18歳の秋
いつもと変わらないはずだったある日、御者を務めるお父さんは馬車に乗る侯爵様を巻き込んで事故を起こした。首都にある一番大きな橋、メシュダウという橋で馬を暴れさせ、馬車ごと川に転落したという。お父さんと侯爵様の二人は助からなかった。
伝えられる情報は錯綜し、混乱と悲しみの中、私と母は怯えていた。
使用人が貴族の主人を害した場合、一家揃って処罰されるのはこの国では普通なのだ。ましてドミヌティア侯爵という大貴族である。父の葬儀すらできずに処刑されるかもと何も手につかず、ただ泣き濡れていた。母はそのうち泣き疲れ、気を失うように眠ってしまった。だけど真夜中に、ランプもついていないうら寂しい御者の家に、イルゼン様は突然訪れた。
私が小さなランプをつけて慌てて迎えると、イルゼン様は苦悩を吐露するように、低い声で教えてくれた。
「今回の件は誰かが意図的に起こした可能性がある。なぜなら、石造りの橋の欄干が馬がぶつかるだけで壊れたんだ」
「そんな……」
「狙われたのは、私の父上だ。ラウラたちを巻き込んで本当に申し訳ないが、これ以上余計な被害が行かないよう母君と遠くの領地に向かってほしい」
そう言って金貨の入った袋と、何かの書簡を私に手渡してくれたけれど、私の頬を涙が伝った。最初の知らせがあってから悲しみの器はずっと満杯になっていて、少し優しくされただけで溢れてしまうのだ。
「ラウラ」
イルゼン様もきっと失意の底にあったのだろう。彼もまた、父を亡くしたばかりだ。イルゼン様は私を強く抱きしめた。
それまでほんの僅かにも体が触れたことはなかったのに、存在を確かめるような抱擁だった。冷たい夜風を含んだイルゼン様の服に頬を寄せ、私はしばらく泣いた。
しかし翌朝の出発直前、見送りに来てくれたイルゼン様に黒屍病の兆候が現れた。私は母だけを田舎の領地に送り出し、ドミヌティア侯爵邸に残ることにした。
私には光魔法があるのだからどうか傍に置いてほしいと懇願し、私は専属侍女に任命された。なお、専属侍女とは先代侯爵様が作り出した、お気に入りの女性を侍らせるための役職である。人々の目を、イルゼン様の病気から逸らさせるには丁度よかった。
それから半年が過ぎた。
煌びやかな夜会の最中、休憩室にいる私は5人もの着飾った令嬢たちに囲まれていた。
「この女狐!いつまでイルゼン様に付きまとうの!?」
顔に冷たい衝撃がかかり、グラスの水をかけられたのだと把握した。ポタポタと落ちる水滴が、足元の絨毯に吸い込まれる。まあ、水だからまだ良かった。赤ワインだと面倒そうだから。
私に水をかけたのはイルゼン様の婚約者、エニシャ様だ。彼女は波打つプラチナブロンドの髪と、緑の瞳を持ち、微笑んでいれば美しい人だ。
だけど今は怒りに顔を歪め、空のグラスを持つ手は小刻みに震えていた。
「恐れ入りますが、私はイルゼン様の御命令により同行しているのです」
「発言していいと許可した覚えはないわ!」
「申し訳ございません」
疑問文だったので答えるべきと思ったのだけれど、正解はエニシャ様の気分次第だ。彼女は使用人界隈で評判の悪い、シノール侯爵家令嬢なのである。
「そうよ、いやしい平民風情が調子に乗らないで。大体、イルゼン様に同行を命ぜられたと言っても、あなたはドレスも着せてもらえずに男装なんて恥ずかしい格好をしているじゃない」
取り巻きのひとりが私の服装をバカにした。
私が着ているのは、貴族の男性従者としては一般的なフロックコートにパンツのスタイルだ。これでも以前は慎ましいデザインのドレスだったのだが、彼女たちの誰かが足を引っ掛けたりスカートを切り裂いたりしたため、イルゼン様が仕立て屋に命じて作らせた丈夫で動きやすい特注品となったのである。しかし、このことを説明する権利はないようだ。
黙っていると、取り巻きのひとりが羽のついた扇子で私の頬をつつく。
「罪人の娘のくせに、よく表を歩けたものよね」
大抵のことには耐えられるけど、その一言には胸をえぐられた。お父さんが馬車の事故を起こし、先代の侯爵を落命させたことは貴族なら誰もが知る話となった。
思わず俯くとエニシャ様に扇子で強引に顎を上げさせられる。貴族令嬢というのは、妙に扇子の扱いが上手いのだ。そしてばっちり化粧をしたエニシャ様の顔が眼前に迫った。
