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ローバーテネシーコンバーチブル

作者: jima

第0章「老婆の家では老婆のするようにせよ」

 

ある時期まで僕はお婆ちゃんが苦手だった。僕のとか君のとか、そういうことでなく世の中一般に存在する高齢の女性が苦手…というより何だか怖い。…怖かったということだね。


自分でも原因はわかってる。母方の祖母のスパルタによるものだ。

日本人の父とアメリカ人の母を持つアメリカ生まれのハーフ、強烈な女性だった。

 


幼い頃の僕は母の実家に連行されては彼女の厳しい『教育』を受けた。社交ダンスの基礎とか女性のエスコートの仕方とか日常英会話など、彼女は何だかよくわからない素養を僕に叩き込もうとしたのだった。


例えば英語のLとRの違いも口と顎をつかまれながら発音させられた。発音をスパルタでやる人見たことあるか。


「『sparta』のRはそうじゃないデス。ホントに覚えの悪い」ってどう思う。



英語の歌も覚えさせられた。英語の勉強なら歌の上手い下手は関係ないじゃないかと思ったが、故郷の歌の音程を間違えると厳しく直された。


「アップ・ダウン。登って降りる、何で一生懸命やらないデス」



たまに外で遊ばせてくれるのかと思ったら自転車に乗る練習でこれも思いっきりのスパルタ、泣いても擦りむいても乗れるようになるまで許してくれなかった。


「交通ルール守るためにきちんと発進、止まる、手信号出ス」

手信号やってる人見たことないよ。



当初はわけもわからず祖母に従っていたが、当然僕の足は小学校の高学年から中学生へと進むにつれて少しずつ遠のいた。


いつのまにか僕にとって祖母の顔もおぼろげなものになった。

 



祖母が亡くなったのは僕が中学校の卒業を控えた数日前のことだった。

遺影を見てその顔が実は意外なほど優しげだったのに驚いた。


棺を運ぶ役の一人に僕が選ばれていた。生前の祖母の強い希望だという。

棺を車に運び入れる時、玄関に見覚えのある青い自転車があった。


どこかで聴いた曲が流れてきた。

祖母の生まれ故郷を歌った、そして僕に英語の練習をさせたあの歌だ。



何故もっと祖母と一緒の時間を持たなかったのか。

僕はやや不本意ながら大粒の涙を流した。






第1章「老婆の休日を邪魔してはならない」


高校の不良達も部活動の先輩も怖いし、あの生徒指導のムキムキティーチャーだって怖いけど、僕は思う。何を考えているのかわからないヨレヨレのお年寄りだって怖い。そう思わないか?


交通標識で『危険』とデカデカと表示されてるより、ヨレヨレの赤い手書きで『入るな。キケン』て書いてある方が怖いこともあるだろう。


100歳以上に見えるお婆ちゃんが何も言わずにゆっくり近づいてきたら「ものすご怖っ」と思うのが当然だよね?


これは僕が怖い思いをしたのと不思議な目にあったというのと、少し懐かしい気持ちになったというような…全体的には…うん、まあまあいい話かもしれない。





高校の部活動の帰り、駅に寄って自転車を出して家に帰る途中だった。僕の家はだいぶ郊外の方にあるからさっさと帰らないと真っ暗になってしまう。だからそろそろ夕暮れというこの時間、ペダルを回す足が速まる。


スッと右折しようとしたら、乱暴な運転のトラックが僕の前をブン!と通り抜けた。

危ないところだった。思えばこれが奇妙な話の始まりだったんだ。



住宅街の外れまで来ると、曲がり角に全体的に服装の茶色い婆さんが座っていた。

薄暮の中、周囲はもう点々と家があるだけ、つまりかなり寂しい状態だ。婆さんが座ってたのはホントにただのブロックだ。

道の曲がり角にあるブロック、あんなものに座る人がいるかと君は思うだろう。


いるんだ。

婆さんは座って何をするでもなく道行く人を見てたりするんだ。おまけに眼が良くないから眉間に皺をよせて眼を凝らし、じっと対象を眼で追ったりする。わかってる。悪気じゃないんだろう。


でもね、今道を行くのは僕だけなんだ。夕暮れだからね。


その僕と自転車をじいっと睨みつけるように見つめられるのはビビるだろう。君もやられてみるといい。ホント怖いから。


婆さんが座って僕を眼で追ってくるけれど、僕は俯いて眼を合わせないようにしていた。

何か聞こえる。わかんないけど歌を歌っているのかもしれない。鼻歌が聞こえたような気がするんだ。それも怖いって。


ビビって俯いて、そして歌でさらにビクッとして僕は横のガードレールに後輪をぶつけた。

「ガチャッ!」って音が静かな郊外の街にビックリするほど響いた。


 

その時だ。婆さんが立ち上がった。音も無くね。僕はその婆さんの立ち上がり方のスムーズさが不気味だったんだ。

婆さんって立ち上がるときは「よっこらしょ」とか言って、何段階かの動きを経て立ち上がるのが普通だろう?


