厭なデート
◆
デスデモーナ・ヘルゲートが王都へと旅立ってから、十日が過ぎた。
それはヘルゲート公爵領にとって由々しき事態であった。娘が、そしてその娘婿が不在となった公爵邸には、かつてないほどの静寂と──そして、いまいましいほどの「平穏」が訪れてしまっていたのである。
太陽が容赦なく優しい光を照りつけ、その光に照らされた庭の黒薔薇たちは心なしか萎れ、嘆きの泉から立ち上る霧も以前のような魂を凍らせるほどの濃密さを失ってしまっている。
使用人たちの動きにさえ奇妙な活気があった。足取りは軽く、顔には微かな血の気が差し、挨拶の声には無駄な張りが含まれている。なんと健全なのか。
「……空気が、澄みすぎている」
ヘルゲート公爵、レドラムは書斎の窓から見える忌々しいほどの青空に顔を顰め、重々しく呟いた。指先が積年の絶望が染み込んだ黒檀の机を苛立たしげにこつ、こつと叩く。
デスデモーナという存在そのものがこの館の空気を澱ませ、腐敗させ、美しく熟成させるための触媒であった事が改めてよく分かる。今やヘルゲート邸はただの陰気な屋敷へと成り下がりつつあった。このままではいずれ壁の染みも薄れ、床の軋みも音楽性を失い、地下牢の怨念さえも浄化されてしまうやもしれぬ。
それは断じてあってはならないことであった。レドラムは公爵位を戴く貴族であるが、それ以前にヘルゲート公爵家を支える家長なのだ。家庭内環境にも気を配る責務がある。
レドラムは静かに立ち上がると、妻ウェネフィカの私室へと向かった。扉をノックするまでもない。中から漏れ聞こえてくるチェンバロの美しい音色が彼の耳に届いていた。ウェネフィカが退屈を持て余している証拠である。彼女の機嫌が良い時はそれはもう耳を覆いたくなる様な不協和音を奏でるのだ。
レドラムが部屋に入ると、案の定ウェネフィカは薄っすらと微笑みながら鍵盤を叩いていた。窓から差し込む陽光が彼女の青白い肌を透かすように照らしている。
「ウェネフィカ、我が最愛の闇よ」
レドラムが声をかけると、彼女はぴたりと指を止め、ゆっくりと振り返った。凪いだ瞳──毒気の欠片もない。重症だ。
「あなた……。この館、息が詰まりそうですわ。まるで健康な人間用の療養施設にでもいるかのよう」
「同感だ。このままでは、我々の魂も健やかになってしまう」
レドラムは彼女の傍らに歩み寄り、その冷たい指先に自らの指を絡めた。
「故に、だ。少し出かけないか。我々の魂を、再び穢れさせに」
ウェネフィカの瞳にようやく仄暗い光が宿った。
「まあ、お出かけですの? どこへ?」
「厄地の西方だ。今、あの地は一年で最も瘴気が濃くなる時期を迎えている」
その言葉を聞いた瞬間、ウェネフィカの唇が夜に開く花のように緩やかに綻んだ。それは久しぶりに聞く心からの喜びの表明であった。
「まあ……! 素敵ですわ、あなた。最高の提案です」
厄地の西方。そこはヘルゲート公爵領の中でも、特に生命が生存を拒絶する土地。大地は常に呪詛の霧に覆われ、まともな植物は育たず、魔獣さえも寄り付かない不毛の荒野。魔界の入り口、あるいは地獄の裏庭とさえ呼ばれる場所。
ウェネフィカでさえ訪れる事を禁じられている魔の領域。
◆
馬車はまるで巨大な黒い甲虫のように陰鬱な街道を滑るように進んでいく。
内装はレドラムの悪趣味が遺憾なく発揮された空間であった。壁には所有者を次々と死に追いやったという呪いのタペストリーが掛けられ、座席のビロードは血を吸ったかのように深く黒い。天井からは人間の背骨を模した銀細工のシャンデリアが下がり、車輪が軋むたびに、まるで死者の咽喉から漏れるような微かな音を立てて揺れる。
この移動式の霊廟とも言うべき空間で二人は寄り添っていた。
「おお、愛しき我が闇。そなたの目の下の隈……。長期にわたる心労と不眠が見事に結晶化している。どんな宝石よりも深く、そして美しい。今すぐ抉り取ってしまいたいくらいだ」
レドラムがウェネフィカの目の下を親指で優しくなぞりながら囁く。
「あなたこそその眉間に刻まれた皺は、まるで苦悩という名の彫刻家が魂を込めて彫り上げた傑作のようですわ。見ているだけで虫唾が走ります。その眉間に毒を垂らした短刀を突き刺してあげたい」
