第二章:我と等しき人に(一)
一
ここ半年、不思議な現象を目の当たりにし続けて、やっと耐性がついたと思っていたのが誤りだった。
「ふわふわの加減は、申し分ありません」
ふみかに、ツッコミを入れる気力は全然残っていなかった。ぬいぐるみがしゃべっただけで、もうたくさんだったのだ。
「ああ、可愛い物は身と心の保養になります。正義、と断言されることが納得いきます」
淡く色づけされたフェルト玉を八つくっつけた物が、ベンチの上をはっている。いも虫みたいな形をしていて、どこが「可愛い」のか、ふみかには分かりかねた。彼女は幼い頃、お人形遊びよりも、おはじきやこま回しに興味があった。いわゆる多数派の女の子が好む物に、なびかないのである。成人してなおさら、ぬいぐるみを欲しなかった。
「大和ふみかさんは、良い運の持ち主です」
「うん、しょっちゅう言われるよ」
丸がつながったぬいぐるみは「図書室感謝ウィーク」の特典だった。期間が始まって1840人目(なんと中途半端な数字だこと)の来館者として、ふみかに贈られた。
「ビブーリオの調べ物に付き合っただけなんだけれどもなあ」
ぬいぐるみは前足でベンチを叩いて、ほこほこ笑った。
「あなたが図書室へ足を運びましたので、新しい寄りましを見つけられたんですよ。時進に住んでいては、今後動きづらいでしょう。彼には仕事と家庭があります」
ぬいぐるみに憑いているビブーリオは、ふみか達が探している「神代の戦士」のひとりであった。遥かな年月を経て封印が解け、ふみかが在籍する空満大学文学部日本文学国語学科の教授・時進誠を寄りましとしていた。
「大和さんの髪飾りにしばらくお世話になっていましたが、この方がいざという時に便利です。『アトムすけ』さん、理学部化学科のイメージキャラクターだそうです」
「化学科と図書室って、あまり接点がないんですけど」
満足するビブーリオをわきに、ふみかは赤いスタジアムジャケットに首をうずめた。A号棟の地下二階は、春でも寒い。ビブーリオと話していて目立たないように、ここを選んだものを。
「おかしな人だと誤解されたら、それこそ永遠の冬だよ」
普通の人は、ぬいぐるみとおしゃべりしない。
普通は、ぬいぐるみが口を利いたり、動いたりしない。
普通の人達に、普通から外れているとみなされたらどうなるか。私は早くから味わわされている。
「時進に、似てしまったんでしょうか―」
ビブーリオに聞こえていなくて、ふみかは胸を撫でおろした。ビブーリオくらいこの世に永くいたら、普通についてああだこうだ論じている様子は、ちっぽけにみえるのかもしれない。
「書物の他に、集めなければならない、と掻き立てる物ができてしまいました」
ふみかに借りてきてもらった本を、丸い足で器用に開くビブーリオ。ふわふわした姿だが、声は時進だった。昨日まで借りていた身体の性質が抜けていないのだろう。
「講義の延長みたいで、ちょっときついかも」
後ろを向いてふみかはつぶやいた。彼女の時間割上、時進と会う頻度が高い。
「彼の子どもと孫は、男児ばかりですので、お人形遊びやおままごととは縁遠かったんです。その反動で、自宅は可愛い物であふれてしまいました」
「そうだったんだ……」
ふみかは時進邸を思い返した。ひょんなことから風呂を借りて、寡黙な同伴者としばし休ませてもらったのだ。居間に白うさぎと橙のぶたのぬいぐるみが、小さなテーブルを囲んでいたような。
「留守番を任された際に、ティータイムごっこをしています。一緒におやつをいただいて、至福の時間なんです。白うさぎのミルフィーネは、特に仲良しなんですよ」
「た、たしか、研究室にも置いていた気がする」
講義に持参している書類ケースや、ネクタイにも白うさぎを見受けられた。
