秩序ある世界
◆
朝の六時半。
目覚まし時計が鳴る前に野山 晴は目を覚ました。
枕元のスマートフォンを手に取り、ニュースアプリを開く。
『昨日午後三時頃、新宿駅南口改札にて二十代男性が自動改札機の列に横入りし、治安維持ロボットRX-7により即座に処分されました』
画面をスクロールする指が止まることはない。
妻の美咲が隣でまだ寝息を立てている。
野山は静かにベッドから降りた。
洗面所で顔を洗いながら、鏡に映る自分の顔を眺める。
三十五歳。
特に特徴のない顔だ。
リビングに向かうと、すでに小学三年生の息子・陽太が朝食の準備をしていた。
「おはよう、父さん」
「おはよう」
テレビからは朝のニュース番組が流れている。
『続いてのニュースです。昨夜、コンビニエンスストアのレジ待ちで割り込みをした四十代女性が、店内設置のRX-5により処分されました』
陽太は黙々とトーストにジャムを塗っている。
野山はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
豆を挽く音が静かな朝の空気に響く。
「今日は理科のテストがあるんだ」
陽太が口を開いた。
「そうか。準備はできているか?」
「うん。電気回路のところ、全部覚えたよ」
コーヒーの香りがキッチンに広がっていく。
野山は息子の頭を軽く撫でた。
七時十五分。
いつもの時間に家を出る。
マンションのエレベーターホールには、すでに数人の住人が並んでいた。
野山は列の最後尾に立つ。
誰も口を開かない。
エレベーターが到着し、順番通りに乗り込んでいく。
八階から一階まで、沈黙が続いた。
駅までの道のりは徒歩十分。
歩道橋の階段を上っていると、下から急いで駆け上がってくる若い男がいた。
男は野山を追い越そうとして、一瞬立ち止まる。
そして諦めたように野山の後ろをゆっくりと上り始めた。
駅の改札前。
長い列ができている。
野山は定期券を取り出しながら、列の最後尾を確認した。
前から十七番目。
いつもと同じくらいの位置だ。
ホームに降りると、乗車位置を示す白線の前にきちんと二列で並ぶ人々の姿があった。
電車が滑り込んでくる。
降りる人を待ち、順番に乗り込んでいく。
野山は吊り革を掴んだ。
隣に立つ女性のイヤホンから、かすかに音楽が漏れている。
クラシックのようだ。
バッハかもしれない。
車内アナウンスが流れる。
『次は新橋、新橋です。お降りの方は順番にお降りください』
新橋で大量の人が降りた。
空いた席に向かって、一番近くに立っていた老人がゆっくりと腰を下ろす。
野山の会社は次の浜松町だ。
オフィスビルのエレベーターホール。
朝の八時四十五分、出社ラッシュの時間帯だ。
六基のエレベーターの前に、それぞれ整然と列ができている。
野山は自分のフロアに停まる三号機の列に並んだ。
天井の監視カメラが、小さく首を振りながら人々を見下ろしている。
カメラの横には、RX-3の待機ランプが緑色に点灯していた。
十二階のオフィス。
野山のデスクは窓際から三列目にある。
パソコンを起動させ、メールをチェックする。
企画会議の時間変更の連絡が入っていた。
午後二時から三時に変更。
スケジュール帳に書き込む。
「おはようございます、野山さん」
同じ課の田中が挨拶をしてきた。
「おはようございます」
田中は三十歳。
野山の五つ下だ。
「昨日の企画書、部長に提出しました」
「そうですか。反応はどうでした?」
「まだ何も……」
田中の声が少し沈んだ。
野山は軽く頷いて、自分の仕事に戻った。
十時。
会議室での定例ミーティング。
資料を手に、野山は会議室に向かう。
すでに数人が着席していた。
野山は空いている席を確認して座る。
上座から順番に埋まっていく。
部長が入ってきた。
全員が立ち上がる。
「座ってください」
部長の声に従い、一斉に着席する。
会議が始まった。
売上報告、新規プロジェクトの進捗、来月の展示会について。
野山は手元の資料にメモを取りながら聞いている。
「野山君、例の件はどうなっている?」
突然、部長から質問が飛んできた。
「はい。取引先との調整は順調に進んでおります。来週中には最終確認が取れる予定です」
「そうか。遅れないようにな」
会議は一時間で終了した。
十二時。
昼休みのチャイムが鳴る。
野山は弁当を持って休憩室に向かった。
電子レンジの前に、すでに五人ほどが並んでいる。
野山は列の最後尾についた。
温められた弁当を持って、窓際の席に座る。
妻が作ってくれた唐揚げ弁当だ。
美咲の唐揚げは、冷めても美味しい。
「野山さん、ここいいですか?」
田中が向かいの席を指差した。
「どうぞ」
田中も弁当を広げる。
「奥さんの手作りですか?」
「ええ。田中さんは?」
「コンビニ弁当です」
田中が苦笑いを浮かべた。
休憩室のテレビでは、昼のニュースが流れている。
『本日午前十一時頃、都内のスーパーマーケットで、レジの列に割り込みをした六十代男性が……』
アナウンサーの声が淡々と事実を告げる。
田中は黙々と弁当を食べている。
野山も箸を動かし続けた。
午後一時。
デスクに戻り、午後の仕事を再開する。
メールの返信、資料の作成、データの入力。
キーボードを叩く音が、オフィスに規則正しく響いている。
二時五十五分。
会議の五分前。
野山は資料を持って会議室に向かった。