いや、思い浮かべてくれ。100歳の婆さんがスッと真上に立ち上がったら違和感ないか?


「Run away!」

一言後方からしわがれた声が聞こえた。


僕は自転車の上で飛び上がったね。自転車の上で飛び上がるのは難しかったけど、無論これは比喩だ。


 

僕は直感的っていうか本能的っていうか、要するにヤバいっ!て思ったんだ。

一目散に逃げた。自転車を全速力で漕いでね。君はあの有様を見たら多分笑い出すだろう。

でもそんな僕の慌てぶりは満更間違いでもなかったんだよ。


この後の話も聞いてほしい。納得するから。



婆さんが追いかけてきたんだ。最初はゆっくりと。段々と早足で。

僕は自転車で全速…それに対して婆さんの早足なんて大したことないじゃん追いつけるわけないじゃんって思ったか?


だろ。

それならグングン差がつくはずだ。


それがね、怖いよね。差がつかないんだ。後ろの方に婆さんの気配があるんだ。気配だよ、気配。そうだよ、姿が見えるわけじゃない。


そりゃどう考えても気のせいじゃないか、って君は鼻で笑っただろう。


いいや、気のせいじゃない。







第2章「すべての道が老婆に続いているのかもしれない」


すでに夕と夜の中間だ。自宅への帰路、田舎だから仕方ないけど途中に峠がある。結構な上り坂でおまけに大きなカーブだけど、ここを乗り越えれば後は下り坂だ。


街灯はその峠カーブの真ん中にひとつあるだけ、後は自転車のライトが頼りだ。うす暗がりの中、峠の真ん中付近がぼんやり明るく見える。周囲は茶畑だ。


いつもだったら単にここが最後の頑張りどころ!くらいの気分だけど、その晩は違う。

何しろ後ろに気配がある。決まってるだろ、婆さんの気配だよ。婆さんのね。


まだそんなこと言ってんのかって君は呆れるかもしれない。


そういう人は一度夜道を老婆に追いかけられてみるといい。



峠の坂道は角度がきつくて途中からうんせこらせと立ち漕ぎの状態になるんだ。僕はハアハア言いながらペダルを漕いだ。ハードに身体を動かすと恐怖心も少しは和らぐ。

だから僕も余計頑張って自転車を漕いだんだけど、聞こえなくてもいい音が聞こえたのはその時だ。


足音がした。坂道の下の方から、峠の下の方から、暗闇の中から。

ドカドカじゃない。ペタペタでもない。びっくりするほどヒタヒタだ。鮮やかにヒタヒタだ。



「Hurry up more!」

今度はいきなり怒鳴り声が聞こえた。


何か冷たい震えと血流が「もへえええん」とつま先から脳天まで上がっていくような感覚だった。

嫌な冷たい汗を額と首筋とお腹の辺にかきながら、ついつい振り向いたんだ。

振り向かなきゃいいじゃんて思うかい?


いやいや振り向かずにいられるわけないじゃん。


さっきの婆さん、町外れで見たあの婆さんがヒタヒタと坂の下から上がってきてたんだよ。薄暗い街灯に婆さんの姿がボンヤリ浮かんで見えた。


薄茶色のシャツに焦げ茶色のズボン、首元にはクリーム色の薄手のマフラー…全体的に茶色いコーデのあの婆さんだ。


おかしいだろう。高齢の婆さんが夕闇の中、郊外の茶畑の道をヒタヒタと急ぎ足で登ってくるんだ。


ここだけの話、君にだけは白状する。僕はちびった。ほんの2、3滴だけど漏らした。

僕を責められるかい?宵闇の中、無人の峠で無表情の老婆に追われている僕を。




峠を登り切って下り坂に入るやいなや、僕はスピードをあげた。恥も外聞も無い。喚き散らし涙と鼻水を流しながらペダルを全力で漕いださ。最初は悪い夢でも見てるみたいに何だか空回りしたんだ。


