表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/41

第二章:我と等しき人に(序)


     序


 小刻みな波が、止まらない。


 胸の中にある水面(みなも)が、ざわめいている。


 静かにさせたくても、抑えが利かない。


 体に「動くな」と信号を送ったが、手遅れだった。


 怒りを向けたところで、状況が好転するわけでもないのに、そうしてしまうのは、なぜ。


 胸の奥底から、消えてしまえと、細かなあぶくが絶えることなく上がってくる。


 刀を振り下ろしても、怒りの源は断ち切れない。


 感情を共にできる仲間は、今、おはじきを、脚を、リボンを、拳を、(わたくし)に向けている。


 (わたくし)だけで、突破しなければならない。


 (わたくし)の周りには、もう誰もいないのだから。



 お祖父(じい)さんによる、古典文学の読み聞かせが、(わたくし)の楽しみでした。

 八歳の冬に、『伊勢(いせ)物語(ものがたり)』第一二四段を読んでくれました。


  (おも)ふこと ()はでぞただに やみぬべき

  (われ)(ひと)しき (ひと)しなければ


 お祖父さんは、無理して笑いながらこの和歌を口ずさんでいました。

「昔の人は、真理(しんり)に限りなく近かったんだろうな」

 心に思う事は、言わないでおきましょう。(わたし)と気持ちが同じ人はいないのだから。お祖父さんは、そのように解釈していました。

唯音(いおん)は、思っている事を話さなければいけないよ。大人になるまでは『これがしたい』、『それはいやだ』を相手にうまく伝えるための練習期間だ」

 (わたくし)は、疑問に思いました。「(われ)(ひと)しき(ひと)」がいないならば、最初から思いを話す必要はありません。その上、(わたくし)は今日の時点で、知ったのです。知っておきながら、まだ「(おも)ふこと」を言うのでしょうか。無駄ではありませんか。

「賢いな……」

 お祖父さんは、膝に乗せていた(わたくし)の頭をなでました。

「無駄かもしれん。なにしろ自分と他人は、個体が異なる。クローンの場合でも、経験に対して感じることがオリジナルと同じわけではない」

 目頭を押さえて、お祖父さんが言いました。(わたくし)はハンカチを渡そうとしましたが、いらないと優しく押し返されました。

「だが、世界に、自分と気持ちが同じ人しかいないとなれば、とうに滅びているだろうな」

 (わたくし)は首をかしげました。思いのすれ違いや衝突が無い方が、世界を維持できるのではないでしょうか。

「唯音、思いが正しく伝わりにくいから、ぶつかり合うから、人間は進歩するんだ。面白いところだよ」

 理解不能です。

「すぐに分かろうとしなくていい。さらに悩ませることを言おう。我と99.9999……それこそ100%に限りなく近いぐらい等しい人が、途方も無い確率でいるぞ。人生のうちで、唯音は見つけられるかな?」

 私は、大人になっても、お祖父さんが遺した言葉に悩まされています。



 傑作が偶然にもかぶってもろうた時、特に、向こうに先を越された時、足摺りに足摺りを重ねても気がすまへん。

 あれは、雪がごっつう降った頃、時の帝に即興の歌をお贈りした。ところが、それは先ほど受け取った、と(のたま)うた。別のものを欲しがられておる。詠んだ者はどやつか、わたいは訊ねた。あくまで遠回しにやで。いくら万の人がうらやむ才能を持っているわたいかて、(りょう)(がん)を前にしたら(かしこま)るわい。

 名前を耳にして、わたいは「あ」と「お」の音を往復してもろうた。帝の(おもんばか)りがあって、下がらせていただけたがな、あやつやったとはのう。おなごであれば、年も家柄も問わず逢いに行く男や。(わか)うて七つ、老いておって九十九やと噂が流れておった。あの男の生き様は、後に物語となる。わたいはいち早く確信しておったで。千年ちいとして、その通りになったのや、貢ぎ物を牛に乗っけられるだけ乗っけて持って来るべきやのう。わたいの居所を教えてやらうか? いらんとな? 素直ちゃうな。

 日が沈むまで海に浸かって、やうやく一首詠めた。かぶってしもうた歌は、耳の穴を清めていたうちに、ぽぽぽぽぽと浮かんだのやがな。おぬしらもあるとちゃうか? 雑用をしておると、白玉のやうに輝く何かが頭に降りてきた時がの。わたいは特に、砂浜に横たわって鼻をほじるか尻を掻いておると、調子がええ。忘れんうちに(てのひら)に書くのや。ああいうものは、覚えたつもりでもすぐに消えてまう。まるで、砂浜に残した文字が波に流されるようにな。書いておかんせいで、今おかれておる状況をがらりと変えられる機会を逃した者を、ようけい見てきた。哀れみはせんで。もったいないのう、とだけ言うて、酒呑むだけや。

 雪を枕に、(かえり)みる。わたいと等しき者は、ほんまにおらんのやろうか。やからちゅうて、ぎょうさんおったら、気味が悪いがな。歌だけやなうて、思ひまで同じにされたらかなわんわい。いつの世も、あいでんてぃてぃと、おりじなりてぃは無くしてはならん。

 おるとしたら、容易(たやす)く会えんやろうな。わたいが眺めておる星の数ほどの人間の中から、一人を引っ張りだすとなれば、(なが)い年月をかけねばならんやもしれん。あまりしたうはないのう。

 はて? 仮定の話やっちゅうのに、何を熱うなっておるんや? あの男より考えが深いところを示したかったのか? 帝に、未練がましいと思われるだけやで。下手すれば昇殿を禁じられてまう。(さい)を活かしてここまで至ったのが水の泡になる、いかん。

 わたいは、あやつの歌に絡め取られたままや。「我と等しき人」は、ありやなしや。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