学園の全生徒の婚約破棄を宣言した王子のお話
「全校生徒の諸君、お楽しみのところ悪いが、伝えねばならぬ大事なことがある。しばし、目と耳を貸してほしい!」
貴族たちの通う学園。夜も更けた頃。学園の講堂で和やかに営まれていた夜会で、凛とした声が響いた。
夜会に参加した生徒たちは声の方へと目を向けた。会場内に設えられた演台。そこにはクリザイアス王国の第二王子ディークラルトが立っていた。
シャンデリアの投げかける光を跳ねて輝く髪の色はプラチナブロンド。太めの眉の下、強い意思を秘めて輝く瞳の色は碧。細身に見えるが、学生服の上からでも、鍛えられ引き締まった身体であることがうかがえる。引きしぼられた弓を思わせる凛とした青年だった。
兄である第一王子は、既に学園を卒業して王位を継ぐための準備を進めている。ディークラルトは第二王子であり、王位を継ぐことはない。だがその優秀さは学園内でも評判だ。学業においてはすべての教科で常に上位をキープしている。魔法に関しては特に攻撃魔法に秀でており、魔法戦闘においては宮廷魔導士にも引けを取らないと言われている。
生徒会長も務めており、その意欲的な活動ぶりは学園のランクを一段階上げたと評判になるほどだった。
そんなディークラルトが、夜会の和やかな空気を壊してまで予定にはない呼びかけをした。
何か重要な通達があるのだろうと、生徒たちはみな引き締めて会長の言葉を待った。
ディークラルトはみなの注目が十分に集まったことを確認すると、厳かに口を開いた。
「みなも知っている通り、三か月前、この学園の夜会で婚約破棄が宣言された。実に痛ましい出来事だった。この学園の生徒会長として、対策をせねばならないと考えた」
その言葉に生徒の多くが顔を曇らせた。三か月前の夜会の出来事を思い出すと、みなこのように暗い顔になってしまうのだ。
「今のあなたはわたしの婚約者に相応しくありません! 婚約を破棄させていただきます!」
三か月前の夜会の場。突如、伯爵令嬢レヴィアーラは婚約破棄を宣言した。
肩まで届くまっすぐなホワイトブロンドの髪。その瞳は深い蒼。穏やかな湖を思わせる、落ち着いた雰囲気の美しい令嬢だ。
彼女は優秀な生徒であり、特に魔力感知と魔力操作について類まれな才能を有していた。それらを駆使した精密にして精緻な魔力操作は、この王国においても並ぶ者がないとまで言われていた。将来は優秀な魔道具の技師になるか、あるいは魔法省において新たな魔法の研究を進めるものと期待されている才媛だ。
しかしレヴィアーラはそんな才能を鼻にかけることもなかった。常に落ち着いた態度で、相手の身分にかかわらず丁寧かつ物腰柔らかに人と接するその姿は、淑女の鑑と言われるほどだった。
その婚約者、子爵子息エスタレンもまた優れた生徒だった。ブロンドの髪に高い鼻。やや細めの緑の瞳の目つきは鋭く、スマートな体つきもあいまって、レイピアを思わせる美しい青年だった。
伯爵令嬢レヴィアーラとは入り婿として婚約した。共に優れた成績と美しい外見を持つ似合いのカップルと思われたが、二人は婚約当初から不仲なことで評判だった。
子爵子息エスタレンは伯爵令嬢レヴィアーラには話しかけることは少なく、その言葉も冷たいものだった。他の女と遊びに行く姿が見られたとの噂が学園を飛び交っていた。
しかしそれも収まりつつあった。ここ最近では、学園内で仲睦まじく過ごす二人の姿が見られるようになったのだ。ようやく仲直りしたのかと生徒たちもほっとしていた。
そんな矢先に、婚約破棄が宣言された。
淑女の鑑と謳われた才媛が、よりを戻しつつあった婚約者に対し、夜会での婚約破棄の宣言。あまりにも予想外のことに、生徒たちは言葉を失った。
告げられた子爵子息エスタレンも大きく衝撃を受けたようで、何も言い返せずに呆然とするばかりだった。
伯爵令嬢レヴィアーラはそんな彼のことをしばらくじっと見つめていた。だが、やがて踵を返すと、会場を後にした。そしてそのまま学園寮にも戻らず、実家に帰ってしまった。
それ以来、伯爵令嬢レヴィアーラが学園に登校したことはない。噂に聞くところによれば、彼女は一歩も家から出ていないようだった。
そんな空気にいたたまれなくなったのか、エスタレンもまた休学届を出して実家に帰ってしまった。
多くの場合、婚約破棄を宣言した者が非難される。まず、多くの者の目がある夜会でそんなことをするのは非常識だ。加えて一方的に絶縁することは、相手の気持ちを踏みにじることでもある。
しかし今回に限っては、伯爵令嬢レヴィアーラに同情する生徒が多かった。そもそも子爵子息エスタレンの浮気が原因だ。あの優しい令嬢があんな非常識な行動をするくらい追い詰められていたに違いない――そう考え、多くの者が彼女の傷ついた心のうちを慮っているのだった。
あれから三か月ほどが過ぎた。
あの出来事を引きずっているのか、今夜の夜会もどこか精彩を欠いたものだった。
そんな状況を憂いたのか、ついに生徒会長であるディークラルト王子が行動に出たのだ。
「あのようなことを繰り返してはならない。そこで私は、抜本的な解決策を講じることとした」
ディークラルトの言葉は強い意思が感じられた。
