第二章:我と等しき人に(序)
序
小刻みな波が、止まらない。
胸の中にある水面が、ざわめいている。
静かにさせたくても、抑えが利かない。
体に「動くな」と信号を送ったが、手遅れだった。
怒りを向けたところで、状況が好転するわけでもないのに、そうしてしまうのは、なぜ。
胸の奥底から、消えてしまえと、細かなあぶくが絶えることなく上がってくる。
刀を振り下ろしても、怒りの源は断ち切れない。
感情を共にできる仲間は、今、おはじきを、脚を、リボンを、拳を、私に向けている。
私だけで、突破しなければならない。
私の周りには、もう誰もいないのだから。
お祖父さんによる、古典文学の読み聞かせが、私の楽しみでした。
八歳の冬に、『伊勢物語』第一二四段を読んでくれました。
思ふこと 言はでぞただに やみぬべき
我と等しき 人しなければ
お祖父さんは、無理して笑いながらこの和歌を口ずさんでいました。
「昔の人は、真理に限りなく近かったんだろうな」
心に思う事は、言わないでおきましょう。私と気持ちが同じ人はいないのだから。お祖父さんは、そのように解釈していました。
「唯音は、思っている事を話さなければいけないよ。大人になるまでは『これがしたい』、『それはいやだ』を相手にうまく伝えるための練習期間だ」
私は、疑問に思いました。「我と等しき人」がいないならば、最初から思いを話す必要はありません。その上、私は今日の時点で、知ったのです。知っておきながら、まだ「思ふこと」を言うのでしょうか。無駄ではありませんか。
「賢いな……」
お祖父さんは、膝に乗せていた私の頭をなでました。
「無駄かもしれん。なにしろ自分と他人は、個体が異なる。クローンの場合でも、経験に対して感じることがオリジナルと同じわけではない」
目頭を押さえて、お祖父さんが言いました。私はハンカチを渡そうとしましたが、いらないと優しく押し返されました。
「だが、世界に、自分と気持ちが同じ人しかいないとなれば、とうに滅びているだろうな」
私は首をかしげました。思いのすれ違いや衝突が無い方が、世界を維持できるのではないでしょうか。
「唯音、思いが正しく伝わりにくいから、ぶつかり合うから、人間は進歩するんだ。面白いところだよ」
理解不能です。
「すぐに分かろうとしなくていい。さらに悩ませることを言おう。我と99.9999……それこそ100%に限りなく近いぐらい等しい人が、途方も無い確率でいるぞ。人生のうちで、唯音は見つけられるかな?」
私は、大人になっても、お祖父さんが遺した言葉に悩まされています。
傑作が偶然にもかぶってもろうた時、特に、向こうに先を越された時、足摺りに足摺りを重ねても気がすまへん。
あれは、雪がごっつう降った頃、時の帝に即興の歌をお贈りした。ところが、それは先ほど受け取った、と宣うた。別のものを欲しがられておる。詠んだ者はどやつか、わたいは訊ねた。あくまで遠回しにやで。いくら万の人がうらやむ才能を持っているわたいかて、龍顔を前にしたら畏るわい。
名前を耳にして、わたいは「あ」と「お」の音を往復してもろうた。帝の慮りがあって、下がらせていただけたがな、あやつやったとはのう。おなごであれば、年も家柄も問わず逢いに行く男や。若うて七つ、老いておって九十九やと噂が流れておった。あの男の生き様は、後に物語となる。わたいはいち早く確信しておったで。千年ちいとして、その通りになったのや、貢ぎ物を牛に乗っけられるだけ乗っけて持って来るべきやのう。わたいの居所を教えてやらうか? いらんとな? 素直ちゃうな。
日が沈むまで海に浸かって、やうやく一首詠めた。かぶってしもうた歌は、耳の穴を清めていたうちに、ぽぽぽぽぽと浮かんだのやがな。おぬしらもあるとちゃうか? 雑用をしておると、白玉のやうに輝く何かが頭に降りてきた時がの。わたいは特に、砂浜に横たわって鼻をほじるか尻を掻いておると、調子がええ。忘れんうちに掌に書くのや。ああいうものは、覚えたつもりでもすぐに消えてまう。まるで、砂浜に残した文字が波に流されるようにな。書いておかんせいで、今おかれておる状況をがらりと変えられる機会を逃した者を、ようけい見てきた。哀れみはせんで。もったいないのう、とだけ言うて、酒呑むだけや。
雪を枕に、省みる。わたいと等しき者は、ほんまにおらんのやろうか。やからちゅうて、ぎょうさんおったら、気味が悪いがな。歌だけやなうて、思ひまで同じにされたらかなわんわい。いつの世も、あいでんてぃてぃと、おりじなりてぃは無くしてはならん。
おるとしたら、容易く会えんやろうな。わたいが眺めておる星の数ほどの人間の中から、一人を引っ張りだすとなれば、永い年月をかけねばならんやもしれん。あまりしたうはないのう。
はて? 仮定の話やっちゅうのに、何を熱うなっておるんや? あの男より考えが深いところを示したかったのか? 帝に、未練がましいと思われるだけやで。下手すれば昇殿を禁じられてまう。才を活かしてここまで至ったのが水の泡になる、いかん。
わたいは、あやつの歌に絡め取られたままや。「我と等しき人」は、ありやなしや。