厭な世界情勢③
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リチャードは決断した。息子エリアスが提示した、常軌を逸したプロパガンダ作戦を採用することにしたのである。
常識的に考えても考えなくても、それが致命的に悪趣味であることはリチャードも理解している。しかしこうも露骨に内政干渉の様な真似をされてはリチャードとしても堪忍袋の緒が切れるというものだった。
「ガンジャ、やるぞ」
「は。直ちに」
宰相ガンジャは感情を表に出すことなく、ただ淡々と命令を受諾した。この男は効果的かそうでないかという観点でものを判断することにかけては王国随一である。
そして王国の中枢はエリアスが提示した「物語」を現実に塗り替えるために、迅速かつ的確に動いた。
王立魔術科学院は『ドラゴンの涙』に関する新たな「研究成果」を数日で発表した。
曰く『あの収穫時の呻き声は小麦に宿る微小な豊穣の精霊たちが、自らを人々の糧とすることへの喜びと、神への感謝を捧げる豊穣の祝詞である』と。
馬鹿げている。
誰がどう聞いても、それは安っぽい子供だましの御伽噺だ。
だがプロパガンダとは畢竟、そういうものである。
重要なのは真実ではなく、人々が信じたい真実らしきものを提供することなのだ。
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この新しい「物語」は、王国お抱えの吟遊詩人、劇団、そして訓練された広報官たちによって、驚くべき速度で拡散された。
飢餓に苦しむ他国を尻目に実際に豊かな食生活を享受している王国国民にとって、この物語は実に心地よい自己肯定感を与えた。
「我々は神に祝福されているのだ」と──国民の罪悪感が烈日の下の水たまりのごとく消えてゆく。
王都の市場では「一番良い声で歌う小麦粉」が高値で取引されるようになり、一部の好事家たちはパンを焼く際に「どのパンが一番苦しそうに、あるいは楽しそうに歌うか」を競い合うという、実にしょうもない遊びに興じる始末だった。
同時にヘルゲート公爵領の「ケガレ」たちに対する認識も意図的に塗り替えられていった。
彼らはもはや単なる被差別民ではない。
──『厄地適応進化人類』
それが彼らに与えられた新しい呼称となった。
瘴気に適応し、常人には不可能な環境で魔術触媒を採掘する英雄たち。
そしてレドラム公爵は、「狂気の貴族」から「深淵の真理を解き明かす預言者」へと華麗なるジョブチェンジを果たしたのである。
この一連の熱狂をリチャードは複雑な表情で見守っていた。
確かに状況は好転している。だがそれは全て、狂気と虚構の物語の上に成り立っている危うい繁栄だった。
リチャードの顔色はエリアスの望み通り、しおしおと憔悴していくのだった。
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この事態を最も苦々しく、そして激しい怒りをもって見ていたのは当然ながら「教会」──イドラ教の指導者たちであった。
彼らが心血を注いで広めてきた「世界的な凶作は神の罰である」というシンプルで分かりやすい物語が、よりによって「神の奇跡による豊穣の歌」という、馬鹿げた物語によって上書きされてしまったのだ。
これは教会の権威に対する重大な挑戦であり、そして何より、彼らの宗教的ビジネスモデルの根幹を揺るがす危機であった。
教会は即座に王国に対して最も強硬な姿勢を示す公式な抗議使節団を派遣することを決定した。
その知らせが王城に届いた時、リチャードはガンジャに命じる。
「ガンジャ……呼べ。あの男を」
「御意。特別外務卿を招集いたします」
王国特別外務卿、ヒース・ロウ・ユキムラ。
この役職は一言で言えば「外交の汚れ仕事請負人」である。国家の公式な外交ルートでは扱えない極めて厄介で、非公式で、そして時には倫理規定に抵触しかねない案件を専門に担当する。
通常の外務卿が王国の顔であるならば、特別外務卿は王国の尻拭い役だ。
まあ外務を担う省の長が二人いるのは組織としてどうなのかという向きもあるかもしれない。
しかしその心配は無用だ。
