厭な次期王妃
◆
王城で最も華やかであったはずの一室は、今やヘルゲート公爵領の陰鬱さを忠実に再現した、悪趣味の極みのような空間へと変貌を遂げていた。この前代未聞の「環境改善」は、王城の使用人たちを震撼させ、特に未来の王妃に仕えるはずだった侍女たちの間では、恐怖と絶望が疫病の様に蔓延していった。
「聞いた? 東塔の部屋、夜な夜な壁から呻き声が聞こえるんですって
」
「私は辞めさせていただくわ。あんな魔女に仕えるなんて、命がいくつあっても足りないもの」
辞職者が後を絶たず、女官長のプリムローズ夫人は頭を抱えた。かくしてデスデモーナ付きの侍女は、籤引きという極めて民主的な方法で決定される。神の御心という名の不運に身を委ねるしかない状況と相なったのだ。
そしてその呪われた役目を引き当てたのは、三人の侍女であった。勤続三十年のベテラン、マーサ。年若く怖がりなリリー。そして、どこか陰のある雰囲気を持つ無口なアガサ。三人の生贄──もとい、侍女たちは、覚悟を決めてその魔窟へと足を踏み入れたのである。彼女たちの最大の懸念は、あの常軌を逸した趣味を自分たちにも強要されるのではないか、という一点に尽きた。
◆
「おはようございます、デスデモーナ様。朝のお支度のお時間でございます」
マーサが鋼の精神で呼びかけると、部屋の隅に積まれた藁の山がもぞりと動き、デスデモーナが現れた。彼女は小さくあくびをすると、残念そうに呟く。
「……ああ、昨夜は何も夢を見ませんでしたわ。実に退屈で、健全な夜でした。心身ともに休まりすぎて、かえって不調をきたしそうです」
侍女三人が凍りつく。常人とは健康の概念からして違うらしい。
「よくお休みになられたご様子、何よりでございます」
マーサがお手本のような返答をすると、デスデモーナは静かに首を横に振った。
「いいえ、少しも良くはありません。ですが、これはわたくし個人の問題。あなたたちを付き合わせる謂れはないわ。さあ、仕事の時間です」
その凛とした声には、意外なほどの公私の区別があった。侍女たちは顔を見合わせる。想像していたような、狂気をまき散らすだけの人物ではないのかもしれない。
次に始まったのはドレス選びである。
侍女たちが用意したのは、未来の王妃にふさわしい春の日差しのような明るい黄色のドレスだった。それを見たデスデモーナは、一瞬、心臓を鷲掴みにされたかの様な苦悶の表情を浮かべたが、すぐにそれを完璧な無表情の下に隠した。
「……承知しておりますわ。公の場では、王家の人間として民に希望を与える華やかな装いをすることも、次期王妃としての務めの一つですわね」
彼女は淡々とそれを受け入れた。しかし侍女たちがドレスを着せていく間、ぽつり、ぽつりと独り言が漏れ聞こえてくる。
「この目に染みるような色彩……まるで魂が悍ましい聖なる光で焼かれていくようですわ……」
「この軽やかな生地、まるでヤスリの様……」
「うう、苦しい……辛い……心が引き裂かれる快感……」
それは誰に聞かせるでもない、彼女自身の魂の嘆きだった。自分の趣味を他者に押し付けるのではなく、ただ己の美学と公的な立場の間で引き裂かれているだけの姿。その様子にリリーは恐怖よりも先に、奇妙な同情のようなものを感じていた。
その時、それまで黙っていたアガサが、おずおずと一枚のドレスを差し出しす。夜の闇をそのまま布にしたような、漆黒のベルベットのドレスだった。
「……私室で、おくつろぎになる際にでも、と」
その瞬間、デスデモーナは驚いたようにアガサを見た。そしてその唇に、いつもの不吉なものではない、穏やかで静かな笑みが浮かぶ。
「……ありがとう。気が利きますのね」
◆
デスデモーナは自らの立場を驚くほど冷静に理解していた。
お茶の時間になれば最高級の茶葉と菓子を礼儀正しく口にし、「結構なお味ですわ」と無難で面白くもなんともないコメントを述べる。侍女たちが刺繍を教えれば、王家の紋章を寸分の狂いもなく縫い上げてみせた。
彼女が自らの趣味を解放するのは、常に一人きりの時だけだった。
ある夜、リリーはデスデモーナに頼まれた本を届けに彼女の私室の扉をノックした。返事がないことを訝しみ、そっと扉を開けると──
デスデモーナは公務用の優雅な椅子ではなく、床に置かれた拷問椅子(もちろん本物ではない精巧なミニチュアである)に腰掛け、壁の染みをうっとりと眺めながら、懐から取り出した干からびた黒い薬草を、まるで高級な菓子のようにつまんでいた。
