15歳の秋
青空に浮かぶ雲が遥か高くなり、庭に植えられたリンゴの木が色づき始めた秋だった。
出かけようとした私を後ろからお母さんが呼び止めた。
「ラウラ、待ちなさい。本邸のテオお坊ちゃまのところに行くのよね?」
「そうだけど?」
私に本邸からの呼び出しがあり、急いで出かけるところなのだ。お母さんは深緑色の外出着の私をじろじろと観察した。私も改めてスカートにシワはないし、靴も汚れていないと再確認する。深緑は赤毛の私に似合っているし、御者の娘の恰好としてはまあこんなものかなと思う。でもお母さんは不満そうに鼻を鳴らした。
「今日はイルゼンお坊ちゃまがアカデミーから帰宅している日でしょう?この間仕立てたかわいいドレスは着ていかないの?」
「いいから、放っといて」
イルゼン様の名が出たことで私はカッとなった。だって普段はこんな感じなのに、イルゼン様が帰っているときだけ着飾ったら変じゃない。太り気味の母を押しのけ、御者家族に与えられている簡素な家の玄関を飛び出した。
馬がのんびり草を食べている放牧地を通り、整備された侯爵家の庭を抜け、本邸までの長い道のりを歩く。全てドミヌティア侯爵邸の敷地だ。10歳の頃から15歳の今まで通い続けた道だけれど、背が伸びてもまだまだ遠い。
お父さんは馬車を操る御者としてこのドミヌティア公爵家に雇われているけれど、私のようなものに馬車は許されていないから困ってしまう。
やっと見えてきた巨大な侯爵邸を回り込み、使用人が使う裏口から中に入る。廊下もまた使用人用となっているので、薄暗く狭かった。まだ小柄な私でも、メイドの人とすれ違うので精一杯だ。使用人用廊下から、赤い絨毯が敷かれた侯爵家の方々が使う廊下に出て目的の部屋へと向かう。
「テオ様、具合はいかがですか?ラウラが治療に参りました。開けてよろしいですか?」
この部屋の扉は特別に分厚く、それなりに力を込めてノックしなくちゃいけないし、声も張り上げなきゃいけない。上品にするやり方がいつもわからなかった。
中にいるはずのテオ様の声が微かにした。それを了承として、私はドアを開ける。
「あっ、待ってってば」
テオ様は天蓋付きのベッドにいくつもの本を広げていた。癖のある銀色の髪が、更にくしゃくしゃに乱れている。
「治療はすぐに終わりますから、寝起きでもいいですよ。それ、何の本ですか?」
「何って……」
私がベッドに近づくと、テオ様が慌てて片付けようとして、本をベッド下に落とす。拾い上げようとした私は、開いている本の中身が見えてしまった。
胸の大きな裸の女性が、たくましい裸の男性と何かしている線画だ。
「いやらしい本ですね」
「だから待てって言っただろう!見るんじゃない!」
本を閉じ、テオ様に差し出すと彼は顔を真っ赤にして怒っていた。私のふたつ下、13歳のテオ様はこういうものに興味が出てくるお年頃なんだろう。
私も気恥ずかしさから、いつもより真面目くさった態度になる。
「申し訳ございません。それでは治療を開始しますので、お手を」
「ああ」
テオ様の手は真っ黒に染まり、強張っていた。この大陸中に蔓延する、瘴気と呼ばれる悪い空気の影響によるものだ。植物や動物への影響が主で人間にはあまり影響しないが、彼のように黒屍病と呼ばれる人はそうではない。ある日発作を起こしてからは、どんなに窓を閉め切っても、扉を分厚くしても、いつの間にか吸収し、このようになってしまう。私が生まれるずっと前、50年前の大地震から地割れが起こり、そこから瘴気は溢れ続けているという話だ。
手をかざし、集中すると私の手から淡い光が放出された。私は希少な光魔法使いだ。10歳のとき、乗馬の練習中に発作を起こして苦しみだしたテオ様がかわいそうで、何とか治療したいと思ったときに覚醒した。
本来なら光魔法が使える者は神殿に行くことになるのだが、テオ様の体質を隠すためにそのまま専任の治療師になった。一見できすぎた話だが、侯爵様に脅されたのだ。
『命が惜しかったら、お前の能力とテオの病気について、一切他言してはならない』と。つまり正義感で無理して神殿に行こうものなら、殺されてしまうかもしれないのだ。怯えた私は大人しく従っている。
「……治療終わったら、そこにある本持っていっていいから。ラウラが好きな数学の本」
銀色の睫毛を伏せ、安心したように治療を受けながらテオ様は顎でベッド横に積み上げられた本を示した。
「ありがとうございます」
罪悪感からか、テオ様は私に勉強を教えてくれるようになった。私なんかの同情はいらないだろうけど、彼はかわいそうな境遇にある。
