蘇る芳香の先
拭き上げられた擦り硝子の窓の向こうは明るみがかっている。
店内からでも快晴と分かるオレンジがかった黄色の日差しがキラキラと硝子窓に跳ね返る。
「何だっけ?あの歌・・・ほら、あの・・・あ~出てこない」
カウンターの後ろのソファ席に前屈みに座り眉間を人差し指と中指で押さえる70を過ぎたぐらいに見える男性が唸っている。
「大月みやこの女の駅じゃない?たしか・・・」
こちらは髪の半分以上が白くなった無精髭を生やした眼鏡をかけた男性だ。
「あー~!そう、それだ。」
「ちなみにその年の大賞はたしかマッチの愚か者じゃなかったかしら」
二人の常連客をカウンター越しに見比べながら、高畑泉は落ち着いた声で言った。
「さっすがぁ、ママ、何でも知ってるねぇ」笑みを浮かべながらも泉は玄関先に見える新客の影に目を遣る。
ベーコンの上に目玉焼きを乗せればもうカウンター客のモーニングを提供できる状態だ。
「いらっしゃいませ。」
15分ほどが経過し、店内が少し落ち着いたころ、先ほどの二人の男性客が会計にやってきた。
「ごちそうさま。みずきちゃん元気?」
「さぁ、どうかしら。ここのところ全然顔も見ないし。元気にやってると思うんだけど」
泉は愛想笑いを浮かべながらも苦笑いになっていないかを気にしていた。
「もうすぐ高校生でしょ?そんなもんだよね」
また明日、と言って常連客は玄関をあとにした。
高畑泉が人形町駅のすぐ近くに喫茶店を開いたのは3年前のことだった。
バイトの女の子は何人か入れ替わり今は一人いるが、ほとんどの業務は泉一人で行っている。
泉が店の出店を3か月後に控えた一月の始め、彼女の姉は交通事故で亡くなった。
毎日涙ぐむ瞬間が訪れ、それはいつも一人でいる時に訪れた。
彼女の夫である高畑裕典は自分の前では明るく振舞おうとする泉を心底心配した。
一度は店の開店を遅らせようとしていた泉を前向きにさせたのも夫の裕典だったのだ。
泉の姉の一人娘、すなわち泉の姪にあたる瑞希は当時中学一年生だった。
姉家族との集まりに義兄の仁の姿はほとんどなかった。
彼は一流企業の本部長として一昨年就任した。
それ以降、夜は接待に、休日の多くも接待に出る仁抜きの生活を姉夫婦は強いられていたのだ。
学校帰りの瑞希を店の休憩室で待たせるのも当然の流れだったと言えよう。
大抵彼女は部屋の隅にあるテーブルで宿題をやっているかゲームをしているかだった。
母がいない悲しみからは逃れられない様子の彼女も父親の不在は当然のごとく慣れている様子であった。
時折泉が仕事を終えて片付けをしていると中学生とは思えない大人びた口調で彼女はこう言った。
「天国はきっとあるんだよね」
その度に泉は瑞希を強く抱きしめた。
開店から半年が過ぎ、瑞希は店を手伝うようになった。
泉から頼んだのではなく、瑞希が言い出したのだ。
瑞希の仕事は配膳だった。
美形の彼女は客から可愛がられた。
夏休みなどの長期休暇には瑞希はほとんど店にいるので「明日も来るね」と言って帰っていく客も何名かいたほどだ。
それが泉は嬉しかった。
そんな瑞希も中学三年生になり、次第に店に顔を出さなくなった。
受験勉強で遅くまで友達の家に行っていることが多い。
それでも夜には泉の家に来て夕食を摂る。
七月の第二週の金曜日、恒例の夏祭りが開催された。
前日の夜、瑞希は夕食を摂った後、恥ずかしそうに泉に言った。
「泉さん、明日夏祭りに行きたいんだけど・・・浴衣着せてくれない?」
そうか、いつもは姉が着せてやってたのだと今更ながら泉は瑞希の気持ちを悟った。
「もちろんよ。ただ夜は危ないから22時までには必ず帰ってきてね」
「うん、わかった。」