「……やはり、この苦味がなければ落ち着きませんわ」
その姿はまるで厳しい戒律を守る修道女が人知れず祈りを捧げているかのようにも見えた。自分の本質を決して他者に強要せず、ただ一人静かに満喫する。その徹底した姿勢はある種の気高さすら感じさせた。
リリーは慌てて扉を閉め、心臓の鼓動が鎮まるのを待った。怖い。確かに怖いが、それ以上にデスデモーナの孤独に触れてしまったような、見てはいけないものを見てしまったような、複雑な気持ちになった。
侍女たちの間でデスデモーナに対する認識は日を追うごとに変化していった。彼女はただ価値観が致命的にズレているだけで、決して理不尽な主人ではない。むしろ誰よりも己を律し、立場をわきまえた驚くほど常識的な(ヘルゲート家基準ではない)人物なのではないか、と。
そんなある日、その認識を決定づける事件が起こった。
若い侍女のリリーが緊張のあまり手を滑らせ、王家伝来の高価な磁器の花瓶を床に落として粉々に割ってしまったのだ。
ガシャーン! という派手な音と共に、リリーは血の気を失い、その場にへたり込んだ。知らせを聞いたプリムローズ女官長が血相を変えて駆けつけ、リリーを厳しく叱責する。
「なんてことをしてくれたのです!」
誰もがデスデモーナの冷たい裁きを覚悟した。
だが当のデスデモーナは床に散らばった破片の前に跪くと、うっとりとそれを眺め、恍惚の溜息を漏らしたのである。
「まあ……なんて、美しいのかしら。歴史あるものがこうして無残に砕け散る。このどうしようもない喪失感……。これぞ真の芸術ですわ」
その反応までは皆の予想通りだった。問題はその先である。
デスデモーナはすっと立ち上がると、震えるリリーに向き直り、しかし有無を言わせぬ声で告げた。
「リリー、でしたかしら。あなたは王家の什器を損壊させました。これは紛れもない事実であり、あなたの務めにおける重大な過失です。よって、罰は受けねばなりません」
リリーは絶望に目を閉じた。
だが、デスデモーナの言葉は続いた。
「ですが、その過失がわたくし個人に予期せぬ芸術的感銘をもたらしたことも、また事実。よって、あなたの罰はわたくしの独断で変更します」
彼女は妖しく微笑んだ。
「罰として、あなたには『この割れた花瓶の破片を、わたくしの部屋の最も目立つ場所に、最も美しく見える形で配置すること』を命じます。これは命令です。できますわね?」
リリーは震える手で破片を芸術的に並べた。
まあ芸術などリリーにはよくわからないのだが、自分なりに映えそうな配置を色々試していく。そんな光景を見つめるデスデモーナと、固唾を飲んで見守る他の侍女たち。
時折、叱責なのか助言なのかもよくわからない声がかけられる。
──「それがあなたの絶望の形なの?」
──「凌辱がありませんわよ!」
──「最も暴力的で、最も原始的で、そして最も変態的な配置をするのです」
そして二時間後、ついにデスデモーナをして「冒涜的な……」と言わしめる配置を完成させたリリー。
それは首を模して並べた破片の列を、大き目の破片が横断する様に置かれた配置図であった。
モチーフが示すところは、すなわち斬首。
王族に連なる者に対してこんなものを並べるというのは、それこそ処刑されても文句は言えない。
リリーの大金星である。
◆
ともかくもそれからというもの、侍女たちのデスデモーナへの態度は、「畏敬」と「深い好奇心」へと変わっていった。彼女の公的な顔と私的な顔」のギャップを理解し、その両方を受け入れ、支えようとさえし始めたのだ。
ある夜、デスデモーナが自室で不吉な図案の刺繍をしていると、マーサが「お夜食にございます」と銀の盆を運んできた。そこには最高級の焼き菓子とハーブティー、そしてその隅にまるで偶然置かれてしまったかのように、一輪の黒く変色した枯れた薔薇が添えられていた。
王国ではこれは一言で言えば栄枯盛衰を意味する。
愛や美、情熱といったものが醜い形で終わりを迎えるという意味の呪いのモチーフだ。
だがデスデモーナは刺繍の手を止め、その枯れた薔薇を指先でそっと撫でた。
「……マーサ」
「はい、デスデモーナ様」
「あなたたち、少しずつ……わたくしのことが、分かってきましたわね」
その声には、確かな喜びの色が滲んでいた。顔を上げ、妖しく、そしてどこか嬉しそうに微笑むデスデモーナ。
マーサは深く頭を下げた。その顔には安堵とも困惑ともつかない複雑な笑みが浮かんでいた。