婚約破棄と言うものは、基本的には個人の意思による暴走だ。予測は難しく、その行動を完全に封じることは不可能に近い。だがディークラルトの口ぶりには、強い意志と確かな自信がうかがえた。あの優秀な生徒会長が、わざわざ夜会の場で言うことだ。よほどの策があるに違いない。生徒たちは固唾を呑んでディークラルトの言葉を待ち望んだ。
そして、遂にディークラルトは告げた。
「王家の名において、この学園の全生徒の婚約破棄を宣言する!」
会場は異様な静けさに満ちた。
驚愕も困惑もなかった。内容が予想外過ぎて、ほとんどの生徒がその宣言を受け止めることすらできなかったのだ。
しかし、白い布に垂らしたインクが拡がるのを止められないように。そのあまりに異常な宣言は、生徒たちの頭の中に否応なく染み渡った。
まず重要なのは『王家の名において』という言葉だ。
このクリザイアス王国は、王国の名の通り、王を頂点とした国家体制である。王国において王家の名において発令された命令は絶対である。なぜならその宣言を達成できなければ、王家の威信は揺らぐ。それは国家体制を揺るがすことにつながることになる。
だから国民は、王家の名においてなされた宣言に対して力を尽くす義務がある。逆らえば重罪となることもある。
こうした宣言は、王族と言えど軽々しく口にできることではない。それが学園の夜会で発せられるのは異常なことだった。
そしてその内容もまた異常だった。
学園の全生徒と対象とした婚約破棄。
貴族の婚約と言うものは、原則として色恋沙汰のものではない。家と家とをつなぐ契約だ。貴族は領地を治めており、婚約もその営みの一部なのだ。貴族にとって、領地を治めることは義務であり権利だ。
たとえ国家の頂点である王だとしても、貴族の家同士の問題について特別な理由もなく介入することは通常あり得ない。
家同士の契約を、それも全生徒対象などと言う広範囲で強制的に解除するなど、前代未聞のことだった。
静寂は長くは続かなかった。
あまりに横暴。あまりに理不尽。一方的かつ無差別な婚約破棄の宣言を前に、黙っていられるはずはなかった。
「な、なぜそんな宣言をなされるのですか!?」
まず飛び出したのは根本的な質問だった。こんな異常なことを宣言した理由は、生徒の誰もが知りたいことだった。
「婚約破棄を無くすためだ。婚約そのものがなくなれば、婚約破棄は不可能となるのが道理と言うものだ」
ディークラルトは冷静に答えた。
言葉の通り、道理ではある。婚約なくして婚約破棄はあり得ない。言葉の上では正しい。しかし、暴論だ。
例えるなら、馬車の事故で人命が失われたからと馬車を廃止するようなものだ。馬車が無くなれば、確かに馬車による事故は無くなるだろう。だがそれは解決ではなく問題の放棄だ。そしてより多くの別種の問題を生み出す過ちだ。誰の納得も得られない。
生徒たちも当然納得できず、更なる質問を重ねていった。
「王国は、私達から結婚する権利を奪うつもりなのですか!?」
「あくまで現時点での学園内の婚約を破棄するだけだ。結婚する権利を奪うことはない」
「こんな横暴を王がお認めになるはずがありません!」
「王には既にご了承いただいている。第二王子ディークラルトの名において、嘘は無いと誓おう」
「当家は婚約を前提に融資を受けています! 勝手に婚約を破棄されては、当家は潰れてしまいます!」
「王家では十分な補償を用意している。本件については専用の窓口を設置する。婚約破棄によって被害を被る可能性のある者は、所定の様式に必要事項を記入して補償を申請してほしい」
次々と繰り出される質問に対して、王子は冷静かつ理路整然と即答していった。王への許可のとりつけに加え、対応する窓口まで準備しているという。
恋愛小説に語られるような、熱情に浮かされた愚かな若者の婚約破棄ではない。入念に準備したうえでの宣言だったのだ。
ディークラルト王子は正気だ。正気のままに、常軌を逸したのだ。
生徒たちの質問はしばらく続いたが、やがて尽きた。王子は繰り出されるすべての質問によどみなく答えた。この常識外れの宣言を撤回させることは無理だと、生徒たちは否応なく理解させられてしまったのだ。ディークラルトのあまりに冷静かつ断固たる態度に、生徒たちは戦慄すら覚えていた。
「……どうやら質問も尽きたようだな。では、今宵はこれまでとしたい。先ほども触れたように、本件に関しては専用の窓口を設置する。明日の朝、学園の掲示板にその案内を貼り出す。質問や問題の指摘、不満などはそちらの窓口を通してほしい。
補償を受けたい者は同じくその窓口から申請してほしい。簡単な審査は必要となるが、手厚く補償することを約束しよう」
ディークラルト王子は一礼すると、朝会で事務連絡を終えた学園の教師のようにあっさりと会場を去ってしまった。
しばらく生徒たちは茫然としていたが、やがて目の前の問題に気づいた。
婚約は破棄されてしまった。ならば、婚約者との関係はどうなってしまうのか。その目の前の問題と向き合うこととなった。
夜会の各所で婚約者たちはこれからのことを話し合いをし始めた。
「わたしたち別れなくてはいけないの……?」