翌日の夏祭りの日、少し居残りをして勉強をして帰ってきた瑞希は両手に大きな紙袋を抱えていた。
一度家に帰ったようで紙袋の中には涼しげな白地にブルーの大輪の花を映し出した浴衣が顔を覗かせていた。
瑞希の母が買ってやった瑞希のお気に入りの浴衣だ。
着付けを終え、髪をポニーテールに結い終えたところで瑞希の友人の咲が玄関のチャイムを鳴らした。
泉は笑顔で見送った。
時計が午後十時八分を指した頃、泉は携帯電話を片手に落ち着きなく室内を歩いていた。
先程から幾度となく発信している相手は勿論、姪の瑞希である。
しかし電話先では留守番電話の無機質なアナウンスの音声が響くだけだった。
泉が近くまで探しに行こうとバッグを取り出した時、携帯電話が着信を告げた。
「もしもし、瑞希ちゃん?」
「すんません、ミズキ倒れちゃって・・・もう少し休ませてから帰るから・・・」
電話先の相手は瑞希ではなく少年の声だった。
「え・・・?どういうこと?今病院?」
ツーツー
頭が真っ白になるとはまさしくこういうことだった。
電話を掛けてきた少年は瑞希の友人で間違いないのだろう。
しかし何がどうなって瑞希が倒れたのか分からない。
三時間ほど前に送り出した時の瑞希は体調が悪そうな気配はなかった。
二十分近く時間が経過し、泉がダイニングテーブルで指を組み瞼を閉じているとガチャガチャという音に続いて玄関のドアが開いた。
そこには伏し目がちで具合の悪そうな様子の瑞希が立っていた。
「泉さん、ごめん・・・人混みで気持ち悪くなって倒れちゃった」
玄関で草履を脱いだ瑞希の両足の親指と人差し指の間は少し赤くなっている。
長時間歩いたのと久しぶりに掃く慣れない草履で靴擦れをしたのだろう。
「大丈夫?倒れたときは大丈夫だったの?」
左の頬を左の中指で搔きながら瑞希はつぶやく。
「うん、大丈夫。楽器屋さんで寝てた」
楽器屋とは商店街のギターやベースを置いた店で、二階が練習所になっている。
いわゆる貸しスペースというやつだ。
店の奥に喫煙スペースがあり、その横にブルーのベンチがあるのを泉は知っていた。
その後も会話を交わした後、もう少し部屋で横になると言う瑞希を二階の部屋に送った。
今日は瑞希の父の仁は名古屋に出張中である。
“困ったな”と泉は眉間に皺を寄せた。
カーテンの隙間から光が降り注ぐ。
一見で晴天と分かる世界に手を伸ばしカーテンを開けながらも高畑泉の表情は冴えない。
朝食のオムレツの卵を割っていると階段をゆっくりと降りる足音が聞こえた。
「おはよう」
瑞希はすっきりした表情を見せている。
よく眠れたのだろう。
グレー地に白色の小花模様のパジャマは瑞希と一緒に買いに行ったものだ。
「おはよう、調子はどう?」
泉は卵の白身が付いた手を素早く洗い流し、タオル掛けにぶら下がった淡い橙のタオルで拭きながら言った。
「泉ちゃん、あのね、ちょっと話したいことがあって」
そう言う瑞希の顔には笑顔は見えない。
「何、どうしたの?ほら、こっち座って」
ダイニングテーブルの上の新聞紙とチラシを棚の上に移しながら泉は瑞希を椅子に座るよう促す。
「あの、昨日のことなんだけど・・・倒れたって友達が電話したと思うんだけどね・・・」
「ん・・・?それがどうしたの・・・?」
瑞希の視線はテーブルの上に置かれた林檎と泉の胸のあたりを行き来している。
「あの・・・えっと・・・・・・」
「もしかして、そうじゃなかった?」
瑞希の目を直視して口元を緩めながらキッパリとした口調で泉が言う。
「・・・うん・・・・・・」
瑞希はやっとのことで泉のほうを見て呟いた。
少しの間が空き、二人の間に沈黙が流れる。
口火を切ったのは泉のほうだった。
「本当は何があったの?」