なぜなら、特別外務省はヒース・ロウ・ユキムラただ一人で構成されているからである。
部下もいなければ、上司も(国王を除けば)いない。完全なる一人官庁、あるいは名誉職という名の厄介払いである。
ちなみにこの男、レドラム公爵が「外交には劇薬も必要ですぞ!」と強く推薦し、どこぞの賭博場の裏で「面白い奴がいた」と言って拾ってきたという経緯がある。
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そして会談当日。
会談の場は謁見の間ではなく、王城の西の端にある長年使われていない埃っぽい会議室が指定された。
これもまた、非公式な格下げの演出であり、ユキムラの提案によって採用された案だ。
当然のごとく、イドラ教会の使節団は席に着いた瞬間から不機嫌だった。豪華な緋色の法衣を纏った大司教ゴルロイスを筆頭に、高位聖職者たちが硬い表情で並んでいる。
予定時刻を五分ほど過ぎた頃、その男は現れた。
ヒース・ロウ・ユキムラ。
貴族の礼装とは程遠い、だらしない格好をしている。襟元がヨレたシャツに、仕立ての悪いズボン。極度の猫背で、焦点の合わない眠そうな目をしている。まるで三日酔いの博打打ちがそのまま迷い込んできたかのようだった。
彼は使節団を一瞥すると、空いている席にどっかりと腰を下ろして行儀悪く足を組んだ。
「どうも、特別外務卿のユキムラですー。えーと、なんでしたっけ? なんか我が国に文句があるって話でしたよね?」
そのあまりに不遜な態度に、ゴルロイス大司教の顔が法衣と同じ色に染まった。
「貴様……! 光神の代理人たる我々に対して、その態度はなんだ! ここは神聖な交渉の場であるぞ!」
ユキムラは心底面倒くさそうにポリポリと頭を掻いた。
「いや、あの、あなたたちが『神の代理人』っていうのは、あくまであなたたちの組織内での役職ですよね? それって、外交の場で何か意味があるんですか? なんかこう、神様からの全権委任状とか、そういう客観的な証拠とか持ってきてるんです?」
「なっ……!」
ゴルロイスは絶句した。
神の権威をまるで怪しげな商取引の証明書のように扱うこの男の神経が理解できなかった。
「信仰とは証拠などという俗なものを超越している! 我々の言葉こそが神の言葉であり、真実なのだ!」
「あー、はいはい。なるほど。つまり証拠はないけどあなたたちの言うことを信じろってことですね。でもそれって、感想とか思い込みの類じゃないですか?」
ユキムラは続けた。
「で、本題なんですけど。『ドラゴンの涙』でしたっけ。あれが神の摂理に反するって話」
「そうだ! 作物が呻き声を上げるなど、自然の秩序を乱す行為だ! 異端の魔術で生命を弄んだ証拠だ!」
「いや、それ、あなたの感想ですよね? あのですね、人によって、音の聞こえ方って違うじゃないですか。実際、我が国の国民はみんな『良い歌だね』って言ってますし。あれが『呻き声』であるという証拠は、どこにあるんですか? 小麦にインタビューでもしたんですか?」
「インタビューだと?」
「はい。あの音が、小麦が苦痛を感じているという客観的なデータとか、あるんですか? データがないなら、それは『呻き声』ではなく、単なる『音』ですよね」
「ぐぬぬ……! だが、あの小麦は、ヘルゲート公爵家という、異端の魔術によって生み出されたものだ! それは紛れもない神への反逆だ!」
「異端、ねえ」
ユキムラは、わざとらしく大きな溜息をついた。
「でも、その異端の小麦のおかげで、この国の民は飢え死にせずに済んでるわけですよ。大司教様は民が飢えて苦しむ姿を見る方が神の御心に沿うと?」
「それは試練だ! 信仰心を試すための!」
「試練って言えば聞こえはいいですけど、要するに放置プレイですよね? もし光神様が本当に全能なら、魔術なんて使わなくても、みんなが食べられるようにすればいいじゃないですか。それができないってことは、光神様も実はそんなに万能じゃないのかもしれませんね」
「きっ、貴様ああああ! それ以上の侮辱は許さんぞ!」
ゴルロイスはついに杖を振り上げ、ユキムラに掴みかかろうとした。
だがユキムラはまるで予期していたかのように、ひらりと身をかわし、部屋の隅にあった大きな壺の陰に移動した。