「心配することはないさ。王子は婚約を破棄なされただけだ。結婚そのものを禁じられたわけではない。そもそも、僕たちの愛は誰であろうと引き裂くことなどできないさ」
「ああ、愛してるわダーリン!」
「僕も愛しているよ、ハニー!」
「むしろ好都合だ! 僕はもともと婚約破棄するつもりだったんだ!」
「わたしにとっても好都合ですわ。こんなこともあろうかと、隣国の貴族との縁談の手はずは整えてあります」
「な、なんだと!? 君は浮気するつもりだったのか!?」
「人聞きの悪いことは言わないでください。あなたが浮気していたことは把握済み。婚約の破綻は目に見えていたのですから、事前に準備を進めていただけのことです」
「婚約者に黙ってそんなことを……!」
「どの口がそんな戯言を……そもそもあなたはもう婚約者ではなく他人なのです。なれなれしく話しかけてこないでください」
「ぐぬぬ……!」
「婚約が破棄されてしまった……」
「困りましたね。お腹の子はどうしましょう?」
「こ、子供っ!? ……いやいや待て待て。君とそういうことをした覚えはないぞ」
「ふふっ。場を和ませるための小粋なジョークです」
「ジョークになっていない! まったく君って人は……」
「おやおや。『こんな令嬢は放っておけない。私が一生面倒見るしかないな』って顔してますね」
「私が言おうとしていることを先に言うんじゃない!」
「えっ?」
「えっ?」
「さて。婚約がなくなった以上、いっしょにいる理由も無くなってしまいましたね。呼び止めるなら今です。そうしないと、わたしはどこかに行ってしまうかもしれませんよ?」
「君のことが必要だ。一生私の隣にいてくれ」
「!? ……と、突然何を言い出すんですか!? 今までそんなそぶりもひとつ見せなかったのに……!」
「婚約していたのだから、君がずっとそばにいてくれるものと思っていた。今は違う」
「だからと言っていきなりこんな……あなたって人はどうしてそんなに不器用なんですか!?」
「すまない……」
「まったくもう……あなたには、わたしのようなしっかり者がついていないと心配ですね。仕方ありません。今立ち去るのだけは勘弁してあげます」
「ありがとう。そんな君のことが好きなんだ」
「も、もう! 恥ずかしいことばっかり言わないでください!」
「婚約がなくなっちゃった……? か、勘違いしないでください! 泣いてませんっ。泣いてませんからね!」
「婚約が無くなってせいせいしたな!」
「え、ええっ!? ……そ、そうですよね。わたしみたいな可愛くない女との婚約なんて、本当は嫌だったんですね……」
「何を言っているんだ? 僕は婚約期間がまだるっこしくてたまらなかったんだ。もう我慢する必要はない。明日の朝、さっそく教会に行こう。そして二人だけの結婚式を挙げるんだ!」
「な、なななななに言ってるんですか! わたしたちは貴族ですよ! そんなことできるわけないでしょう! もうもうもう! あなたって人はー!」
各所で令嬢と子息が今後の関係について様々な話し合いが行われていた。そんな喧騒で包まれた会場の中、何人か呼び出しを受ける者がいた。
「家から急な連絡があった」
「婚約者が別の場所で二人きりで話したいと言っている」
「単位の取得の不備について教師が至急確認を求めている」
様々な理由による急な呼び出しだった。それぞれ別な理由でバラバラに会場から連れ出された10名あまりの令嬢と子息は、しかし全て同じ場所へと導かれた。
そこは夜会の会場とは別の建物にある広間だ。賓客の歓迎など、夜会より小規模な催しで使われる場所だった。
連れてこられた生徒たちは広間の異様さに目を見張った。広間の奥側、およそ全体の三分の一ほどの場所がカーテンで仕切られていたのだ。奥に何かあるかはわからない。
連れてこられたのは、令嬢が6名に子息が5名の計11名。11名の生徒たちは、互いに訝し気に顔を見合わせた。
「総勢11人、全てお連れしました!」
彼らを連れてきたメイドが、広間の奥に向かってそう叫んだ。そして広間から出ると、外につながる扉を閉めてしまった。
慌てて生徒の一人がドアに取り付く。ドアノブが回らない。扉は閉ざされていた。
「ど、どういうことだ!?」
とまどう生徒たちを更なる驚きが襲った。
広間の奥のカーテンが一斉に開いたのだ。
そこには整然と並んだ、総勢30名にもおよぶ神官がいた。だが何よりも彼らを驚かせたのは、その中央に立つ者の姿だった。
腰まで届く滑らかな銀の髪。大粒の瞳は、春の昼下がりを思わせる温かな金色。ふっくらした頬に、桜色の形のいい唇。身にまとうローブは、清らかな白。その手にするのは、金色の錫杖。穢れを知らぬ可憐な乙女がそこにいた。
王国の民なら知らぬ者はいない。そこに立つのは、王国史上最高と謳われる聖女サニリーティアだった。
王国一の聖女が、なんの先ぶれもなしに学園に姿を現すなどありえないことだ。先ほどの学園全生徒に向けた婚約破棄にも劣らぬ異常事態に、11名の生徒たちは驚くばかりだった。
「神聖結界、展開」
厳かに、しかし軽やかに。聖女は告げた。
すると広間の壁が光った。神聖結界――魔物や悪魔など、魔に属するものを決して通さない結界が張られたのだ。
