第5章:張りぼての幸せ
夜の静けさが森を包む中、律子は目を覚ました。
木の家の中はいつもと変わらず穏やかだったが、耳を澄ますと、微かな声が聞こえる。泣いているような、苦しげな、そんなかすかな声。
(……誰かが泣いてる?)
律子は健二を起こさないように静かに立ち上がり、入口からそっと顔を出す。
宿り木が淡い光を放ち、その根元から声が聞こえてくるように感じた。
(あの木の中から……?)
その声は消え入りそうなのに、律子の心に重く響いてくる。
まるで助けを求めるような、どうしようもない孤独に包まれたような声だった。
翌朝、律子は王様に問いかけた。
「宿り木の中から、夜中に泣き声が聞こえるんです。」
王様の表情は一瞬だけ動揺したように見えたが、すぐにいつもの穏やかな微笑みに戻った。
「それはきっと気のせいだよ。この森では誰も泣いたりしない。みんな幸せだからね。」
その答えはどこか不自然だった。律子はさらに食い下がる。
「じゃあ、なぜ夜になると外に出てはいけないのですか?この森で何が起きているのか、ちゃんと教えてください。」
王様は少しの間沈黙した。だが、いつかの温度のない声でこう言った。
「律子、それは気のせいだ。何があっても宿り木と僕が守ってあげるから。君は健二と安心してこの世界で過ごすといい」
これ以上何も言わせないかのような王様の言葉に、律子は黙るしかなかった。
その夜も、木の家の中は静寂に包まれていた。
律子は目を閉じて横になっていたが、再びあの声が耳に届いた。
昨夜と同じ、苦しそうな、悲しい泣き声だった。
(……やっぱり、気のせいなんかじゃない。誰が泣いているの?)
律子はゆっくりと体を起こし、木の家の入口へ向かった。
外を覗き込むと、やはり宿り木の根元から泣き声は聞こえてくる。
「……どうして気のせいなんて嘘をつくの?」
律子の胸に疑念が湧き上がる。その声は助けを求めているように聞こえた。
律子は一度深呼吸すると、健二を起こさないようそっと家を出た。
夜に外に出てはいけないという掟を破るのは初めてのことだった。
夜の森は昼間の穏やかさとは違い、どこか不気味な空気を漂わせていた。
風が葉を揺らす音、森の奥で鳴く動物の声が律子の足音と混ざり合い、心臓の鼓動を速める。
宿り木の根元にたどり着いた律子は、そこで立ち尽くした。
根元にある小さな隙間から、声がはっきりと聞こえる。
泣き声は悲痛で、律子の心を締め付けるようだった。
(この中に……誰かがいる?)
律子は膝をつき、そっと隙間に手を伸ばした。
次の瞬間、眩しい光があたりを包み込み、律子の体は吸い込まれるようにその隙間へ引き寄せられた。
光が消えたとき、律子は真っ白な空間に立っていた。
周囲には上下も左右もなく、ただ無機質な白い世界が広がっている。
その中心に、小さな少年がうずくまっていた。
「大丈夫!?」
律子が声をかけると、少年は顔を上げた。
その顔は王様と瓜二つだったが、目の下には深いクマがあり、やつれた表情をしていた。
「うぅ……」
少年の声はか細く、震えていた。律子は思わずその場に駆け寄り、少年の肩に手を置いた。
「どうしたの!?何があったの?」
少年は律子を見上げたが、その目には涙が溢れていた。
冷たく青白い手が律子の腕を掴むと、再び小さな声で呟いた。
「ここに来ちゃ……いけない……早く……外へ…」
突然、白い空間が激しく揺れ、律子は立ち上がれないほどの衝撃を感じた。
次の瞬間、王様が現れた。
彼の表情は普段の柔らかい微笑みとは全く違い、険しく冷たいものだった。
「何をしている。」
その声は低く、律子を威圧するものだった。
「この子は……誰なの?」
律子は少年の肩を抱えながら王様に問いかけた。
「君には関係ない。木の家に戻れ。」
「戻れって……こんな状態で見過ごせるわけないじゃない!彼は苦しんでる!」
王様はため息をつき、冷たい目で少年を見下ろした。
「これはこれでいい。ここにいるのが役割だからだ。」
「これって……こんなに苦しんでいるのに!?いいわけないわ!!」
律子の声は震えていた。
王様は少しの間、黙った後、静かに語り始めた。
「この世界が完全であるためには、住人から負の感情を消さなければならない。誰も不安を抱かず、傷つかず、永遠に愛と尊敬を保ち続けるために。」
「どういうこと?……住人の負の感情?…愛と尊敬?それと彼に何の関係が!?」
王様は目を細め、さらに冷たい声で言った。
「宿り木はここに入る者の負の感情を吸い取り、それをこれに注ぎ込む。それがこの世界を守るシステムだ。そして、僕の役割はこの秩序を維持することだ。」
律子は信じられない思いで王様を見つめた。
「そんなの間違ってる。彼だって生きてるのに、そんな役割を押し付けられて……」
「黙れ。」
王様の声が鋭く響いた。
「これがこの役割を果たさなければ、この世界は崩壊する。これがここにいるからこそ、住人たちは永遠の幸せを手に入れられるんだ。」
「でも、それで幸せだなんて言えるの?」
律子の瞳に怒りが宿る。
王様は律子を睨みつけ、最後に一言だけ言い放った。
「もう十分だ。木の家に戻れ。そして二度とここへ来るな。」
律子は気がつくと、木の家の前に立っていた。どうやって戻されたのかは分からない。
扉を開けると、健二が目を覚まし、驚いた顔でこちらを見ていた。
「律子、どこへ行ってたんだ?」
律子は宿り木の秘密を健二に話した。今しがた宿り木の中で見聞きしたこと全てを。
だが、健二の反応は予想外のものだった。
「それは…悪いことなのか?」
「悪いことかって……健二、本気で言ってるの?」
律子の問いに、健二は静かにうなずいた。
「誰かが犠牲になることで、この世界が保たれている。それでみんなが幸せなら、それでいいじゃないか。」
「そんな……!それは本当の幸せなの?」
律子の声が震えた。
「誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなんて……それはただの張りぼてよ。」
健二はしばらく考え込んでから答えた。
「宿り木の力で、僕は律子を取り戻せた……僕にとってはそれだけが全てだ。もう二度と、君を失いたくない…」
まるで迷子の子供のように不安げな健二を見て、律子は言葉を飲み込み、そっと健二を抱きしめた。