「ゲームセンターに行って遊んでたら十時を過ぎちゃってて・・・
「うん」
「十時までに帰るって約束したから・・・それで・・・・・・何とかしなきゃって・・・」
言い終えた後の瑞希はバツの悪そうな顔をしている。
「何とかしようと思ってお友達に倒れたって嘘ついてって電話してもらったの?」
先程まで穏やかだった泉の声は穏やかさは保ちながらもトーンが下がって響いた。
「・・・・・・」
それ以上何も言わない瑞希を見て泉はため息をついた。
椅子から立ち上がり、正面に座り俯く瑞希の元へとゆっくりと歩き出した。
膝に置いた左手の手首を掴まれて瑞希は自分の世界から引き離された。
それと同時に泉が怒っていることを確信した。
泉は右手で瑞希の手首を引っ張り、ダイニングの真横のリビングの絨毯へと連れていく。
そこに正座し、足元に瑞希を引き寄せる。
「どれだけ心配したか分かってるの?お尻叩くからね」
瑞希は嫌な予感が的中したことを悔み掴まれたままの左手に力を入れた。
「こーら、ちゃんと来なさい」
そう言われながら泉の膝の上に腹ばいにされてしまった瑞希は何年も前の記憶を遡った。
あれは幼稚園か小学校低学年の頃だっただろうか。
母の香織が用事で父の裕典が仕事の土曜日の午前中、叔母の家に預けられた。
家に行くのは二度目だったが、一人で行くのはもちろん初めてだった。
昼食のスパゲティは美味しそうだったが瑞希の嫌いな人参が入っていた。
食事中におなかが痛いとトイレに行って口の奥に押しやった千切りされた人参を吐きだし流して扉を開けようとすると叔母の泉が立っていた。
その後、何とも言えぬ空気感の中で食事を終え、皿を洗い終えた泉に連れてこられたのもこのリビングだったのだ。
嫌というほどお尻をぶたれた後、抱きしめてくれた叔母の胸は良い匂いがした。
人参を食べさせようとしたのは母の香織だったのだ。
パジャマのズボンごとパンツを下ろされてしまった。
無防備な尻は真っ白で中学生ながらも華奢な体つきがまだ子供のままの姿を映し出す。
「なんでお仕置きされるかわかってる?」
腰をぐっと押さえられて逃げる術がない。
「・・・嘘ついたから・・・」
少し間が空きお尻に痛みが走った。
パチーン
バチーーーン ピシャ――ン
「いやぁ・・・いたぁ・・・」
バシーーーッ パチーーン
「痛いのは当たり前でしょ?」
バシッッーーーー パ―――ン バチーーーーン ピシャーーーン
「わあぁぁぁーん、やだぁあ・・・」
パシーーン ビシッッ
「反省しなさい」
瑞希の尻は左右の尻たぶを交互に叩かれ赤みを帯びている。
パン パン パァァン
パン パァァン バチーン!
痛みに耐えられず、腰をくねるが腰に回された手にぐっと力が入り固定されてしまう。
バシッッーーーー パ―――ン バチーーーーン ピシャーーーン
バシーーーッ パチーーン
「何か言う事があるでしょう?」
パン パン パァァン!
「・・・ご、ごめんなさい・・・」
バチーーーン ピシャ――ン
バシッッーーーー パ―――ン バチーーーーン ピシャーーーン
尻をぶつ音と瑞希の「うっ・・・」という声が部屋中に響き渡る。
パシーーン ビシッッ
しばらくして尻を叩く泉の手が止まった。
腹のほうに手が回され、身体を起こされふっと膝をついて座ると目の前に泉の困ったような顔が見えた。
「心配させるようなことしないの」
それと同時に首に手を回され、あっという間に泉の温かい両手で抱きしめられた。
ふわっと香るその胸元はあの日と同じ香りだった。
「ほら、浴衣持っておいで。洗わないと汚れが取れなくなっちゃう」
照れくさそうに体を話し頷いて階段のほうに駆け出す後ろ姿からはもう何も後ろめたさなど感じられなかった。