「さあ、これでもう逃げることはできません。姿を顕しなさい、邪悪なる者よ!」
言葉と共に、聖女は錫杖を掲げた。そこから広がった光が広間を覆い尽くした。11名の生徒たちはなすすべもなくその光に呑みこまれた。
聖女が放ったのは聖なる光。魔に属する者のみに有効な光であり、人間に害はない。
だが、生徒たちは苦しんだ。苦痛に顔を歪ませ身を震わせながら、バタリバタリと倒れ伏した。
倒れた生徒たちから、すうっと影が立ち上った。影はもがくようにうごめいて、やがて一つの形となった。大きさとしては5歳の子供程度。黒い身体。額から伸びた小さな二本の角。背中には蝙蝠に似た歪な羽根が、腰からは先のとがった細いシッポが生えていた。
聖女の放った聖なる光に苦しむそれは、低級の悪魔だった。
倒れた11名の生徒たちには、それぞれ11体の低級悪魔が憑りついていたのだ。
悪魔のうちの1体が、震えながら叫んだ。
「バカな……バカな! あの婚約破棄も、貴様がここにいるのも、そういうことか……! 我らの陰謀をすべてわかっていたということなのか!?」
聖女サニリーティアは金色の瞳で悪魔たちを見据えながら高らかに答えた。
「あなたたちの企みは全てわかっていました! さあ邪悪なる者たちよ、観念しなさい!」
悪魔たちの顔は驚愕と絶望に歪んだ。
悪魔は人間と契約する。人間を堕落させることが悪魔の存在意義であり、そのための手段が契約なのだ。
悪魔は甘言で人を惑わし策を弄し、人間に契約を結ばせる。だが契約そのものについては誠実だ。強大な悪魔ほど、その力を揮うためには契約内容を示し、正式に契約を結ぶ必要があるからだ。
だが、下級の悪魔は違う。彼らは口約束などの曖昧な契約によってちっぽけな力を揮い、人の世にさざ波を立てる。
その計画は、そうした下級悪魔の特性を利用したものだった。
貴族は普通、結婚する前に婚約関係を結ぶ。その際、婚姻の契約書を作る。
その契約書の中に、本来の文章に重なるように悪魔の魔術文字を仕込むのだ。貴族がそれに気づかず契約書にサインすれば、知らないままに悪魔と契約することになる。
無論、そんな姑息な手段で上級悪魔との契約はできない。下級悪魔ですら複雑な契約は不可能だ。契約内容はただ一つが精いっぱいだった。
その内容は「下級悪魔の存在を受け入れ、その隠ぺいに協力する」というものだ。
だがそれで十分だった。その契約により、下級悪魔は貴族の令嬢や子息の身体の中に憑りつくことができる。人間の世界における確かな足場が得られるのだ。
この計画には身を隠すのが得意な下級悪魔が選抜された。魔力が低く見つかり難い上に身を隠すことに長けた下級悪魔が、契約で許された上で人間に憑りつく。高位の神官が入念に調べたところでその存在を見破ることは極めて困難だ。日常においてバレる可能性は皆無と言っていい。
そして下級悪魔たちは、貴族に憑りつき、情報を集めながら時を待つ。そして貴族たちが要職に就いたところでその精神に魔力で働きかけ、行動を操るのだ。
契約によって存在を受け入れた貴族は、下級悪魔の小さな魔力であろうと逆らうことはできない。操作し続ければ周囲の人間にバレる可能性もあるが、そこまでする必要はない。時と場所を選び、バレないようにわずかに行動の傾向をいじる。ただそれだけでいいのだ。
賄賂を蔓延させ、官僚を腐敗させる。
悪徳な金貸しを優遇し、貧者を増やす。
騎士団の資金を削り、治安の悪化を促す。
麻薬を取り締まりを緩め、薬物依存者を増加させる。
領内の違法賭博を容認し、貧者から金を巻き上げる。
冒険者ギルドへの援助を絞り、魔物の討伐を遅らせる。
特別な魔法は必要ない。強力な精神操作も必要ない。わずかな魔力で、ただ楽な方に導くだけで人間はたやすく堕落する。平民ならともかく、金も権力もある貴族の行動を操れば、その影響は大きなものとなる。
人間を堕落させるには、人間の世界の仕組みを利用するのが最も効率がいいのだ。
そうして王国に腐敗と堕落が蔓延しきったところで、上位の悪魔たちを招く。人間たちはたやすく悪魔との契約を結ぶことだろう。この王国は悪魔が人間の世界に進出する橋頭堡となるのだ。
それこそが下級悪魔たちの最終目標だった。これは長期間を前提とした実に遠大な計画だったのだ。
ひとまず、12体の下級悪魔たちは、それぞれ6人の貴族令嬢と6人の貴族子息に憑りつくことができた。あとは憑りついた貴族が成長し権力を握るまで待つだけだった。
順調な滑り出しだったが、一つの問題が生じた。
下級悪魔の1体が憑りついた子爵子息エスタレンが、婚約者と不仲になってしまったのだ。
エスタレンは伯爵家へ婿入りする有力な貴族だ。これが失敗するのは痛手となる。
そこで時期尚早とは考えられたが、やむなく子爵子息エスタレンの性格を魔力で操作した。彼はどうやら自分より優れた婚約者に対して劣等感を持っているようだった。だからプライドにこだわる性格を少し緩めた。
性格の改変は最小限であり、周囲に不審を感じる者はいなかった。婚約者との仲も回復が見られた。
それなのに、婚約者である伯爵令嬢レヴィアーラは、夜会の場で突然に婚約破棄を宣言した。