廊下で、慌てた様子の若手社員とすれ違う。
社員は野山を追い越そうとして、はっとした表情で立ち止まった。
そして野山の後ろをついてくる。
会議室のドアの前で、野山は振り返った。
「どうかしましたか?」
「いえ……会議に遅れそうで」
「まだ時間はありますよ」
若手社員は安堵の表情を浮かべた。
会議は予定通り一時間で終了した。
新商品の販売戦略について、いくつかの提案がなされた。
野山の提案も採用される見込みだ。
四時。
部長から呼ばれ、個室に向かう。
「野山君、来月のプロジェクトリーダーを頼みたい」
「承知いたしました」
簡潔なやり取り。
野山にとっては三度目のプロジェクトリーダーだ。
部長室を出て、エレベーターホールに向かう。
ちょうど部長も会議のために一緒に出てきた。
エレベーターを待つ列は八人ほど。
野山は最後尾に並び、部長もその後ろについた。
大分慌てている様子だ。
「野山君、実は専務が急に……」
部長が何か言いかけた瞬間、エレベーターが到着した。
扉が開き、中から人が降りてくる。
そして乗り込み始めた時、部長が突然野山の横をすり抜けた。
列を無視して、エレベーターに向かって一歩、二歩。
瞬間、天井のRX-3が赤く点滅した。
金属音が響く。
天井から降下したロボットアームが、部長の首筋に正確に針を打ち込んだ。
部長の体が硬直する。
「あ……」
小さな声が漏れ、部長は床に崩れ落ちた。
エレベーターの扉が閉まる。
次のエレベーターを待つため、列は一つ前に詰められた。
野山も一歩前に進む。
床に倒れた部長の体を、清掃ロボットが静かに回収し始めた。
血液一滴残さず、効率的に処理されていく。
三分後、次のエレベーターが到着した。
野山は順番通りに乗り込む。
十二階のボタンを押した。
オフィスに戻ると、すでに総務部から全社メールが配信されていた。
『営業部長の急逝により、明日より営業部長代理として……』
野山はメールを読み流し、自分の仕事に戻った。
デスクに戻ると、田中が心配そうな顔で近づいてきた。
「大丈夫でしたか?」
「ええ。来月のプロジェクトリーダーを任されました」
「おめでとうございます!」
「ただ、その……」
野山は言いよどむ。
「どうされました?」
「その部長ですが、先ほど処分されてしまいまして。専務がどうとか言いながら列を無視して──大分急いでいたみたいです」
「ああ……そうですか……。まあ、仕方ないですね」
「ええ。まあ仕方ないですよこればかりは」
◆
五時半。
定時まであと三十分。
野山は明日の準備を始める。
必要な資料をファイリングし、デスクの上を整理する。
帰り支度をしている同僚たちの姿が、ちらほらと見え始めた。
六時。
タイムカードを押す。
退社の列に並ぶ。
エレベーターホールは、朝とは逆の流れで混雑している。
それでも誰も急ぐ素振りは見せない。
駅までの道のり。
街灯が点き始めた通りを、野山は一定のペースで歩く。
前を歩く人を追い越すことはない。
後ろから来る人に道を譲ることもない。
ただ、自分のペースで歩き続ける。
駅のホーム。
帰宅ラッシュで混雑している。
野山は定位置に並んだ。
電車を二本見送り、三本目に乗り込む。
車内は相変わらず静かだ。
スマートフォンの画面を見つめる人、目を閉じる人、宙を見つめる人。
それぞれが自分の世界に没入している。
七時十五分。
自宅のあるマンションに到着。
エレベーターを待つ間、野山は今日一日を振り返った。
特に変わったことはない。
いつもと同じ一日だった。
玄関のドアを開けると、夕食の匂いが漂ってきた。
「おかえりなさい」
美咲が笑顔で迎えてくれる。
「ただいま」
陽太がリビングで宿題をしていた。
「理科のテストはどうだった?」
「百点だったよ!」
陽太が誇らしげに答えた。
野山は息子の頭を撫でた。
夕食はハンバーグ。
陽太の好物だ。
「今日、クラスの山田君が給食の列に割り込みしそうになったんだ」
陽太が箸を止めて言った。
「それで?」
「先生が止めたから大丈夫だった。山田君、真っ青な顔してた」
美咲が心配そうに陽太を見る。
「陽太も気をつけなさいね」
「うん、分かってる」
テレビでは夜のニュースが始まっていた。
『本日の割り込み処分件数は全国で二十七件。昨日より三件増加しました』
キャスターの声が響く。
野山は黙ってハンバーグを口に運んだ。
九時。
陽太が寝る時間だ。
「おやすみ、父さん」
「おやすみ」
陽太の部屋のドアが閉まる。
野山と美咲は、リビングのソファに並んで座った。
「今日、スーパーで買い物してたら、若い女の子が危うく割り込みしそうになってね」
美咲が静かに話し始めた。
「お母さんが必死で止めてた」
「そうか」
野山はテレビのリモコンを手に取った。
チャンネルを変える。
ドキュメンタリー番組が流れている。
『治安維持ロボット導入から十年。日本の秩序は完璧に保たれています』
ナレーターの声が厳かに響く。
野山は音量を少し下げた。
十時半。
風呂から上がり、寝室に向かう。
美咲はすでにベッドに入っていた。
「明日は土曜日ね」
「ああ。陽太を公園に連れて行こうと思う」
「いいわね。私は買い物に行くわ」
野山はベッドサイドのライトを消した。
隣で美咲の寝息が聞こえ始めた。
野山も目を閉じる。
また新しい一日が始まる。
いつもと変わらない、なんてことのない一日が。
私怨を作品へ昇華しました