厭な模様替え
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王都は、その長い歴史の中で幾度となく危機に瀕してきた。蛮族の侵攻、疫病の蔓延、そして王位を巡る血で血を洗う内乱。だが、これから訪れる厄災は、それらとは全く質の異なる、より陰湿で、そして致命的に悪趣味なものである。
デスデモーナ・ヘルゲートが王都の正門を通過する、まさにその瞬間。それまで抜けるような青空だったはずの王都の上空に、まるで巨大なインク瓶をひっくり返したかのように、みるみると暗雲が立ち込めていく。
これは全くの偶然である。この時期の天候が不安定なことは、王立気象観測院のデータでも示されている。畢竟、自然現象にすぎない。
だが、王都の民衆はそうは考えない。
「見たか……? あの女が来た途端に、空が……」
「ヘルゲートの魔女め……やはり厄災を連れてきやがった」
集団心理とは実に御しやすい。一度「こうである」という物語が共有されてしまえば、人々はそれに合致する情報だけを選択的に信じ、補強し合う。たとえそれが、ただの気圧の谷の通過であったとしても。
馬車はそのまま、民衆の囁きを心地よいBGMとしながら、王城へと滑るように吸い込まれていく。
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王城の正門前では、エリアスが完璧な姿勢でその到着を待っていた──朝からずっと。
食事もとっておらずずっと仁王立ちであったため肉体的にも辛いはずなのだが問題はない。精神が肉体を凌駕すれば人間それくらいは出来るのだ。
やがて馬車が現れるとエリアスはの両眼がカッと見開かれた。
そして馬車の扉が、まるで溜息をつくように静かに開かれる。
最初に現れたのは闇を凝縮したようなドレスの裾。次いで、月光を思わせる青白い手。そして最後に、デスデモーナ・ヘルゲートその人が、王都の陰鬱な空気を一身に浴びながら、優雅に姿を現す。
「待っていたよ、デスデモーナ。我が魂の伴侶よ」
エリアスは流れるような動作で彼女の前に跪き、その手を取って恭しく口づけを落とした。
「この無菌状態の王都で、君という名の致死毒がどれほど待ち遠しかったことか! 君の不在は、僕の精神を健全な退屈で蝕んでいたとも」
「まあ、エリアス様。お顔の色が良すぎますわ。わたくしがいない間、さぞかし幸福で退屈な日々をお過ごしだったのでしょうね」
デスデモーナはうっとりと目を細め、エリアスの頬にそっと手を添える。
「ご安心ください。これからは、毎日が地獄のように素晴らしい日々になりますわ。道中、素敵な野盗の方々と心温まる交流をしてまいりましたの。そのお土産話も、たくさんございますのよ」
「それは素晴らしい! ぜひ、今宵にでもゆっくりと……」
二人が見つめ合い、こともあろうに王城の正門前で抱き合ってイイ感じになっていると──そこに胃痛の化身が姿を現す。国王リチャードである。
ついでにガンジャも隣にいる。
国王、宰相がそろってわざわざ出てきたのだ。ご苦労な事であった。
「……二人とも、その辺にしておけ」
リチャードはこめかみを指で押さえながら、できるだけ威厳のある声を出そうと努力している。
「ようこそ、デスデモーナ嬢。長旅、ご苦労であったな」
「まあ、陛下」
デスデモーナはリチャードに向き直り、完璧なカーテシー(貴婦人の行うお辞儀)を見せた。
「わたくしの苦労を労ってくださるなんて……なんと無慈悲な御言葉でしょう。もっと苦労してくればよかったと、今、激しく後悔しておりますわ。道中、馬車の車輪が外れて崖から転落するくらいの不幸に見舞われるべきでした」
「……そうか。次からはそうなるよう手配させよう。まあいい、とにかく中へはいろう」
リチャードはもはや、まともに返す気力もない。
歩きながら宰相ガンジャが今後の段取りを促す。
「デスデモーナ様のお部屋は東塔の最上階にご用意しております。王妃教育の担当官も選定済みです。まずは、旅の疲れを癒していただきたく」
ガンジャが淡々と告げると、デスデモーナは僅かに眉をひそめる。
「東塔の最上階……ですって? 確か、王城で最も日当たりの良い部屋ではございませんこと?」
「左様でございます。未来の王妃にふさわしい、最も見晴らしの良いお部屋かと」
「なんてこと……」
デスデモーナは絶望に打ちひしがれたようによろめく。エリアスがすかさずその華奢な体を支えた。
「この溢れんばかりの光、この健康的な空気……。そこにいては、わたくし、気が滅入ってしまいますわ。太陽光とは、わたくしのような日陰の存在にとっては、魂を焼く拷問に等しいのです」