まったく予想外の出来事だった。予兆すら見られぬだしぬけの異常事態だった。なにより婚約破棄と言うのがあまりにも致命的だ。下級魔族たちの拠り所である契約までもが解除されてしまうからだ。下級悪魔たちは大きく狼狽した。
だが事態は沈静化した。伯爵令嬢レヴィアーラは家に引きこもった。その動向には注意したが、伯爵家は強固な結界を張っており中の様子はわからない。だが、外から窺う限り、彼女が特別な動きを見せることは無かった。
子爵子息エスタレンに憑りついた悪魔は、ひとまずエスタレンに憑りついたままにして様子を見ることにした。契約こそ無効化されものの、一度魔力で操作したおかげか、憑りつく状態を維持することは問題なかった。
それでも契約を結んだ状態より発見される可能性は高い。周囲の注目を集めるのはまずいので、ひとまず休学させた。ほとぼりが冷めてからまた他の令嬢と婚約させて、計画に復帰させることとした。
子爵子息エスタレンに憑りついた悪魔の存在が人間に発覚したら、計画から切り捨てることとした。有用な貴族を一人失うのは痛手だが、計画全体が露見することに比べれば許容すべきリスクだった。
それを除けば、計画は極めて順調に進行していた。
だが今宵、計画は破綻した。
王国第二王子ディークラルト王子は、全校生徒の婚約破棄を宣言するという、悪魔ですら思いつかない暴挙に出た。それによって下級悪魔たちの契約は一気に無効化されてしまった。対応する間もなく急な呼び出しが入り、こうして広間へと導かれた。そこでは聖女が神官を伴って待ち構えていた。
完全に計画はバレていた。事態の急変に対し、下級悪魔たちはまるで対応できなかった。いかに優れた計画のもとに動いていようと、彼らは所詮下級悪魔だ。こんな異常事態に対応するほどの賢さも力も無かったのだ。
「バカな! なぜ我らの計画が露見する!? 全ては問題なかったはずだ! この計画が成就すれば、我らは上級悪魔にだってなれたはずなのだ! こんなはずではなかった! クソ! クソ! クソオオオオオ!」
先ほど聖女の放った聖なる光に下級悪魔たちは傷ついていた。そればかりではない。聖女が身にまとう聖なる力が下級悪魔たちの力をじわじわと削っている。聖女が近くに存在すること自体が下級悪魔にとって致命的なことなのだ。
苦しみに身をよじりながら、下級悪魔たちは疑問と怨嗟の言葉を吐き出した。
「一人の令嬢の勇気と、一人の王子の決断があなたたちの計画を打ち崩しました! 神に祝福されたこの王国で、あなたたちの邪悪な企み、もとより成功する見込みなどなかったのです! さあ、滅びの時です!」
聖女サニリーティアの凛とした声が響く。
その声に思い出されたのは、伯爵令嬢レヴィアーラと第二王子ディークラルト。二人の婚約破棄の宣言だった。
あの二人だ。あの二人が下級悪魔たちの企みを打ち破ったのだ。
「おのれ、おのれ、おのれえええ!」
既に神聖結界で囲まれており、逃亡は不可能だ。憑りついていた令嬢も子息も、人質にとっても意味はない。聖女の放つ聖なる力は人間に害を与えずに悪魔を滅ぼすことができるのだ。
下級悪魔たちが生き残るには、目の前の聖女と神官たちを倒すしかない。無謀とわかりながらも聖女に襲い掛かるしかなかった。
「浄化の光よ! 邪悪なる者たちを消し去りたまえ!」
30人の神官の浄化の力に聖女の上乗せした浄化の光は、下級悪魔の決死の特攻など許さなかった。下級悪魔たちは浄化の光に一瞬で焼き尽くされ、チリ一つ残さずこの世から消滅した。
「……そうして、学園に潜んでいた下級悪魔たちは聖女サニリーティアによって全て滅ぼされた。子爵子息エスタレンに憑りついていた下級悪魔も別動隊が始末した。ひとまず問題ないだろう」
「それはまた……大胆な対策を行ったものですね……」
王国第二王子ディークラルトから説明を受け、伯爵令嬢レヴィアーラは感嘆の息を漏らした。
あの夜会の夜。学園の全生徒への婚約破棄の宣言から一か月ほど過ぎていた。
ここは伯爵令嬢レヴィアーラが引きこもる邸宅の応接室だ。
ディークラルトが自らここに赴き、レヴィアーラへとこれまで起きたことの説明をしたのだ。
彼女は意図的に外部との接触を遮断してきた。学園のことも下級悪魔の顛末も、今初めて聞いたのだ。その驚きもひとしおだった。
「それにしても、まさかディークラルト王子がご来訪くださるとは……」
「気にすることはない。君は王国の破滅を導く計画を暴いた功労者だ。王族として労うのは当然というものだ」
「とんでもないです。畏れ多いことです」
レヴィアーラは謙遜した。しかし、王子が言ったことに誇張はない。下級悪魔たちの邪悪な計画を暴けたのは、彼女の行動あってのことなのである。
伯爵令嬢レヴィアーラと子爵子息エスタレンは、婚約した時から上手くいっていなかった。プライドの高いエスタレンは、優秀過ぎるレヴィアーラのことが気に入らなかったのだ。
子爵子息エスタレンは学に秀でて、魔力も高い俊英だ。学園での成績だけならレヴィアーラを上回る。だが、レヴィアーラは王国でも並ぶ者のいない、類まれな魔力感知と魔力操作の才能を持っていた。
自分より爵位の高い令嬢に婿入りする。しかも相手は他にはない才能を持っている。そうしたことがエスタレンのプライドを強く刺激した。
