帰り道
イルゼン様は悩ましくこめかみに指を当てる。
「休憩室で待っていた君を、エニシャが噴水まで引っ張っていって突き落としたのか?」
「いえ、まさか」
「では何があったんだ。本当のことを言え」
「……休憩室で水をかけられただけです」
眉をきつく寄せたイルゼン様は上着を脱ぎ、私の肩にかけた。
「風邪をひく。帰ろう」
「お話はもうよろしいのですか?」
「ああ」
「この上着、濡れてしまいますが借りてよろしいのですか?」
「わざわざ訊くな」
「……ありがとうございます」
私はイルゼン様のぬくもりが残る上着の前をかき寄せた。
イルゼン様は氷魔法が得意な一族であること、あの事故以来すっかり笑顔を失くされてしまったことで氷の侯爵だなんて陰で呼ばれているけれど、本当はすごく温かくて優しい人だ。
「いつも迷惑をかけて悪いな。エニシャとはもうすぐ婚約を破棄できるから。今夜は、使える情報を手に入れた」
歩きながらイルゼン様が小声で伝えてくるので、私は少し嬉しくなって何度も頷く。先代侯爵様亡き後、イルゼン様は何度も婚約の解消を求めていた。しかしエニシャ様やシノール家が受け入れないため泥沼化していたが、破棄できる条件を手に入れたなら何よりだ。
「私のことなど大したことではありませんが、イルゼン様は大変そうでしたから、早く解決できるといいですね」
イルゼン様は声が掠れたような、不思議な咳払いをした。
「私が婚約破棄したら、ラウラは……」
何か言いかけているイルゼン様は、唐突に振り向いた。夜会という紳士淑女の場で、人混みをすり抜けて走ってくる誰かがいた。
「ラウラ!ここにいたんだ」
それは、癖のある銀髪を乱したテオ様だった。反りが全く合わない異母兄弟は、私を間に挟んで睨み合った。
「あれ?何その格好、しかも髪が濡れてるじゃないか。誰かさんの婚約者が水をかけてきたから、上着を借りてるのかな?」
そう名推理をするテオ様だけれど、彼は彼で女性ものの香水の移り香がした。どこかの令嬢と濃密な時間を過ごしてきたようだ。
すっかり成長したテオ様はあちこち出歩くようになり、妖艶な美貌で女性たちをつまみ食いしているという噂だ。
私と同じく、香水に気づいたイルゼン様は眉を顰めた。
「色々あったんだ。私たちは先に帰る」
「じゃあ僕も一緒に帰ろうかな。どうせ行き着く先は同じなんだし」
テオ様が軽い足取りで私たちの前を歩くと、イルゼン様はなぜかその背中を睨みつける。行きは別々の2台の馬車で来たのに帰りは1台となるなら、最初から一緒に乗れば良かったのにという意味だろう。
向かい合うように座席が置かれた馬車内で、テオ様は私のすぐ隣に座った。私の正面に、ぴしっと姿勢よく座るのはイルゼン様だ。強い体幹をお持ちなので、馬車が揺れてもびくともしない。
「ラウラ、寒くて震えてるじゃないか。かわいそうに」
「え、あの……」
テオ様が手慣れた動作で私の肩を抱き寄せるので、軟弱な体幹の私では抵抗できなかった。寄りかかる姿勢になってしまう。だらしない私に対して、イルゼン様が不快そうに目を細める。
「テオ様、お気遣いなく。私は丈夫にできております」
「凍えるラウラを放っておけないよ。温めてあげる」
「本当に結構です」
「ラウラは僕の恩人だからね、大切にするのは当然さ。恩人を大切にできない目の前の誰かさんなんて放っておけばいいよ」
一応、テオ様は温めてくれようとしているのだけど、私はゾクゾクとする激しい寒気を感じた。狭い空間に大人が3人もいるのに、どうしてこの馬車の中はこんなに寒いのだろう――まるでイルゼン様が無意識に氷魔法を発動させているようだ。
凍り付いた空気の中、イルゼン様が薄めの唇を開いた。
「テオ、ラウラが迷惑しているからやめろ」
「え、迷惑かなあ?」
二人が私の答えを待って、一瞬の沈黙が訪れた。だけど使用人である私が何かを決めていいはずはないので、急いでやんわりとした口上を考える。
「迷惑ではありません。ただ、さっきから寒気がするので、風邪かもしれません。テオ様に移してしまっては申し訳ないので、離れて頂けるとありがたいです」
「うーん、そっか」
テオ様が座り直し、私との間にひとり分くらいの距離を空けた。そうすると、ようやく馬車内の空気が温まり始めた。
「ラウラは屋敷に着いたらすぐ入浴をするように」
「はい、わかりました」
反論の余地もないことをイルゼン様に命ぜられ、私は神妙に返事をした。だけど、今日は治療の必要はないのかなとイルゼン様をちらちら盗み見る。
瘴気はやはり昼間より夜の方がひどくなる。馬車の隙間から忍び寄る瘴気は、じわじわとイルゼン様に向かっていた。彼は言いたくなさそうに、それでもよく通る声で私に命じた。
「その後でいいから、私の治療を頼む」
「はい」
私の声は無駄に大きくなってしまった。イルゼン様は厭わしく思っているだろうし、病で苦しむ人に申し訳ないけれど、私は治療を頼まれると嬉しくなってしまう。
「ラウラ?寒いはずなのに顔が赤いよ?本当に風邪ひいちゃう」
鋭いテオ様が御者に合図し、馬車の速度は猛然と上がった。罪悪感で身を縮めながら、私は到着を待った。
無事に着いてからは急いで入浴して体を温め、私はイルゼン様の私室へと向かった。
「イルゼン様、ラウラです」
「ああ、入っていい」
イルゼン様も入浴を済ませたらしく、紺色の寝衣を身に纏っていた。一方で私は替えの分厚い生地の従者服を着こんでいる。
イルゼン様の治療は夜になることが多く、服装は何でもいいと以前おっしゃっていた。だけど、私は寝衣を見せることに抵抗があり、何となくかっちりした格好をあえて選んでいる。
でもある日私が突然、肌が透けるネグリジェで訪れたら冷静沈着なイルゼン様はどうするんだろう。やっぱり真顔で受け流しそうだ。すごくはっきり想像できてしまう。
「じゃあ、頼む」
「はい」
いつものように、イルゼン様はお硬い表情でベッドの端に座る。私はその横に用意された座り心地のいい椅子にかけた。