ウェネフィカはうっとりと目を閉じ、レドラムの胸に頭を預ける。その仕草に応えるようにレドラムは彼女の細い首筋に顔を寄せた。吸い込まれるのは甘い花の香りではない。死の淵を覗き込んだ者だけが纏うことのできる、腐葉土と古書の黴が混じり合ったような、退廃的で知的な香り。常人がこの香りを嗅げば、72時間以内に死に至るだろう。
「この健全な日々に、君がどれほど苦しんでいるかと思うと……私の胸は歓喜で張り裂けそうだ」
「いいえ、ダーリン。あなたの苦しみこそがわたくしにとって最高の慰め。あなたがこの平穏に顔を歪めるたび、わたくしの心は満たされる」
互いの不幸を蜜のように味わい、相手の苦痛を愛の言葉として交換する。これこそがヘルゲート流の愛情表現に他ならない。指を絡め合い、互いの肌の不健康なまでの白さや、血管の青い筋を確かめ合う。
そうしていちゃついているうちに馬車が大きく揺れ、車窓の外の景色が変容していく。生命力に満ちた緑は次第に色を失い、ねじくれ、枯れ果てた木々が、まるで天に助けを乞う亡者の腕のように突き出ている。
「着いたようだな」
レドラムの言葉に、ウェネフィカはゆっくりと顔を上げた。二人の視線が交錯する。そこには、これから始まる悍ましい絶景への期待が、暗い炎のように揺らめいていた。
◆
馬車の扉が開かれた瞬間、濃密な瘴気がむわりと流れ込んできた。それは単なる悪臭ではない。魂の最も深い部分に直接作用し、希望を削ぎ、生命力を奪い去る、質量を持った負のエネルギーの奔流だ。常人が浴びれば48時間以内に死に至る。
「……ああ、素晴らしい」
ウェネフィカは恍惚の溜息を漏らし、その空気を胸いっぱいに吸い込んだ。まるで最高級の香水のように。
眼前に広がる光景は、まさに地獄絵図の一筆書きであった。
大地はまるで巨大な死体の皮膚のようにひび割れ、その裂け目からは紫色の毒々しい煙がゆらゆらと立ち上っている。空は鉛色の雲に厚く覆われ、太陽の光は一切届かない。点在する沼は、腐敗した宝石のように鈍い光を放ち、水面には時折、名状しがたい何かの泡が浮かんでは消える。
この地にのみ自生するという『嘆き茸』が、あちこちで青白い燐光を放っていた。この茸はその胞子を吸い込んだ者の精神に直接干渉し、最も美しい絶望の幻覚を見せることで知られている。学術的には極めて貴重な種であるが、その研究のためにこの地を訪れた王立学院の植物学者が、狂気のうちに自らの喉を掻き切って果てたという報告以降、まともな調査は行われていない。
「見て、あなた。空が泣いているようですわ」
ウェネフィカが指さす先では、重苦しい雲から黒い雨がぱらぱらと降り始めていた。その雨粒が大地に落ちると、じゅっ、と音を立てて白い煙が上がる。酸性雨などという生易しいものではない。それは天そのものが流す呪詛の涙であった。常人がこの雨に打たれれば、まあ当たり前の話だが死ぬ。
「ああ、壮観だ。これほどの絶望が凝縮された景色はいつ見ても飽きることがない」
レドラムはまるで美術館で名画を鑑賞するかのように、その悍ましい光景に目を細める。
二人は腕を組み、ゆっくりと荒野を散策し始めた。足元では、奇妙な形をした昆虫とも甲殻類ともつかない生物が慌てて岩陰に隠れる。虫けらと侮ってはならない。この地の虫けらは皆猛毒を持つのだから。
「しばらく見ないうちに、腐敗もずいぶんと進んだようだな」
「ええ。素敵な光景……あなたが居なければわたくしの肉体でさえも蝕まれて、余り長くは生きられないでしょうね」
しばらく歩いた後、レドラムは小高い丘の上で足を止めた。そこからは厄地の西方の全景が見渡せる。
「ウェネフィカ」
彼は静かに妻の名を呼んだ。
「今日、君をここに連れてきたのは、ただこの絶景を共に見るためだけではないのだ」
ウェネフィカは不思議そうに小首を傾げる。その仕草はどこか娘のデスデモーナに似ている。
「見せたいものがある」
レドラムはそう言うと、丘の向こう側を指さした。
そこには、大きな大きな穴が空いていた。
ヘルゲート公爵邸すらすっぽり入るほどの巨大な穴。底は見えない。なにやら黒い靄が立ち込めている。
「あれは……?」
ウェネフィカが問いかける。以前
レドラムはその唇に愉悦と狂気が入り混じった、酷薄な笑みを浮かべた。
「ゆりかごさ。人間たちが厄地と呼ぶ領域にしか出来ないものだ」
「ゆりかご──」
ウェネフィカは穴をまじまじと視て、言った。
「────」と。
それに対してレドラムは頷き、「────」と答えた。