「あなたなんて、赤毛に金色の瞳だから珍しがられて遊ばれているだけよ……元はテオ様の慰みものだったくせに、イルゼン様が侯爵になったからと擦り寄って、情けをもらってるんでしょ?」
これは流石に言い返したくなった。誤解にもほどがある。
エニシャ様は10年前からイルゼン様の婚約者だけれど、黒屍病のことは伏せられているから、こんな下品な勘繰りをするのだろう。
「違います」
「口答えしないで」
再び、水がかけられた。取り巻きが水差しを持ってきたのでそれを思いっきり全部だ。良くやるなあと思うし、服の中までびしょびしょになって気持ち悪かった。
「あなたみたいなのがいるから、イルゼン様がいつまでも私と結婚してくださらないの。私はもう19歳なのよ!」
人に水をかけておいて、エニシャ様が半泣きでわめいた。貴族女性は20歳より前に結婚しないと行き遅れとされるが、私に言われてもどうしようもない。
イルゼン様が結婚しないのは決して私のせいではない。
先代侯爵が健在していた10年前に、彼女と婚約したイルゼン様だが、結婚はアカデミーを卒業してからだと先延ばしにしていた。
そうしているうちに先代侯爵様が亡くなってしまったのでしばらく喪に服すといい、今は政務で多忙であるとしている。実際のところ、結婚しないのはイルゼン様が黒屍病を患っているからと思われる。
夫婦になってしまえば病を隠し続けるのは難しいが、差別主義のエニシャ様が受け入れるとは考えられないから、嫌なんだろうな。
「何よ!泣きもしないで!もうあなたの顔なんて見たくもないわ!早く消えなさい」
なんて考えていたら、エニシャ様が苛立って私を追い立てた。びしょ濡れのままの私が廊下に出ると、通りがかりの令嬢がギョッとした目つきで距離を取る。
「大丈夫?」
「あっ、ありがとうございます」
すぐにこの辺りの世話を任されているメイドがやって来てタオルを借してくれる。メイドは私と同じような身分なので、同情的だった。彼女は私を拭きながらこの世の終わりのような困り顔をした。
「そのお部屋、ドミヌティア侯爵様が使うと言われたお部屋でしたのに、困りましたね」
「そうですね、ここで待てと言われたのですが……」
本来なら、私はイルゼン様をこの休憩室で待たなければならない。しかしエニシャ様たちに取られてしまった形である。
「侯爵様がお話されているお部屋の近くで待つことにします。ありがとうございました」
応急処置を済ませた私はイルゼン様がいるはずの部屋の前まで行ったけれど、すぐに踵を返した。
扉の向こうからは、盛り上がっている男性たちの低い笑い声が聞こえていた。ガフェリー伯爵家で開かれる夜会には、イルゼン様と歳の近い貴族たちが集まり、政治やこの国の行く末を話しているという。私には具体的な想像もできない高尚な世界だ。
このままここで待ち、濡れ鼠のみっともない姿でイルゼン様を迎えるのが嫌になった私は、夜風で髪が乾くことを期待して庭園に向かった。空いているベンチに座り、目を閉じてじっと乾くのを待つ。秋の夜は底冷えして、歯の根がカチカチと鳴った。寒いとほんとに眠くなるんだ。
「ラウラ」
うとうとしていると、イルゼン様の声が聞こえた。驚いて目を開ければ、イルゼン様が大股でやって来るところだった。暗い中でも、イルゼン様は光って見えた。髪が金色で色白だからかもしれない。
「何をしているんだ?」
ふと懐かしい記憶が蘇った。私が5歳のとき、初めてイルゼン様が声をかけてくれたときとよく似ていた。
幼い私が馬の放牧場の片隅で、積み上げた干し草をベッド代わりに寝ていたら、やはり幼いイルゼン様が、少年らしい好奇心で覗き込んでいた。
遠くから憧れて眺めていただけの侯爵家のお坊ちゃまが間近にいて、青い瞳は澄みきっていて、私は何の覚悟もなく彼を好きになった。それからずっと苦しい思いをするなんて当然ながら知らなかったのだ。
「どうして濡れているんだ?」
私が答えられないでいると、イルゼン様は私の濡れている髪や衣服に気づいてしまった。
「ええと、ふ、噴水に落ちたのです」
口止めされている私は、苦しい言い訳をする。休憩室を出るときに、エニシャ様の取り巻きに言われたのだ。イルゼン様に告げ口したら、もっとひどいことをするとか何とか。