そしてエスタレンは他の令嬢と遊びに行くようになった。それが最もレヴィアーラを傷つけることになると知っていたのである。
レヴィアーラは心を痛めた。それでも彼のことを悪く言うことは無かった。エスタレンは優秀な男だ。いずれは才能を開花させ、劣等感を抱くこともなくなる。そう信じて耐えることを選んだのだ。
エスタレンは行いこそ愚かではあったが、貴族としての立場を忘れるほど馬鹿ではなかった。他の令嬢と遊ぶのはあくまで当てつけのためであり、深い仲になるようなことはなかった。
この程度なら貴族なら珍しくない。お互いを受け入れないまま冷たい関係の夫婦となることは、ありふれたことなのだ。
ところがある日、状況は一変した。
レヴィアーラに対し、エスタレンが謝罪してきたのだ。これまでの非礼を詫び、他の令嬢との付き合いはきっぱりやめ、仲直りしようともちかけてきたのだ。
自らの愚かさに気づいた貴族子息が態度を改める。これもまたよくあることだ。学園の生徒たちは優秀な令嬢と子息が仲直りしたとほっとして、不審に思う者すらいなかった。
だがレヴィアーラはこの急激な変化に納得できなかった。底知れぬ気味の悪さを感じていた。
だからその原因を調べた。学友や彼がこれまで遊んでいた令嬢への聞き取り。試験結果の調査。学園の講師たちへ、彼の授業態度の変化についての質問、などなど。原因になり得るあらゆることを調べ尽くした。
その過程で婚約の契約書を調べた。あるいは契約内容の何かが、彼の心変わりのきっかけかもしれないと思ったのだ。
そして、契約書に宿る異質な魔力に気づいた。魔力感知に優れたレヴィアーラが疑いを持って調べてようやく気づくほどの、契約の文言の中に巧妙に隠された、魔術文字によるもう一つの契約だった。気づいてしまえば、それが悪魔によるものだとすぐにわかった。
エスタレンは憑りついた下級魔族によってその性格を改変されていた。その事実にレヴィアーラはたどり着いたのである。
本来ならば、教会の神官を頼るべきことだろう。だがここまで巧妙な契約を企む悪魔だ。通常の悪魔祓いでは討ち漏らす可能性が高いと思われた。
そこでレヴィアーラは大胆な解決策を試みた。
夜会での婚約破棄の宣言である。
婚約破棄によって契約を無効化されれば、悪魔もたまらず姿を顕すだろう。契約者にそうと知られぬままに契約する狡猾な悪魔だ。だからこそ、予想外の場所でいきなり正体を暴かれれば隙を見せることになるだろう。魔法に長けた貴族が集う夜会ならば、悪魔も容易に逃げ出すことはできないはずだ。
レヴィアーラは一人で悪魔を討伐するために、様々な魔道具を用意していた。レヴィアーラ自身、優秀な魔法の使い手でもある。よほど高位の悪魔でない限り、独力で討ち果たせるはずだった。
もし力が及ばなくても、周囲には魔法に長けた学園の生徒たちがいる。彼らに助力を仰げば打ち漏らすこともまずあり得ない。
「今のあなたはわたしの婚約者に相応しくありません! 婚約を破棄させていただきます!」
夜会での婚約破棄の宣言は、狙い通り子爵子息エスタレンに憑りついた悪魔の契約を無効化した。身を隠すのがずいぶん上手い悪魔だったが、魔力感知に長けたレヴィアーラは問題なくその存在を捕捉した。
契約者にその存在すら知らせぬ手口から、力そのものは大したことはないと予測していた。その予測通りの、低い魔力。どうやら下級悪魔のようだった。そこまでは計算通りだった。
しかしこの時、レヴィアーラは自らの失策を覚った。
感知した悪魔は子爵子息エスタレンに憑りついた1体だけではなかったのだ。
レヴィアーラが非凡だったのは、この予想外の状況においても冷静さを保っていたことだった。
彼女は冷静に考えすぐさま理解した。エスタレン一人を対象とした1体の悪魔の奸計ではない。これはおそらく、複数の悪魔による組織的な行動だ。
エスタレンに憑りついた悪魔1体だけなら討ち滅ぼせるかもしれない。だがそれは致命的な状況を生み出す危険性がある。例えば、悪魔が一斉に暴れ出したりでもしたら、どんな被害が生じるか予想できない。
だからレヴィアーラはこの場は去ることにした。ただ嫉妬に狂い婚約破棄を叫んだ愚かな令嬢として立ち去ることにしたのだ。
その夜のうちに馬車を用意立て、彼女はすぐさま実家に帰った。そして家族に事情を説明すると、悪魔の襲撃に備えて伯爵家邸宅に何重もの防御結界を張った。
そして秘密裏に王家へと連絡を取り、事態の深刻さを報告した。王家の対応は早かった。さほど日を置かず、悪魔については王家が対応するという返信がきた。
その後、レヴィアーラは情報を可能な限り遮断した。どんな手段で悪魔が介入してくるかわからなかったためである。彼女は三か月以上、じっと伯爵邸で待ち続けた。
だから学園全生徒に対する婚約破棄の宣言も、聖女が学園に巣くう悪魔を全て滅ぼしたのも、王子から聞かされて初めて知ったのである。
ひとしきり話を終えて、一息ついた。
レヴィアーラは紅茶を口にしながら考えを整理した。
王子の解決方法には驚かされた。婚約破棄で悪魔を暴いたレヴィアーラにしても思いつかなった、あまりにも大胆な手段だった。