焦れば焦るほどペダルを踏み外したり、ハンドルを切り損ねたりしてヨレヨレだよ。


それでも何とか下りでスピードに乗った。グングンと飛ばして風が僕の顔に当たった時、僕はまた振り向いたんだ。振り向いちゃったんだ。


もうすぐ後ろをね。婆さんが無表情で走ってるんだよ。手を伸ばせば僕の自転車のサドルを掴めるんじゃないかって位置まで迫ってた。


全身の毛穴が開くような感覚ってこういうことだ。汗じゃないんだ。何か得たいの知れない気体が僕の全身からシューシューと勢いよく噴き出した。



「Row more!」

もう一度、すぐそば、ホントに後頭部の後ろくらいから声が聞こえた。


「ヒュウ」

僕の魂みたいのが口から漏れてるみたいな音がした。


もう駄目だって思った。


駄目だったかって?…駄目だったら今こうして君に話が出来てるわけないじゃん。 






第3章「老婆は一日では出来上がらない。当たり前だけど」


恐怖で慄いたままの僕はそれでも全力でペダルを回した。必死でペダルを回したらこのネットリとした禍々しさを引き剥がせるんじゃないかと眼を血走らせ、つりそうなくらいに脚を動かした。


 



何だろう。下りの森を抜ける道に入ったところで僕は急に怖くなくなった。まったく妙な話だ。

僕の胸はスウッと冷たくて軽い空気を吸い込んだんだ。


これはどうしたことか。怪談というか恐怖譚というか、そういう物語から僕は抜け出したのかと思った。


でもこの話はまだ終わらない。いや、ここからが一番変な話だ。



僕は後ろを振り向いた。


「わっ」


老婆は僕の自転車の荷台にいたんだ。正座している。体重はない…かのようだ。

何が妙だといって、さっきも言ったように僕は怖くなくなっている。おかしいだろう。


闇夜を走る自転車に乗っていていつの間にか荷台に見知らぬ婆さんが正座していたら、恐怖のズンドコどん底だ。それが普通だ。


「It's all right now. You did your best」

見知らぬ顔の婆さんが言った。いやどんな顔なのか判らなかったのだけれど。

僕の身体からは力が抜ける。


唐突に何でそんなに怖くなくなるんだって君はいうだろうけど、ホントだから仕方ない。


自転車は下り坂を快調に、滑るように疾走する。

闇夜を作る雲が風で流れ、明るい月が出てきた。空気は澄んで僕の頬を気持ちよくなでていく。


歌が聴こえた。

僕はすぐわかったさ。これは後ろに乗っている婆さんが…いや、懐かしい僕の祖母が歌っている。

この歌は何だったか。


♪I was dancing with my darling…


すぐに思い出した。祖母の故郷の歌だ。

下り坂の森を疾走する自転車のスピードが上がるにつれて、歌声が大きくなる。


どこからかピアノの伴奏さえ聴こえてきた。不思議だけどね。


こんなに気持ちのよい夜があるだろうか。僕も声を合わせて歌う。

楽しくて嬉しくて、笑いを抑えきれない。


「♪I remember the night And the Tennessee Waltz Now I know just how much I have lost」 


(思い出す あの夜を

 懐かしいあのテネシーワルツ

 今になって分かる 失ったものの大切さを)


風を切るその自分の頬に涙が混じる。

何故だかわからないけれど、僕は泣き笑いしながら夜の森をひた走った。





終章「老婆のアメリカ人は月夜に歌う」


以上で僕の話は終わりだ。

君は今思ったかい。


「なんじゃ、そりゃあ。唐突な」



前の晩、僕は駅に近い住宅街の公園で倒れているところを見つかった。

乱暴な運転のトラックを避けようとして転倒したらしい…とは後方の目撃者の話だ。


病院に運ばれた僕は外傷はさほどでないが、意識不明の危険な状態…だったとのことだ。

深夜には呼吸が徐々に弱くなっていき、両親は随分心配したらしい。


それがなぜかある時間に突然「峠を越えた」のだという。


僕は楽に呼吸をするようになり、うっすら笑みを零すくらいに状態が回復したというから不思議だ。



あれは重体の僕が見た刹那の幻だったのか。

それとも祖母がやはり幾分スパルタなやり方で僕を彼岸から追い立ててくれたのか。



多分僕の祖母ならこう嘆く

「そんなことはどうでもいい。それより反省しなさい。安全な自転車の乗り方をあれほど叩き込んだのに」


それから続けて…

「『sparta(スパルタ)』のRの発音がおかしいでしょう。『waltz(ワルツ)』のLと違うのですよ。ホントに覚えが悪いデス」





読んでいただきありがとうございました。

「生と死の間くらいの話」って興味があります。

その辺の狭間に何があるのかっていうのは面白いと思うんですよね。

次回もそういうテーマでいってみたいなどと。

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― 新着の感想 ―
[一言] 印象的なタイトルに惹かれて読ませて頂きました。 途中ホラー!? と思う程の緊迫感でしたが、おばあちゃんは「僕」が峠を越えられるよう必死で助けようとしてくれたんですね。 lとrの発音の違い、未…
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