問いかけ
部屋を出てすぐのところに、イルゼン様がしっかりと立っていた。背中に長い定規が入っていそうな真っすぐな姿勢ながら、物々しい雰囲気を纏っている。
「どうしてここに……」
「ラウラに話がある」
イルゼン様は踵を返し、執務室へと歩を進めた。私は条件反射で、その後ろについて歩く。
テオ様の部屋の扉は昔の名残で分厚いままだけど、どうか中の会話が聞こえてませんようにと願う。イルゼン様は何も言われないが、ものすごく後ろめたかった。
私は一応仕事中であるはずなのに、勝手に悲しくなって部屋を飛び出て、テオ様に慰められていたのだ。しかもあの内容――ぐらついてしまったことが最低だ。しかもテオ様に申し訳ない。
冷や汗をかいて自己嫌悪に陥っているうちに、執務室に着いていた。
入って扉を閉めると、イルゼン様は向き直った。青く冷徹な瞳が私を見下ろして、また泣きそうな気持ちになる。自分でもどうしようもなく、イルゼン様が特別なのだ。
「悪かった」
私が謝罪するより早く、イルゼン様が何かについて謝った。慌てて、バカみたいに手を振った。
「イルゼン様は何も悪くありません。私こそ、感情的になって仕事を放棄しました。大変申し訳ございません」
「いや、私が事前に説明するべきだったんだ。知らない方がいいと勝手に判断し、押し付けがましいことをした」
「そんな風には思っていませんが、あのお金はイルゼン様とドミヌティア家のために役立てて下さい」
「こちらの心配はいらない」
しばらく押し問答をしたが、使途不明のまま、変わらずに外貨を増やすように頼まれる。
最終的な受け取りが誰か決まっていなくてもお金は腐らないし、いくらあって困るものではない。何かの役には立つだろうと継続しての任務を頼まれた。
「それから、まだしばらくはどこにもいかないで欲しい。私もラウラを守れるよう、もっと努力する。外貨を動かす仕事に慣れてきて余裕があるなら、私の仕事も少し手伝ってもらいたい」
イルゼン様は少しも感情的にならず、淡々と語る。この短い間に、私がイルゼン様の傍にいたい、手伝いたい気持ちを汲み取ってくれたのだ。どうしてここまで素晴らしい人がいるんだろう、決して言葉にできない好き、を胸の中で繰り返した。
「お気遣いありがとうございます、もちろんお手伝いいたします」
口から出るのは堅苦しいセリフだけれど、悟られないよう必死に笑顔を浮かべた。
「礼を言うのはこちらだ」
これで話は終わり、と思いきやイルゼン様はマホガニーの重厚な机に向かわなかった。まだ泰然とその場に立っている。
「しかし嫌な思いをさせて、申し訳ないと思っているのは事実だ。詫びの気持ちとして何か贈りたい。ラウラ、何か欲しいものあるか?」
「お気持ちだけありがたく頂きます。これ以上は結構です」
私は欲しいものは特になかった。生活に必要なものはお給料から購入できている。もし宝石など派手なものを身に着けたら、嫌がらせの対象になるだけだ。
「ものでなくてもいい。私に対して、何か不満があるだろう?直すべきところを教えてくれ」
断ったのにイルゼン様は全く引き下がる気配がない。
「ありません、イルゼン様は完璧です」
「それは違うと思うが……では、して欲しいことは?何でもいい、必ず叶えるから言ってくれ」
これには返答に窮してしまう。究極的には『私を愛して』だが、お願いして『わかった、やってみよう』で済む話ではない。
「ありません」
「なぜ言えないんだ。今思いついた顔をしていた。言え」
私の愚かな考えが顔に出てしまったのか、イルゼン様は凛々しい眉をひそめ、迫ってくる。こんなに美形で上品な借金取りはいないだろうが、何か差し出さねば終わらなそうだ。
「何でもいいんですね?」
「私に二言はない」
「笑って下さい」
イルゼン様は当惑の表情をした。予想外だったのかもしれない。あの事故以来、全く笑わなくなったと自覚してなかったのだろうか。
「イルゼン様が、昔みたいに笑ってくれたら嬉しいです」
私がいないところでは、ちゃんと笑っていたかもしれない。でも私の前ではあの事故以来、決して笑ってくれないから、どうしても欲しいものはこれだった。
イルゼン様はひどく険しい顔つきになった。黒い手袋をした手で口元を覆う。
「そんな、泣きそうな顔で言われても困るな」
「私、泣きそうに見えますか?」
「ああ」
確かに、目元が熱かった。だってもう戻れないあの頃が記憶の中で鮮明だから。私が数学を少し勉強してるだけで、イルゼン様は偉いと褒めてくれた。私は可哀想な存在ではなく、ただの御者の娘で、言葉を交わせるだけで幸せだった。
「泣くな」
そう言いながら、かなり無理してイルゼン様は笑ってくれた。口元を横に伸ばし、くっと頷き、徐々に本物の笑顔らしくなる。私のための笑顔だ。
私は応えるように笑おうとした。だけど我慢する暇もなく、頬に涙が伝う。
「ラウラ」
彼に名前を呼ばれるのは、特別な喜びがある。彼が私を認識して、何事かを伝えたがって、その声帯を震わせ、唇を動かす一連の動き。私は喜びに酔ってイルゼン様を見つめた。
そっと彼の手が持ち上がり、私の頭を撫でた。ひんやりした革の手袋の感触が、髪の毛越しに伝わった。頭頂部から滑り降ち、また撫でる動きは慈愛と言って差し支えない。なんて優しいんだろう。このひと時が、永遠であれ――
私はうっとりしたけれど、よく見るとイルゼン様は緊張したように震えた息を吐く。
「ラウラは私が好きなのか?」
どうしてそんなこと訊くのだろう。私は何も言えず、つい喉だけに力が入って音が鳴った。
私の気持ちなんて、この屋敷のほとんどの人が知っているし、張本人のイルゼン様が知らないはずがない。
鬱陶しいからそんなもの捨てろという意味なのか、万に一つの可能性で、仕方ないから愛人にしてやるという意味なのか。いや、高潔なイルゼン様に限ってそれはなさそう。
じゃあやっぱり、やめろと言われているんだ。喜びに浸っていたのに、胃に氷が放り込まれたみたいに痛くなった。
優しく頭を撫でておいて、そんなひどいことを言うの?いくらなんでも弄びすぎでは?
「私が知っていることを全て告白したら、きっと気持ちが変わるだろう」
一瞬意味がわからず、私は何度かイルゼン様の発言を頭の中で繰り返した。
「ど、どういう意味ですか?」
どもってしまうし、結局わからなかった。イルゼン様が知っていることが何なのか、まるで予想がつかない。イルゼン様はまた、震える息を吐いた。厚い胸板が上下する。
「あの事故について、真相を知らないままの方が良いと思っていた」