だが、確かに効果的な手段ではあった。契約によって所在を巧妙に隠した悪魔たち。その存在を明らかにして一気に討ち滅ぼすなら、これ以上ない効果的な妙手と言える。だが強引過ぎるやり方だ。貴族たちの反発は免れない。事後の対応には苦労することだろう。
そう考えていくと、この状況が腑に落ちない。確かにレヴィアーラの行動によって悪魔の計画が明らかになった。だが今は、事後対応に忙しい時期のはずだ。
状況を知らせるだけなら手紙でも十分だし、労をねぎらうなら適当な使者でもよこせば済むだろう。第二王子自らが足を運んでくるというのは、やはりどう考えても異常なことだった。
そんな不審を感じ取ったのか。ディークラルト王子が話を切り出した。
「実は、こうして足を運んだのには理由がある。君という有能な令嬢を、王室に迎えたいと考えているのだ。君に相応しい役職を用意してある」
「なるほど……そういうことでしたか。わたしを王室に取り入れることで、悪魔との対決姿勢を王国内に示すわけですね」
「さすがだな。話が早くて助かる」
「恐縮です」
悪魔たちの計画は、大規模かつ長期的なものだった。悪魔は狡猾なものだが、それでも下級悪魔だけでこれほどの計画を立案できたとは思えない。おそらく上位の悪魔が指揮している。これからも悪魔は何かを仕掛けてくるかもしれない。
王国をいち早くまとめ上げる必要がある。だが今は、学園生徒全員の婚約破棄という強引過ぎる方法をとったばかりだ。王家に反発心を抱く貴族も少なくないだろう。
そこで王国は悪魔に対抗するという姿勢を打ち出し、事態の収束を図ることにしたのだ。悪魔の計画に最初に気づいた伯爵令嬢レヴィアーラの存在は、その旗頭として有効に働くことだろう。
そういうことならレヴィアーラにも異存は無かった。悪魔の存在を暴くためとは言え、学園の夜会で婚約破棄をした令嬢である。新しい結婚相手を見つけるのは苦労することだろう。家のためにも確かな役職が必要だった。
「それで、どういった役職となるのでしょうか?」
「ああ、まずはこれを受け取ってほしい」
ディークラルト王子は小箱を差し出した。役職を与えるなら書状か何かを渡されるものと思っていた。役職を示す装飾品でも入っているのだろうか。
疑問に思いながら、レヴィアーラは小箱を受け取り、開けてみた。
そこに入っていたのは、大粒のダイヤで飾られた精緻な作りの美しい指輪だった。とても文官の階位を示す装飾品には見えない。男性が贈るダイヤの指輪など、その意味するところは一つしかない。
「君を妃として王室に迎えたい」
「えっ……それはどういうことなのですか?」
「ああ、言う順番を間違えた。君のことが好きだ。愛している。どうか結婚してほしい」
「なんで……わたしなんかを……」
「学園で初めて目にしたときから君に惹かれていた。だが君には既に婚約者がいた。王族の強権を振りかざして奪ってしまえば、君を不幸にしてしまう……だから諦めねばならないと思っていた。
しかし君は婚約破棄して、今は誰のものでもない。だから、君を迎えたいんだ」
「わたしは……わたしは王子の婚約者になどふさわしくありません!」
思わず大声を上げていた。
王子が本気でなのは分かった。その言葉も、情熱的な視線にも熱がある。婚約者だった子爵子息エスタレンからは、ついぞ一度も向けられなかったものだ。彼女が求め焦がれていたものだ。
でも、だからこそ。
レヴィアーラはそれを受け入れることができなかった。
「どうしてふさわしくないなんて思うんだ? 君は悪魔の計画を暴いた功労者だ。君を妃に迎え入れることは、王の許可もとりつけてある。何も心配することは無い」
「でも……でも! わたしは、婚約破棄をしたんです……!」
「普通ならそれは非常識で無礼な行いだろう。だが、悪魔の存在を明らかにするためにやったことじゃないか。誰からも責められるいわれはない」
「違う……違うんです……あの婚約破棄は違うんです……!」
「何が違うというんだ?」
「あれは……エスタレン様のことが憎くてやったことなんです!」
家に引きこもって三か月余り。レヴィアーラは自らの行動を振り返り、自分が異常だったことにようやく気付いた。
悪魔の存在を明らかにして、確実に打ち滅ぼす。それが目的ならば、学園の夜会を選ぶ必要はない。確かに夜会ならば魔法の扱いに優れた貴族たちは何人もいる。だがそれは、彼らを無理やり巻き込んでいい理由にはならない。
確実性をとるなら、例えば教会に事情を話して場所を用意立ててもらい、その場で婚約破棄を宣言するという手もあった。
そもそも謝罪し仲直りを持ち掛けてきた婚約者を疑い、執拗に調べ上げることからして異常なことだ。
結果的にレヴィアーラの行動は功を奏し、悪魔たちの計画を白日の下にさらすことになった。
だがその動機は、そんな英雄的な結果とはかけ離れたものだった。
「わたしに冷たくして、他の令嬢に笑顔を見せるあの人が憎かった……! それが今まで悪かった、許してくれなんて言ってきたところで、許せるはずが無かった……! ひどい目に遭わせてやりたかった、貶めてやりたかった……! だから、婚約破棄なんてことをしたんです!」