「時進先生って、メルヘンな好々爺だよね」
「―だそうです」
ビブーリオのゆるい顔の先に、本人がいらっしゃった。ちょっと脇に抱えている数冊の絵本に『うわさをすればカゲ』なる題名があった。
「え、あ、あの、えっと」
しどろもどろになるふみかに、老眼鏡の黒々ふさふさ好々爺は微笑んだ。
「褒め言葉をもらったのは、久しぶりです。孫達に最近、煙たがられていましたので」
日本文学国語学科では、所属教員について話していたらご本人が現れがち。決して悪口を言うべからず。
「ん? 自然にビブーリオが先生へ声をかけていたんだけれど、大丈夫……なの?」
時進に席を譲って、ふみかは訊ねた。
「不都合はありません。彼は行使者です。『呪い』、そして空満の秘密は既に知っています」
とビブーリオが、
「業務上、私も『障り』の対処に関わっています。大和ふみかさん達と助け合う方針を定めるつもりです」
と時進誠教授が答えた。同じ声だから、ややこしい。
「ただの先生じゃないですからね」
日本文学国語学科……以下、略して日文の教員には「裏の仕事」も担っていた。万の望みを叶える術、または、万の理を超えた奇跡「呪い」による現象を止め、その行使者を捕らえる。加えて、人の心を食らい、枯らす「障り」による大学への被害を抑える。
対抗の方法は、とても単純。「呪い」を以て「呪い」を制す。ここに腰かけられている時進をはじめ、先生方は「呪い」の行使者であった(一名、行使不可能だが、無効化の訓練を受けている)。
「時進の術で、この地の―いいえ全世界の人々を本の中にかくまうんです。そうすれば、遠慮なく戦えます」
ビブーリオは、時進が行使する「呪い」に惚れ込んでいるらしい。
「書物の『寄物陳呪』は、あの芸亭を設けた石上宅嗣が編み出したんですよ。連綿と受け継がれていたことに、私は涙を禁じえませんでした」
時進は、とんでもないとばかりに首を振った。
「若い頃と比べて、威力は随分落ちました。術の反動に耐えられず、回数制限をしています。『祓』を意のままにするビブーリオさんと大和さん達に、あやかりたいものです」
ビブーリオとふみかは顔を見合わせた。
「呪い」は、四つに分類される。物を介して奇跡を起こす「寄物陳呪」、散文を介して奇跡を体現する「正述陳呪」、韻文を介して奇跡を現に表す「詠唱」、心から出づる気を奇跡とする「祓」である。頼るものの形が抽象的になるほど、強く、複雑な効果を発揮する。価値観が多岐にわたり信心が薄れつつある現代、行使者は稀少な存在である。「寄物陳呪」を継ぐ時進は確かに珍しいのだが、最高位の呪い「祓」を宿すビブーリオやふみか達「スーパーヒロインズ!」がいかに評価されるかは、言うまでもないだろう。
「えっと、ところで、先生はどうしてこんな所に?」
気遣いできていなかったと、ふみかは己を恥じた。病弱な身である時進を冷やしてはいけない。
「ああ、人に会う約束をしていたんです」
時進は、膝に積まれていた絵本を指した。
「化学科の先生なんですが、ここで、と頼まれたんです」
「ブックスタート、先方のお孫さんへ贈る絵本を紹介するんでしたね」
「はい。お孫さんの母である先生のお嬢さんが、本学に勤めておりますので、内緒で選びたいんだそうです」
時進とビブーリオのやりとりに、ふみかはほどよく相づちをうった。
「それではお暇しましょう。大和さん、午後は学内の探索です」
ふみかの肩をよじ登るアトムすけに、時進は温かいまなざしを向けていた。
「誠五は学生の頃、ここで昼休みを過ごしていました」
歩みを止めるふみか。誠五―時進の五男とは、顔なじみだったのだ。
「附属図書館の司書になった今も、折節、読書に来ているようです。いつかのぞいてやってください」
