第6章:それぞれの愛
次の日も、宿り木から出ると、律子と健二は木の家へと戻った。
森の住人たちはそれぞれ自分の家に帰り、夜の静寂が森を包んでいた。
健二は幸せそうに横になり目を閉じたが、律子は落ち着かなかった。
(宿り木は、私の不安な感情を薄れさせてくれる。確かにそれは楽かもしれない。でも、本当にそれでいいの?)
律子は木の家の入口から外を見た。
森の中は薄暗く、どこか息苦しい静けさに満ちている。
(みんな、宿り木の力を信じているけど、それって……自分から考えることを放棄してるだけじゃないの?)
律子は思い返した。住人たちが「宿り木さえあれば大丈夫」と口をそろえる姿。
その背後にある、何かを諦めたような微笑み――それは本当に「幸せ」なのだろうか。
王様に冷たく言い放たれた言葉が耳の奥で何度も反響する。
「これがこの世界を守るシステムだ。」
健二はこのシステムに共感している。そう思うと、律子の胸にはもどかしさと寂しさが混ざり合った感情が広がった。
(この世界は何かが違う。ここでずっと生きていくなんて、私にはできない。)
律子は目を閉じると、健二との過去を思い出し始めた。
健二と出会った頃のことが蘇る。
昼休みに訪れていた公園のベンチ、置かれた写真。
そして、写真を撮ったのが健二だと知った日のこと。
(健二の不器用だけど純粋で、レンズ越しの真剣できれいな瞳が大好きだった……。)
律子は健二の才能に心から惹かれ、彼には思うがままに写真を撮っていてほしいと思った。
健二と過ごす時間はすべてが特別で、何気ない日常でさえ輝いて見えた。
結婚後もその気持ちは変わらなかった。健二には夢を追いかけていて欲しかった。
だからこそ、自分が仕事を頑張り、生活を支えることで彼の夢を守ると誓った。
新婚旅行で訪れた山奥の渓谷も、二人にとって忘れられない思い出だった。
夢中で写真を撮る健二の姿が、どこまでも輝いて見えた。
(あの時の健二は、本当に楽しそうで、素敵だった……。)
律子は微笑んだが、すぐに次の記憶が胸を締め付けた。
渓谷で一瞬目を離した隙に、健二とはぐれてしまった時のことだ。
人気のない渓谷の道を一人で歩き回りながら、律子はどれだけ心細く、不安で、寂しい思いをしただろう。
ようやく地元の人の案内で健二と再会できたとき、どれだけ安心し、愛情を再確認したことか。
(あの時からずっと。健二を愛してる気持ちは変わらない…)
だが、いつからだろうか。
律子が必死に仕事を頑張り、昇進を重ねる中で、健二は笑わなくなっていった。
最初は、律子の努力を応援してくれるように見えた健二も、やがてどこか遠くに感じられるようになった。
健二が断り続けていた雑誌や広告のモデル撮影を始めた時、律子は自分の不甲斐なさに涙が出た。
(健二には、健二らしい写真を撮っていて欲しかった……そのために私は一生懸命に仕事に打ち込んで来たのに……)
律子は今でも、プロポーズと共に健二がくれた写真を大事に持っている。
いつものベンチで健二を待つ自分の横顔。自分でも驚くほどに穏やかな笑顔だった。
(健二には、私はこんな風に映っているんだ。)
(健二を思う私は、こんなにも幸せそうな顔をしているんだ…)
この人とずっと一緒にいたい。自分が健二を支えたい。心からそう思った。
(私と結婚したせいで、健二は苦しんでいるのかもしれない……)
律子は健二の事がわからなくなった。
一緒にいるはずなのに、孤独と虚しさだけが胸を満たしていった。
愛しているのに、健二の心はどんどん自分から離れていく。
そして、耐え切れずに「離婚」を切り出した。その瞬間の苦しさややるせなさは、今も律子の心から消えはしない。
(あの時、本当は健二に「嫌だ」って言ってほしかった。ただ、一言「愛してる」と言ってほしかったのに……。)
健二はただ「わかった」とだけ答えた。
心の中で望んでいた愛への希望は、一瞬にして灰色の絶望へと変わってしまった。
律子はその思い出を胸に抱きながら、木の家で静かに健二に語り掛けた。
「ねぇ、健二……私はもう、宿り木には戻らない。」
律子の言葉に健二は体を起こし、驚きの表情を見せた。
「どうして?宿り木は……あの木は、僕たちの関係を救ってくれるんだ。」
律子は首を振った。
「違うの。それは本当の救いなんかじゃない。ただ抱いた負の感情を、宿り木の中のあの子に肩代わりさせているだけ。それを幸せだと思い込んでるだけなの!」
健二は眉をひそめ、少し黙り込んだ。
「でも、僕たちはもうだめだった。もしまただめになっても、宿り木に戻ればまたやり直せる。それが何か悪いことなのか?」
律子の胸に怒りにも似た感情が湧き上がる。
「悪いとかじゃないの。私たちの問題は、私たちで向き合わなければ意味がないのよ。」
健二は目を伏せたまま、ぽつりと呟いた。
「でも僕は、律子を失いたくないんだ。」
律子の心が揺れる。
彼の自分への想いを、本当に強く感じたような気がした。しかし、同時に――。
「健二……本当にそれでいいの?あなたはそれで幸せなの?」
健二は答えず、ただ黙ってうつむいた。その仕草に、律子は深い悲しみを覚えた。
「一緒に元の世界に戻る方法を探そう。」
律子はそう提案したが、健二は微かに首を横に振っただけだった。