第7章:健二の想い
幼い頃の健二は、目立たない少年だった。
友達はほとんどいなかったが、それを寂しいとは思わなかった。
草木を観察し、その間で暮らす虫たちに思いを馳せる時間が何よりも好きだったからだ。
父親から古びたカメラを譲り受けたのは、中学生の頃だった。
「健二、これでお前の見ている世界を撮ってみたらどうだ?」
健二にとって、そのカメラは新しい世界への入り口だった。
虫たちが葉に隠れる瞬間、風に揺れる草花、雨粒が描く無数の模様――カメラ越しに見る世界はいつも新鮮で。
まるで自分だけのもののような気がした。
健二は写真を撮ることで、少しずつ自分を表現できるようになった。
高校生になると、父親の勧めで地元の写真展に出展し、少しずつ評価され始めた。
だが、それでも健二の興味は「人やものそのもの」よりも、「そこにある風景」にあった。
「モデルを撮ってみたらどうだ?」
父に勧められたこともあったが、健二は首を横に振った。
「僕は……ただ日常にあるものを撮りたい。」
街角で遊ぶ子供たち、祭りの準備をする老夫婦、河原で一人静かにたたずむ若者――
そうした「日常」を切り取るのが健二の写真だった。
高校を卒業してから、健二はその目で広い世界を見たいと、カメラ片手に海外を渡り歩いた。
彼の撮る写真は、静かで美しかった。荒れ果てた大地に咲く一輪の花――それは健二が切り取った風景の中でも、一番に美しいと思う写真だった。
日本に帰国した日、健二は運命的な瞬間に出会う。
その日は新しい撮影機材を求めて商店街を歩いていた。
ふと目に留まったのは、近くのビルから出てくる一団の女性たち。
みんな笑顔で話しながら歩いている。その中でも、ひときわ目を引いたのが律子だった。
楽しそうに同僚と談笑しながらも、どこか品があり、自立した女性の雰囲気を漂わせていた。
一緒に歩いていた女性たちが商店街へ向かう中、律子は彼女たちに手を振ると、静かな公園へと足を向けた。
そこにポツンとたたずむベンチに腰を掛けると、彼女は小さなお弁当箱を広げた。
秋の冷たい風に髪を揺らしながら、お弁当を食べる律子の姿は、健二にとって「特別な風景」そのものだった。
(この人のことを、もっと知りたい。)
だが、健二はコミュニケーションが苦手だった。
結局、自分の写真をベンチにそっと置くことしかできなかった。
彼が初めて置いたのは、荒れ果てた大地に咲く一輪の花の写真だった。
(こんなことをしたら、気持ち悪がられるかもしれない……でも、この気持ちをどうにかしたい。)
律子はその写真をうれしそうに眺め、その日はそっとベンチの隅に置き、立ち去った。
風で飛ばされないよう、ハンカチでくるんだ小石で重しがしてあった。
嬉しく思った健二は、その後も数日に一度、自分が大切にしている写真を律子に贈るようになった。
彼女が気づいてくれたら、それだけで良いと思った。
そして、10枚ほどの写真をベンチに置いたある日、ついに健二は勇気を出して律子の隣に座った。
言葉は出なかった。ただ律子の横に座り、心臓の音が聞こえるほどの緊張に耐えるしかなかった。
「素敵な写真をいつもありがとうございます」
律子が柔らかく微笑みながらそう言った瞬間、健二は涙が溢れそうになるのをこらえた。
それは、彼にとって初めて「認められた」瞬間だった。
交際を始めた二人は、律子の昼休みに公園で会い、お弁当を一緒に食べるのが日課となった。
健二にとってその時間は何よりも大切で、律子の隣にいることで自分が「立派な人間」になれた気がした。
ある日、いつものように律子の元へ向かっていると、ベンチに腰掛ける律子の姿が目に飛び込んできた。
優しい秋の日差しの中、フワリと笑みを浮かべた律子が輝いて見えた。
その瞬間、健二は思わずカメラを構え、その姿をフィルムに収めた。
写真を現像すると、健二はその一枚を封筒に入れ、律子に渡した。
「健二、この写真……。」
律子が顔を上げた瞬間、健二は勇気を振り絞って言った。
「律子。愛してる。僕と一生、一緒にいてほしい。」
律子は微笑み、小さく頷いた。
結婚後、だんだんと忙しさを増していった律子は、あのベンチに来られない日が増えていった。
寂しさと共に健二は、自分の写真だけでは律子を守れないのではないかと思い始めた。
律子は明るく、エネルギッシュで、仕事をどんどん成功させていった。
その隣に並ぶには、自分ももっと努力しなければならない――
そう思った健二は、苦手な撮影もどんどん引き受けた。
元々才能のあった健二には、次々と新しい仕事が舞い込んだ。
ある日、健二に大きな転機が訪れる。有名なモデルの写真集の撮影という依頼だった。
健二は躊躇したが、成功すれば律子の隣を堂々と歩ける自信が得られると思った。
撮影は難航したが、健二はがむしゃらに取り組み、何とかやり遂げた。そして完成した写真集を律子に見せた。
しかし、律子はその写真集を手に取り、悲しそうに呟いた。
「健二、これは……健二が本当にやりたいことなの?」
その言葉に、健二は足元が崩れていくような感覚を覚えた。
(僕は、律子の隣にいるためにやってきたのに……。)
律子の顔を見るのが怖くなり、健二は彼女を避けるようになった。
(僕は……何を間違えたんだろう。)
律子を愛している。守りたいと思っている。それなのに、彼女はどんどん遠くに行ってしまう気がした。
どうすれば、律子をうまく愛せるのかがわからない。
律子に相応しい自分になれるのかがわからない。
宿り木さえあれば、律子を失わずに済む。
それならいっそ、ずっとここに居たい…
健二の中で、そんな思いが膨れ上がっていた。