耳が赤くなっている、とビブーリオに指摘されて、ふみかはあわてて隠した。
C号棟の研究室は、本日ものどかであった。
「仁科さーん、コーヒーのお代わりよろシクロアルカン」
指導教官のあくびまじりな声に呼ばれ、仁科唯音は空いたビーカを下げにきた。
「…………」
黙々と用をこなす唯音に、強面の老教官は「ぷふー」と音にした息をはいた。
「能面みたいだヨードチンキ、北里のラボではせめてスマイルちょうだS(硫黄)」
唯音は一瞥して、またサイフォン式コーヒーメーカーに視線を戻した。
「先生ダメすよお、姐さんに笑いとるとか至難の業ですって」
モヒカン頭の白衣が、教官にチョコレートを渡す。彼の口元からは、メントールの香りが漏れていた。
「野依くん、ガム噛みながらはいい加減やめて」
「うーい」
モヒカンは包み紙にガムを吐き出した。
「北里は、仁科さんが巣立つまでにスマイルをいただくと決めているの」
語尾に化学用語を付けて、関心を惹かせようと試みているものの、失敗が続いている。
「四年も同じパターンじゃ無理すよ。実験だってそうじゃないすかあ、別の方法でやらないと」
「いやだ、いやだ、いや第一イオン化エネルギー」
北里教官が手足をじたばたさせて、回転椅子をきしませた。
「実験とギャグは別物! トライアンドエラーはもう飽き飽き! こちとら学業・仕事と生活が化学で占められているの。ちょっとぐらい道草食わせてくれる?」
唯音にコーヒーをもらい「ありがトリニトロトルエン」と礼をするも、まったく反応してくれなかった。
「俺のが姐さんを分かってますね。姐さーん!」
野依が手招きして、ロッカーの上にあった小倉百人一首を投げた。唯音は抜かりなく受け止める。
「昼飯すんだら坊主めくり、どっすか?」
「します……」
したり顔の野依に、北里教官はむくれた。
「唇の角度が3°上がっただけじゃない」
「姐さんは和歌を嗜むマルチリケジョなんですよ。文学サークルで活躍してるって。ガチ天才す」
「ずっと前に聞いていました。北里は日文の先生とも親交が深いんです陽極」
「それなら文学ネタで攻めたら早くないすか? スベりまくられたら、俺の就活までスベりそうなんで勘弁してほしいんですけどー」
強面とモヒカンが火花を散らしていたら、トロンボーンが割り込んできた。唯音はたまに意表を突いてくるのだ。
「先生、予定の時刻が、4分33秒、過ぎている……です」
真鍮の製造からとりかかった唯音作の金管楽器が、やけにまぶしい。
「しまっW、急Ge!」
教官は靴下をはき、わずかな頭髪をくしで整え、研究室を飛び出した。
「遅刻魔すよね。ドンネルなのに」
「癖は、直らない……です」
肩を振り回し、野依は白衣のポケットより板ガムを二枚出した。
「ドンネル先生、昔は鬼教師だったってマジすか? えびす顔の単位配りじいさんが、ありえなくないすか?」
教官の氏名は北里雷爺郎、あだ名は「雷」をかっこつけて独国語にした「ドンネル」だ。
「私は、先生の、過去は、知らない……です」
二学年下の後輩は、唯音に許可をもらってガムの銀紙をむいた。
「しかし、お祖父さんは、当時の、先生と、研究をして、身の細る思いを、した……」
「別人ぽくないすか? 先週の一回生がやらかしたやつ、全然怒らなかったんですよ。希釈の実験で、濃硫酸に水ぶっかけて大惨事だったのに」
希硫酸を作る時は、水に濃硫酸を少量ずつかき混ぜながら加える。濃硫酸は水に溶けると急激に発熱するため、後に水を加えると突沸し、硫酸が飛び散って危険である。
「凡ミス過ぎて、逆に許せるとか? そこはバリバリドンネル落としてもらわないと、ナメられますって」
もう一枚のガムを唯音にすすめたが、うわの空だった。
「姐さん……?」
在りし日の祖父をたどっているとは、彼に分かるまい。