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第1章:出会いと別れの間

なんでこんなことになったんだろう……。


机の上の離婚届を見つめながら、律子はぽつりとつぶやいた。

朝の柔らかな光がカーテン越しに差し込み、白い離婚届の上に静かに広がっている。

墨色のボールペンで書かれた文字は、署名欄の一部だけがまだ空白のまま残っていた。

7年間の結婚生活――健二との日々が頭の中に次々と浮かび上がる。

楽しかった記憶も、苦しかった記憶も、すべてが複雑に絡み合い、遠い蜃気楼のように霞んでいる。


思い出の始まりは、会社の近くの公園だった。

昼休みに律子が一人で座る、木漏れ日の差し込むベンチ。そこは、彼女が心を落ち着けられる数少ない場所だった。

鳥のさえずりを聞きながらお弁当を食べる時間だけが、仕事の忙しさや日々の疲れを忘れさせてくれる、律子にとっての癒しだった。


ある日、いつものようにベンチに向かうと、一枚の写真が目に入った。

広大な荒野の中に一輪だけ咲く花が映されたその写真は、どこか儚げで、それでいて力強さを感じさせた。

持ち主のものだろうと思い、写真をそっと端に寄せたが、翌日も同じ場所に別の写真が置かれていた。

不思議に思い辺りを見渡しても、持ち主らしき人は見当たらなかった。        

律子は写真をそっと自分の手帳に挟み持ち帰った。


それから、数日おきに新しい写真が律子を待っていた。

広がる青空、木々の間に差し込む光、夕暮れにたたずむ人影。

それらはどれも彼女の心を静かに震わせた。

そして10枚ほど写真が集まった頃、律子はついにその持ち主に出会うことになる。

その日もいつものようにベンチに座っていた律子の隣に、一人の男性がそっと腰を下ろした。

彼が写真の持ち主だと直感した。沈黙の時間が流れ、やがて律子が口を開いた。


「素敵な写真をいつもありがとうございます。」


男性は驚いたように顔を上げ、少し照れくさそうに笑った。


「気に入ってもらえたならよかったです。」


その瞬間、律子の中で何かが繋がった気がした。彼の静かな声と優しい表情、言葉の端々から感じられる誠実さ。それは律子の心を不思議と安心させた。

それが健二との出会いだった。


律子は健二を心から愛していた。

彼のカメラを通して切り取られる風景に惹かれ、その中に映し出される自分を好きになれた。健二を支えるために、律子は自分の仕事にも全力で取り組んだ。

だが、いつからだろう。健二が彼女の写真を撮らなくなったのは――。

忙しい日々の中で二人の会話は少しずつ減り、互いの気持ちはどこかすれ違い始めた。

かつてはそばにいるだけで感じられた温もりが、いつの間にか遠く離れてしまったように思えた。


ふと、リビングに飾られた満面の笑顔のおばあちゃんの写真が目に入る。

早くに両親を亡くした律子を育ててくれた、唯一の家族。

彼女は律子の結婚を心から喜んでくれた。結婚式の日、おばあちゃんは安堵の表情を浮かべながらこう言った。


「これで律子はきっと幸せになれるわね。」


あの日の優しい笑顔を思い出すたび、律子の胸は締めつけられる。

おばあちゃんの期待に応えられなかったのではないかという罪悪感が、律子の心に重くのしかかっていた。


「おばあちゃん……どう思うかな。」


律子はため息をつきながら、離婚届を見つめる。指先は微かに震えていた。


「おはよう。」


突然の声に律子は顔を上げた。健二がキッチンから顔を出し、コーヒーを入れている。

朝の静かな時間に響くその声は、どこかぎこちなく、しかし律子の耳にはいつもより温かく聞こえた。


「おばあちゃんのお墓参り、今週末に行かないか?」


健二の言葉に、律子は一瞬戸惑った。二人が毎年欠かさず訪れていた場所――10月の結婚記念日に。

離婚を控えた今、健二がその提案をすることに驚いた。


「本当に?」


律子は言葉を選びながら尋ねた。健二は静かにうなずいた。


「最後に一緒に行こう。」


その一言は、何かの終わりと始まりを同時に感じさせる響きを持っていた。

律子は離婚届に目をやり、再び健二を見つめた。


「わかった。ありがとう。」


その言葉を口にした瞬間、律子の胸は締めつけられるような痛みと、どこか小さな安堵感のようなものが交錯していた。


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