵なのかしら!」
「エリアス様、最近ますますミステリアスになられて、魅力的だわ」
王宮の貴婦人たちは、狂気を新たな魅力として絶賛した。愚鈍で粗暴な王子は、一夜にして「死の香りを纏う退廃的でクールなプリンス」へとイメージチェンジを遂げてしまったのだ。ロザリアの放った毒矢は、エリアスに当たる前に流行という名の強風に煽られ、ブーメランのように自らの計画に突き刺さった。
「……計画の修正が必要ですわね」
ロザリアは小さく溜息をつき、新たな一手について思考を巡らせる。
彼女の次の狙いは、エリアス派の重鎮、財務卿であるオルコット侯爵だった。清廉潔白で知られる彼だが、一つだけ弱みがあった。彼の溺愛する一人息子が、賭博で多額の借金を抱えているのだ。ロザリアはその借金を肩代わりする代わりに、オルコット侯爵に偽の帳簿を作成させ、エリアス王子が軍事費を不正に流用しているかのように見せかける計画を立てた。
密会の手筈は整えた。オルコット侯爵に送る手紙の文面も、脅迫と懐柔を織り交ぜた完璧なものを用意した。
「今宵、月の涙が枯れる頃、嘆きの噴水にて」
あとはこの手紙を、腹心の者に届けさせるだけ。そう思った、まさにその時だった。
「まあ、なんて退屈な文章でしょう」
背後から、鈴を転がすような、しかしどこか昏い響きを持つ声がした。ロザリアは心臓が凍る思いで振り返る。
いつの間にそこに立っていたのか。デスデモーナが、彼女の背後から手紙を覗き込んでいた。その黒曜石のような瞳が、好奇心にきらきらと輝いている。
「デスデモーナ、様……。いつからそこに?」
「つい先ほど、素敵な陰謀の匂いに誘われて、ふらりと立ち寄ってしまいましたの。ご迷惑でしたかしら?」
迷惑どころの話ではない。ロザリアの背筋を冷たい汗が伝う。
だが、デスデモーナの反応はロザリアの予想の斜め上を行くものだった。
「素晴らしいですわ、ロザリア様。このような緻密で、悪意に満ちた計画……。その冷酷な計算高さ、わたくし、感動で胸が震えております」
非難ではない。純度百パーセントの、称賛。
「つきましては、わたくしから一つ、ご提案がございますの」
デスデモーナはそう言うと、どこからか取り出した小瓶をロザリアの前に差し出した。中には、どす黒い液体が不気味に揺らめいている。
「脅迫状というものは、やはりインクで書くべきではありませんわ。人の血こそが、最も雄弁に恐怖を語るのです。これはわたくしのペットの吸血ヒルから採取した、新鮮な血液。これを使えば、あなたの言葉はより一層、相手の魂に深く刻み込まれることでしょう」
純粋な善意だった。彼女はロザリアの陰謀を「より芸術的に、より効果的に」するための手助けをしようとしているのだ。
「さあ、お使いになって? これは、あなたとわたくしの邪悪な友情の証ですわ」
ロザリアは震える手でその小瓶を受け取ることしかできなかった。その日、オルコット侯爵に届けられた手紙は、本物の血で書かれていた。受け取った侯爵は恐怖のあまり卒倒し、計画は始まる前に頓挫した。彼は翌日、震えながら全ての事実をリチャード国王に告白したという。
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ロザリアの計画は、ことごとく裏目に出た。まるで、見えざる巨大な手によって、緻密に組んだドミノが逆方向から倒されていくかのようだった。
その巨大な手の正体の一つは、デスデモーナの純粋すぎる善意。そしてもう一つは、ヘルゲート流の教育によって、もはや別人へと変貌を遂げたエリアス王子その人であった。
ある時、ロザリアはレオポルド王子の支持基盤である騎士団の団長を抱き込み、エリアスを模擬戦で叩きのめさせ、その威信を地に堕とそうと画策した。
模擬戦当日。エリアスはまるで怯える子羊のように、騎士団長の猛攻から逃げ回っていた。ロザリアはほくそ笑む。計画通りだ。
だが、観戦していたデスデモーナが、退屈そうにあくびを一つした。
「まあ、エリアス様。わたくし、退屈で死んでしまいそうですわ。もっとこう……血湧き肉躍るような、絶望的な展開はございませんの?」
その言葉が聞こえた瞬間、エリアスの動きが一変した。
「お望みのままに、我が最悪よ」
彼は騎士団長の剣を紙一重で避けながら、その耳元で囁いた。
「団長殿。貴殿の奥方、最近夜の外出が多いようだ。昨夜は東門の近くにある安宿で若い商人と『取引』をしていたとか。実に情熱的な『取引』だったと聞いています」
団長の顔から血の気が引いた。それは彼だけが知る、そして最も知られたくない秘密だった。
「な、なぜそれを……」
「ヘルゲート家の情報網とまではいかずとも、王家の腕もそれなりには長いのです」
エリアスは悪魔のように微笑んだ。動揺で動きの鈍った団長の隙を突き、彼は木剣を鮮やかに弾き飛ばす。勝負は一瞬で決した。
エリアスは倒れた団長を見下ろし、観衆に向かって言い放った。
「団長は家族を思うあまり心労がたたっていたようだ。しばらく休暇を取るがいい」
それは温情に見せかけた冷徹な脅迫だった。
