イルゼンの治療
まずは手の治療だ。差し出されたイルゼン様の黒ずんだ両手に、私の手をかざす。光魔法の淡く柔らかい輝きが、ランプだけの仄暗い部屋に広がった。
この部分の瘴気による侵食はそれほど酷くなく、すぐに手の強張りと黒ずみが取れ、滑らかに動くようになった。イルゼン様は夜着の前側の紐を解き始める。
最低だが、私は興奮を隠してそれを眺めていた。いつも隠されているイルゼン様の生の手が、目の前で優雅に動いている。指が長くて、爪がきれいで、それでいて男性って感じの骨太の手だ。
そしてイルゼン様が勢いよく服を脱ぎ、上裸を晒すと、鍛え上げられた胸筋や腹筋が目に飛び込んでくる。これはやっぱり、無感情でいることは難しい。表情だけは自制しているが、心の中は大騒ぎである。
しなやかに筋肉を動かし、イルゼン様はベッドに横たわった。
引き締まった腹部は瘴気に侵され、インクに染まったかのように黒ずんで痛ましい。この様子を見ないと私の光魔法は発動しない。手をかざして心を込めて、私は祈った。早くこの苦しみから解放されるようにと。やがて瘴気による影響がじわじわと溶けるように消え失せ、本来の美しさが現れた。きめの細かい、滑らかな白い肌だ。
本当にイルゼン様はどこもかしこも美しい人で、このままぎゅっと抱きしめられたいと願ってしまう。
「いつもすまないな」
私の感嘆のため息を、疲労によるものと思ったのかイルゼン様は労いの言葉をかけてくれた。舞台の幕が閉じるように、紺色の夜着で魅惑の筋肉たちが隠される。
「い、いえ、全然大したことではありません。お役に立ててうれしいだけです」
私はきちんと神殿に行って修行をしていないし、治療中に不純なことを考えていて罰が当たってもおかしくないけれど、聖なる力と言われている光魔法を使うには困らない。
本当のところ、もっと素早く治療は済ませられるのだがわざとゆっくり――丁寧にやっているくらいだ。
「ラウラは心が優しいから光魔法が使えるんだろうな」
「たまたまです。運命のいたずらでしょう。両親は全く魔法の才能がありませんし」
魔法は生まれついての才能で扱うもので、しかも使える属性はひとつと決まっている。私は光属性だし、イルゼン様は氷属性。かなりの確率で遺伝するものなのだが、生前のお父さんも、田舎に行ってしまったお母さんもわからないと言うばかりだ。きっと遠い祖先に才能があって、隔世遺伝で覚醒したと思うことにしている。
「そこが不思議な点ではある。テオが完治したのもそうだ」
ちらりと横目で私を見て、すぐに逸らすイルゼン様は何かを怪しんでいるようだ。そう、黒屍病は世間一般では不治の病とされている。もう2年も治療せずとも元気なテオ様は恐らく完治しているが、なぜ治ったのかは私でもわからない。
「心を込めて治療しただけです。イルゼン様には特に心を込めてますから、早くに完治されるでしょう」
「心を込めて、か……」
励ましたつもりだが、やや不満そうにイルゼン様は呟いた。
治療が終わり、私はすごすごと与えられている自室へと戻る。
テオ様は6年がかりで黒屍病を完治されたけれど、体の成長と共に私の治癒力が向上した感覚があるので、イルゼン様はもっと早く完治するだろう。でもそうなったら、私の役目は終わりなのだ。
手を抜いているつもりはないけれど、やっぱり心のどこかで終わりたくないと思っているかもしれない。聡明なイルゼン様は勘付かれて、あの反応だったのかも。反省して、私はベッドに潜り込んだ。
それからしばらくは穏やかな日々が続いた。毎日イルゼン様がお好きなフレウィンという農園の紅茶を淹れて、執務室で一緒に仕事に取りかかる。
ドミヌティア侯爵領は広大なため、代理執行を任せた各地の領主からの報告書だけでも膨大である。また、所有するいくつもの鉱山や、貿易事業の管理もある。
私はバリバリその補佐をやっている――と言いたいのだけれど、任されているのは別の仕事だ。
私が専属侍女になってすぐ、イルゼン様は外貨を増やすように命じた。
私たちの住むフォーブライト国のある中央大陸は現在、瘴気による被害で徐々に住める地域が減っている。いずれ大陸を出る必要があるかもしれない。
だから、豊富な財産の一部を海の向こうの通貨に変えておこうというのが、先見の明に優れたイルゼン様のお考えだ。
10億バトラという途方もない金貨を9億シュリーブルという海外の金貨に変え、そこからは様々な国の通貨が安いときに買い、高いときに売ってコツコツ増やしてきた。
一見簡単なお仕事だが、始めは当然ながら読みが当たらず、上手くいかなかった。売り買いは、品物のように金貨や銀貨を船に乗せて、現地の港で両替をする。そこまで値動きは激しくないが、やはり未来を予想して船を出さなくてはいけない。
2割まで減らしても問題ないなんて恐ろしいことを言うイルゼン様に慰められながら、なんとか元本の2倍まで来ている。なお、私の月のお給金は5千バトラなのでそんなに目減りさせたら一生かかっても返せない。
自分なりに値動きの統計を取ったり、情報収集したりと努力した結果だ。
私とイルゼン様がペンを走らせる音、書類をめくる音だけの静かな時間が流れていく。
集中して計算している最中、ノックの音がした。応対するのは私の役目なので返事をすると、古株メイドのシーラだった。私に用事があるようで、多くの人と同じく、同情的な目をしていた。
「マラデニア様が至急来るようにおっしゃっています。それと……エニシャ様がいらしています」
私はうんざりしながら、シーラに微笑んだ。私に良くない知らせをするのは心苦しいようだが、彼女は何も悪くない。
マラデニア様とは先代侯爵夫人で、イルゼン様の母君だ。イルゼン様が結婚されないので、今も女主人として邸宅内のことを取り仕切っている。そして私を嫌っている。
エニシャ様とマラデニア様は、私を仮想敵とすることで仲睦まじく、本当の親子のように過ごしてきた。
間違いなく私に何らかの言いがかりをつけるための呼び出しで、すごく面倒だが、マラデニア様に至急と呼ばれて断るわけにもいかないだろう。
そのとき、イルゼン様が椅子から立ち上がる音がした。
「私も一緒に行こう」
イルゼン様と共にサロンに入ると、豪華なドレスを着たエニシャ様とマラデニア様が予期していたように微笑んで迎えた。
イルゼン様を呼べば断られるが、私を呼び出せばイルゼン様が来るといつの間にか学習されてしまったのだ。
「よく来たわねイルゼン、休憩なさい。あまり根を詰めてはいけないわ」
マラデニア様はゆったりと羽飾りのついた扇を動かし、息子に対しての甘い声で言う。呼び出した私には一瞥もくれないし、席もないのである。