「あー、暴力はよくないですよ。話し合いましょうよ。冷静に。データに基づいて」
彼は壺の陰から顔だけを出し、ニヤニヤと笑いながら続けた。
「そもそも、あなたたちがヘルゲート領を『悪魔の土地』と決めつけるのも、根拠が薄弱なんですよね。あそこに住んでる人たち、みんな幸せそうですよ? 労働環境もホワイトだし。むしろ、あなたたちが言う『清浄な世界』で迫害されてた時の方が、よっぽど地獄だったんじゃないですか?」
「彼らは瘴気に冒され、正常な判断力を失っているのだ!」
「正常な判断力って、誰が決めるんですか? それって、結局多数派の意見ってだけですよね? 自分たちと違う考え方をする人間を『異常』と決めつけて排除する。そういうの多様性がないっていうか、シンプルにダサくないですか?」
「ダサい……だと……?」
ゴルロイスはあまりの衝撃に立ち尽くした。
彼の絶対的な正義と信仰が、ダサいというこの上なく軽薄な言葉で否定されたのだ。
「もうよい!」
ゴルロイスは怒りと屈辱で全身を震わせながら叫んだ。
「この国の者とは、これ以上の対話は不可能だ! 異端者どもめ! いずれ神の鉄槌が下るであろう!」
そうして使節団を引き連れ、乱暴に扉を開け放つと足早に去っていった。
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「……見事に追い返したな」
嵐が去った後、ガンジャが静かに部屋に入ってきた。
「あー、疲れました。あの手の人たちって、自分の正義を疑わないから、話が平行線になるんですよね。論破するより飽きさせるのが一番です」
ユキムラは再びソファにだらしなく寝そべりながら、懐から取り出した干し肉をかじり始めた。
「お前のその態度は、外交官としてはいかがなものかと思うが……結果は上々だ」
ガンジャはそう認めざるを得なかった。
「これで当面、教会は表立った内政干渉を控えるだろう」
ユキムラは干し肉を咀嚼しながら、面倒くさそうに言葉を続けた。
「まあ、向こうから席を蹴って帰ってくれましたからね。これで『王国側が一方的に交渉を打ち切った』とは言えなくなった。ここが重要なんですよ」
「ふむ。いっそ初めから使節団の受け入れを拒否するという選択もあったはずだが」
ガンジャの問いに、ユキムラは鼻で笑った。
「それこそ最悪手ですよ、宰相様。公式な使節団を門前払いすれば、教会に『我々は対話を試みたが、野蛮な王国はそれを拒んだ』という、これ以上ないほど分かりやすい被害者の立場と、こちらを非難する口実を与えることになります。そうなれば、他国の敬虔な信者たちを煽動するのは実にたやすい。我々は『対話のテーブルにすら着かない独善的な異端国家』というレッテルを貼られておしまいです」
ガンジャは黙って頷く。確かにその通りだった。受け入れを拒否することは自ら悪役の仮面をかぶるに等しい。
「では、武力をもって追い返すという選択は?」
「論外です」と、ユキムラは即答した。
「外交使節、それも聖職者に対して剣を抜いた瞬間、我々は『神の使いに刃を向ける悪魔の国』として断罪されるでしょう。教会はそれを待ってましたとばかりに『聖戦』を布告しますよ。そうなれば、内外の信徒が一斉に敵に回り、王国は完全に孤立する。大義名分を丸ごと相手にプレゼントするようなものです。そんな馬鹿げた手はありません」
ユキムラは身体を起こし、空になった干し肉の包み紙を丸めて放った。
「だから、このやり方が一番マシなんです。一度は対話のテーブルに着き、議論の末に『相手側から』交渉を打ち切らせる。これなら、こちらが非難される筋合いはない。『我々は誠心誠意話し合おうとしたが、残念ながら彼らが感情的になって席を立ってしまった』。そう国内外に表明できる。教会がいくら我々の非礼を訴えたところで、それは水掛け論にしかなりませんからね。時間稼ぎとしては上々でしょう」
ガンジャは深くため息をついた。ユキムラのやり方は正道からは限りなく外れている。だが、国益という観点から見れば、これ以上なく合理的かつ効果的だった。
「……やはり貴様はレドラム公爵が気に入るだけはあるな」
その余りにもひどい罵倒に、ユキムラはただニヤリと笑うだけだった。