ぽろぽろと涙がこぼれた。自分が情けなくて仕方なかった。勉学に励んだ。魔力探知の魔力操作の才能をより一層磨き上げることに努めてきた。相手を気遣い丁寧な態度で接することこそ貴族令嬢の在り方だと思い、それを実践してきた。学園では優秀な才媛と評判だった。
でも、その本性はこれだった。婚約者の浮気を受け入れられず、自分の感情を抑えることもできない狭量な人間。それが伯爵令嬢レヴィアーラだったのだ。
「わたしはこんな女なんです……! とても妃など務まりません……! あなたの伴侶になることなんてできません……!」」
王子の向けてくる心配そうな目に耐えられなくなり、レヴィアーラは顔を伏せた。
理性では言うべきではないとわかっていた。王族からの婚姻の申し出を断るなど、貴族にはあり得ない不作法だ。不敬罪で処罰を受けても文句を言えないことだ。
でも、言わずにはいられなかった。
ディークラルト王子が本気で想いを告げてくれている。そんな彼のことを、自分の醜さを隠したまま受け入れることなど、許されないと思ったのだ。
きっと呆れたことだろう。恋する気持ちも冷めたに違いない。息が苦しい。自分に想いを向けてくれた人を遠ざける。それがこんなにつらいことだなんて知らなかった。
王子はすぐにでもこの部屋を立ち去るに違いない。そう思うと胸が痛んだ。手を胸に当てようとしたところで、その手を取られた。ぎゅっと握られた。ディークラルトの手だ。熱が伝わってくる。熱い手だった。
なぜそんなことをするのかわからなかった。顔を上げると目が合った。ディークラルト王子は、熱い視線を自分に向けていた。
それに耐えられず、目をそらした。
「レヴィアーラ、君が憎いと思うのは当たり前のことだ」
「……わたしのような醜い人間を、なぐさめないでください……」
「私だって憎かった。憎くてたまらなかった」
慰めの言葉ではなかった。明確に深い憎しみが込められていた。
思わずレヴィアーラはディークラルトの目を見た。彼の目の奥に燃え盛る炎が見えた。薄暗くて、しかし熱い炎だった。
「君に冷たくするエスタレンが憎かった。助けようとしない周りの生徒も憎かった。迂闊に手を出すことのできない王族としての自分の立場も憎かった。
だからそういったものを全てぶち壊すために、学園の全生徒の婚約破棄を宣言したんだ」
「え……?」
学園の全生徒への婚約破棄の宣言。学園に巣くう下級悪魔を一網打尽にする大胆な策。
その有用性は理解できる。だがその実現となると、正気でできることではない。だが、ディークラルト王子はやった。憎しみに狂った彼は、やりとげたのだ。
「でも私は後悔していない。むしろスカッとしている。こんな人間に第二王子が務まると思うかい? 心配にならないかい?」
「それは……」
「そこで君が必要だ。婚約破棄を後悔するような、まともな感性を持った君みたいな人に支えてもらわなくては大変なことになってしまう。だからどうか、私の求婚を受けてほしい」
ディークラルトの目はどこまでも真剣だった。まっすぐにレヴィアーラのことを見つめていた。
握られた手を振りほどくこともできなかった。もはやレヴィアーラはその視線から目をそらすこともできない。その気すら起きなかった。
ディークラルトは王族だ。学園の全生徒に婚約破棄を宣言した異常な人だ。だが、自分を必要だと言ってくれる人だ。
彼は憎しみに狂って婚約破棄を宣言した。だがそれ以前に、彼は恋に狂っていたのだ。
見つめて欲しかった。想いを向けて欲しかった。婚約者に求めても与えられなかったものが、目の前にある。醜い部分を晒してなお、こんなにも熱く求めてくれる人がいる。
胸が満たされた。心臓が高鳴った。レヴィアーラは湧きあがる想いに逆らうことなどできなかった。
「はい……不束者ですが、よろしくお願いいたします……」
この恋は、誰からも認められないものなのかもしれない。異常なものなのかもしれない。
それでもよかった。自分を求めてくれる人がいる。愛してくれる人がいる。それだけで、彼女は満たされた。他になにもいらなかった。
だから、レヴィアーラは泣くのをやめて、笑みを浮かべた。それは淑女と謳われた令嬢には似つかわしくない、甘くとろけ、どこか妖しい……しかしどうしようもなく、しあわせそうな笑みだった。
終わり
「王子が学園の全生徒の婚約破棄を宣言する」というネタを思いつきました。
でも最初はこれでお話を作るのは無理に思えました。
まるで収集がつかないメチャクチャなことになりそうだったからです。
でもネタとしては面白いと思ったのでなんとかならないかと考えました。
あれこれ設定を考えていったらこんな話になりました。
お話づくりと言うのは奥が深いと改めて思いました。
2024/5/19 21:00頃
感想で「王太子妃はおかしい」との指摘をいただいたので修正しました。
ご指摘ありがとうございます!
その他、読み返して気になった細かなところも修正しました。
2024/5/24
誤字指摘ありがとうございました! そのほか、細かなところも修正しました。
2024/5/27、7/4
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!