常人ならば歓喜するであろうこの厚遇が、彼女にとっては独房以下の環境らしい。価値観の多様性とは、時にかくも残酷なすれ違いを生むもの。リチャードは深く、そして長い溜息をつく。彼の胃はすでに限界を訴え始めていた。
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王妃教育は翌日から早速開始される。
担当に任命されたのは女官長のプリムローズ夫人。貴族の作法と歴史を知り尽くした厳格で知られる老婦人である。彼女はこれまで何人もの姫君を教育してきたが、デスデモーナほど「教育のし甲斐がない」生徒は初めてだった。
作法、歴史、紋章学、外交儀礼──デスデモーナは、そのすべてを完璧にマスターしている。あまりに完璧すぎて、プリムローズ夫人は教えることが何もない。
「素晴らしいですわ、デスデモーナ様。ですが、もう少しだけ……笑顔に温かみが欲しいところですわね」
「温かみ、ですか?」
デスデモーナは小首を傾げると、にっこりと微笑んでみせる。
「これで、よろしいかしら?」
それは完璧な笑顔だった。ちなみににも同じ笑みを向けた事がある。瞳の奥は絶対零度の深淵を湛えており、プリムローズ夫人は背筋に氷を差し込まれたような悪寒を覚えた。
「……え、ええ。結構ですわ」
結局、王妃教育は早々に「教えることなし」という結論に至り、デスデモーナは膨大な自由時間を持て余すことになる。そして、その有り余る時間はもっぱら自室の「環境改善」に注がれることとなった。
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最初の異変を報告したのは、デスデモーナ付きの若い侍女。
「へ、陛下! 申し上げます! デスデモーナ様が、お部屋の壁紙を……!」
リチャードがガンジャを伴って東塔の部屋へ駆けつけると、そこには信じがたい光景が広がっている。
最高級の絹織物で作られた美しい壁紙は無残に引き剥がされ、代わりに、湿った黒土のようなものが塗りたくられていた。部屋中に黴と腐葉土が混じったような陰鬱な匂いが立ち込める。
「デスデモーナ嬢、これは一体どういうことかね!?」
リチャードが怒りを通り越して呆然と問いかけると、当の本人は部屋の隅で、楽しげに鼻歌を歌いながら壁に土を塗りつけている。
「まあ、陛下。ようこそ、わたくしのささやかな安息の地へ。どうです? 少しは落ち着く空間になってきたでしょう? 王都の空気は乾燥しておりますから、こうして適度な湿り気を与えてあげないと、お肌にもよろしくありませんのよ」
彼女はヘルゲート領から取り寄せたという「嘆きの土」を、まるで最高級の化粧品でも扱うかのように、うっとりと壁に塗り込んでいく。
「この壁の不気味な染みはなんだ!」
リチャードが、すでに壁の一部に広がっている黒い染みを指さして叫ぶ。ただの染みではない。人の顔に見える。
「ああ、それは『絶望の染み』ですわ。嘆きの土に含まれる、かつてその地で死んでいった者たちの怨念が、壁に染み出してきているのです。美しいでしょう? 夜中になると、時折、人の顔のように見えることもあるのですよ。とても慰められますわ」
「慰められるだと!?」
リチャードはめまいを覚えた。だが、悪夢はまだ始まったばかり。
数日後には窓という窓に分厚い黒ベルベットのカーテンが何重にも吊るされ、部屋は昼間だというのに真夜中のように薄暗くなる。
さらにその数日後には、どこからか持ち込まれた動物の頭蓋骨や、曰く付きの呪われた人形、所有者を次々と不幸にしたという曰く付きの宝飾品などが、部屋の至る所に飾られ始めていた。
「では、あれは!」
リチャードは、暖炉の上に飾られた、特に大きな山羊の頭蓋骨を指さす。角がねじくれており、見るからに不吉である。
「森で拾ってきましたのよ、可愛いでしょう?」
「……そうか」
リチャードは返す言葉もない──精神的な疲労で。
最終的に豪華だった王族の寝台は解体され、代わりに大量の藁が運び込まれてきた。
「やはり、寝床はこうでなくては。硬くて、ちくちくして、時々虫が這い出てくるかも……。ああ、なんて寝心地が悪いのかしら。最高の悪夢が見られそうですわ」
藁の上にごろりと横になり至福の表情を浮かべるデスデモーナを前に、リチャードはついに天を仰ぐ。
「……もう、好きにしろ」
それは国王としての、そして一人の常識人としての完全な敗北宣言であった。ちなみに藁はしっかりと干されており、虫は這い出てこないので問題はない。
こうして王城で最も日当たりが良く華やかだったはずの一室は、わずか数週間でヘルゲート公爵領の陰惨さを忠実に再現した、悪趣味の極みのような空間へと変貌を遂げてしまった。