この一件で、エリアスは「粗暴な王子」から「部下を思いやる度量の広い王子」へと、またしても評価を上げた。そして騎士団長は、ロザリアの最も忠実な駒から、エリアスに弱みを握られた無力な駒へと成り下がった。
ロザリアは観客席で唇を噛み締めていた。指先が氷のように冷たい。恐怖で呼吸が浅くなる。
もはや、王宮は彼女の知る場所ではなかった。ルールも、常識も、価値観も、全てがヘルゲートという名の混沌に塗り替えられてしまった。自分の緻密な計算がまるで子供の砂遊びのように、無邪気な悪意と計算高い狂気によっていとも簡単に崩されていく。
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追い詰められた獣は、最も危険な牙を剥く。
ロザリア側妃もまた、その例外ではなかった。度重なる失敗と、エリアスの不気味な成長、そして何よりデスデモーナという理解不能な存在への恐怖が、彼女の冷静な判断力を麻痺させていた。
「……もう、あの女を消すしかない」
深夜、私室で一人、彼女は震える声で呟いた。それはもはや、計算された陰謀ではなかった。恐怖に駆られた、衝動的な殺意の発露である。
彼女は、影の世界で最も腕が立つと噂される暗殺者ギルド『夜蜘蛛』に接触した。依頼内容は一つ、「デスデモーナ・ヘルゲートの暗殺」。法外な報酬と引き換えに、『夜蜘蛛』は最高の腕を持つ暗殺者「サイレント・デス」を差し向けた。
月のない夜だった。
サイレント・デスは、その名の通り、音もなく影のように王城に侵入した。東塔の最上階、魔窟と化したデスデモーナの部屋のバルコニーに、彼は猫のように軽やかに降り立つ。
部屋の中は、蝋燭の微かな光が揺らめくだけで、静寂に包まれていた。標的は、藁の寝床で静かに寝息を立てている。
(赤子の手を捻るようなものだ)
サイレント・デスは、腰に差した短剣に手をかけた。その刃には、瞬時に心臓を停止させるというヘルゲート家秘伝の(皮肉なことに)毒が塗られている。
彼は一歩、また一歩と、音もなく寝床に近づく。
あと一歩で、標的に手が届く。その瞬間だった。
「……こんばんは」
声は、寝床からではなかった。彼の真後ろからした。
サイレント・デスは驚愕に目を見開き、反射的に振り返る。
そこに立っていたのは、デスデモーナだった。藁の寝床で寝ていたのは、精巧に作られた身代わりの人形。彼女は闇に溶け込むような黒い寝間着姿で、部屋の隅の暗がりに置かれた拷問椅子に腰掛け、楽しげに彼を見ていた。
「お待ちしておりましたわ、お客様。こんな夜更けに、わたくしのような女に会いに来てくださるなんて。よほど熱烈な方とお見受けします」
サイレント・デスは、プロとしての冷静さを瞬時に取り戻した。彼は無言で短剣を構え、デスデモーナに飛びかかる。
だが、デスデモーナは微動だにしない。
「まあ、なんて性急なのかしら」
彼女が指をぱちんと鳴らした。
その瞬間、サイレント・デスの足元の床板が開き、彼は悲鳴を上げる間もなく、暗い奈落へと落下していった。
数秒後、地下から鈍い衝突音と、男の短い呻き声が聞こえてくる。
「ようこそ、わたくしの『おもてなしの間』へ」
デスデモーナは穴を覗き込み、恍惚とした笑みを浮かべた。
「さあ、これから楽しい夜の始まりですわ。あなたのその鍛え上げられた肉体と精神が、どこまでわたくしの『友情』に耐えられるか……。じっくりと、試させていただきませんとね」
その夜、東塔からは、人間のものとは思えない、長く、長く続く絶叫が響き渡ったという。
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翌朝、ロザリアの元に届けられたのは、一つの小さな木箱だった。差出人の名はない。
彼女が震える手で箱を開けると、中には人間の指が一本、綺麗に並べられていた。その指には、暗殺者ギルド『夜蜘蛛』の紋章が刻まれた指輪が嵌められている。
そして、一枚のカードが添えられていた。美しいカリグラフィーで、こう書かれていた。
『素敵なプレゼント、ありがとうございました。彼とは、生涯忘れ得ぬほどの、深く、熱い友情を結ぶことができましたわ。次はぜひ、あなた様とも。 デスデモーナより、愛を込めて』
ロザリアの口から引き攣ったような音が漏れた。そしてその場に崩れ落ち、そのまま気を失った。
この日を境に側妃ロザリアが陰謀を企てることは二度となかった。彼女はすっかり気力を失い、部屋に引きこもりがちになったという。
リチャード国王はこの一連の騒動の顛末を宰相ガンジャから報告され、ただ深く、そして長い溜息をついた。
「……ガンジャ。あの『絶望茸のスープ』とやらを、今すぐ持ってまいれ。もはやあれに頼るしか、この胃痛を忘れる術はないようだ」
かくして、王宮に巣食っていた一つの毒は、より強力で、より悪趣味で、そして何より予測不能なもう一つの毒によって見事に駆逐されたのであった。
為政者として成長を遂げた息子を頼もしく思う一方で、その成長の方向性に一抹の不安を禁じ得ない王の心労はこれからも続く。
めでたし、めでたし──とは、とても言えそうにない。