ドミヌティア侯爵家でテオ様が養育されるようになったのは、彼が8歳のときだ。それまでは別邸で囲われている侯爵様の愛人の子として、母子ふたりのびのびしていたらしい。しかし侯爵様はたったひとりの跡継ぎであるイルゼン様が全寮制アカデミーに行って不安になったせいなのか、無理にテオ様を連れてきた。そして厳しい教育を始めたのだが、その強い精神的負荷により黒屍病になってしまったと噂されている。
「そういえば、もうすぐテオ様の誕生日ですね」
昔のことを思い出していた私は、テオ様は秋生まれだったなと話を振る。魅惑的な紫色の瞳を瞬かせ、彼は微笑んだ。愛人の方に似たのだろう、仕草がとても色っぽいときがある。
「覚えていてくれたんだ。僕、ラウラからプレゼントが欲しいな」
「私がですか?私があげられるものならまあいいですけど……」
テオ様の方が何でも持ってるのに、と私は疑問だった。部屋には高級品が溢れているし、これ以上何か必要なものがあるんだろうか。
「キスして」
私は固まった。どう反応していいのか、全然わからない。テオ様はおねだりするように、まだ中性的な美貌で小首をかしげた。
「よく物語とかで、お姫様が祝福のキスするよね。こんな手をかざすだけの治療よりラウラが僕にキスしてくれたら、もっと良くなる気がするんだ」
「い、嫌です」
私はお姫様でもなんでもないし、テオ様を、勝手ながら弟のように思っている。そういうことに興味が出てきたとはいえ、キスしてなんて軽々しく言わないで欲しい。
「さっき、あげられるものなら何でもいいって言ってくれたのに?」
「キスはものじゃないんです。お互いの想いが通じ合ったときに発生するロマンスというか」
「僕はラウラが好きだよ。かわいいし。ラウラも僕が好きだよね?」
指を絡めるように握られて、私は戸惑うしかなかった。私もテオ様を好きだと思っているけれど、そういう好きじゃない。
テオ様は瞳を潤ませ、顔をわずかに近づけた。
どうしよう、好きだといったら了承になるし、好きじゃないといえば傷つけてしまう。寂しくてこんなことを言っているんだろうか。
「……ダメか。残念だな」
そう薄く笑い、テオ様はパッと手を離す。それきり黙ってしまったから、すごく居づらかった。
「じゃあまた、症状が出たら呼んでください」
治療を終えた私はそそくさとベッド横の本を小脇に抱え、長居せずに部屋から逃げ出した。
「わっ」
部屋を出ると彼がいた。イルゼン様だ。長身の彼を見上げるとさらさらの輝く金髪と、睨むような鋭い青い瞳。私は慌てて頭を下げた。テオ様の部屋とイルゼン様の部屋は隣同士だから会ってしまうのは仕方ないけれど、あと少しでぶつかるところだった。
「申し訳ございません」
「テオを治療していたのか?」
「は、はい」
半年ぶりに会えた18歳のイルゼン様はまた背が伸びていた。とても大人っぽくて、苦しいくらいに胸が高鳴ってしまう。私はできるだけ慎ましく見えるよう、小脇に抱えた本を両手で持ち直し、視線を下げる。
「君にはいつも迷惑をかけるな。疲れるだろう」
「いいえ、とんでもございません。お世話になっている侯爵家の方々のお役に立てて光栄です」
私がテオ様の治療をしていることを、跡継ぎであるイルゼン様は当然知っている。イルゼン様はふむ、というような息遣いをした。失礼に当たるため私は顔を上げられない。
「その本は?」
「こ、これは、テオ様が注釈を書き込んで貸して下さっているのです。人に教えるつもりで勉強するとよく身に着くからと……」
私が持っていた本は、どれも高価なものらしいし、高等教育に当たるものだ。盗んだと思われているのかもと、私は必死に説明した。
「結構難しい数学だろう、わかるのか?」
「一応、わかっているつもりです」
「わかっているなら偉い。よくがんばっているな」
信じられないことに、イルゼン様が私を褒めてくれた。思わず顔を上げると、眩しい笑顔がそこにある。御者の娘が数学なんて覚えて何の役に立つのかと馬鹿にするものではなく、穏やかで、親しみのこもった微笑みだ。頬が熱くて、私は小さな声でお礼を言いながら俯いた。
やがてイルゼン様は自分の部屋へと戻っていき、私はその後ろ姿を食い入るように見つめた。
叶わぬものと知りながら、私は彼に想いを寄せていた。いくら光魔法が使えるといっても私はただの御者の娘で、彼はドミヌティア侯爵家の正式な長男なのだ。
3年後、お父さんが事故を起こすまでこの関係は続いた。