7.女/真っ赤な林檎
昨日雪が降った。今日は雪は降っていないけれど、曇り空で気温も低いのでうっすら積もった雪が溶けずに残っていた。
そんな雪と草地が入り混じった小高い丘を登っていた。
とても気まずい事に、旦那様の護衛付きで。
今日は農夫から林檎の収穫を手伝って欲しいと言われた。でもまた私を危険な目に遭わせてしまってはと、まさかの旦那様が護衛をすると言い出したのだ。
あの襲撃事件以降、特に何も無く平和だった。だから平気だと思うのに、何故!?と思ってしまう。
それにそんなに心配なら収穫の手伝いを私じゃなく他の男性使用人に頼めば良いのに。まあ、皆忙しいのだろうけれど。
農夫の後について丘を登る私の後ろを歩く旦那様とルーイ。そこはいつもセットなんだな。
後ろからの視線を勝手に感じてしまう。私だって農夫の背中を見て登っているのだから普通の事なんだけれど、その視線が旦那様だと思うと緊張して体が強張ってしまう。
気もそぞろだったからか、雪で濡れた草に滑って転びそうになった。けれど地に着く寸前に腕を引っ張られた。
「気をつけろよ」
腕を取ってくれたのは旦那様だった。
「すみませんっ……」
何でも無い様に軽々と私の腕を掴んで支えてくれた。とても大きな手で私の腕を掴む力が強くてジンジンとした。立ち直した私の腕を離す時、ボソリと「まだ細いな」と言った。思わず顔がカッと熱くなった。
私、チェックされてる……?
家畜の豚にでもなった気分だ。太らそうとするなんて食用の家畜じゃないか。
それにそんな短期間で太りはしないだろう。
男性に体型をチェックされるなんて、恥ずかしい以外に何があるというのだろうか。
顔が赤いまま林檎の木までやって来た。林檎の木は何本かあり、それぞれの木に沢山の林檎がなっている。私の顔よりも赤い実は冬の少し寂しい景色の中、とても存在感があった。
さあ収穫をと農夫と作業に取り掛かろうとしていたら、「これは美味いな」と後ろから声が聞こえた。振り返れば旦那様が林檎をもぎ取った様でかじって食べていた。それにつられてルーイまでも林檎をもぎ取って服で適当に林檎の表面を拭くとかじりついた。二人して美味い美味いと連呼していた。
この二人は林檎が食べたくて来たのだろうかと思ってしまった。
啞然と見ていたら旦那様がまた一つもぎ取って、それを私に差し出してきた。
「食ってみろ」
驚いて固まってしまった。使用人からしたら邸で育て管理している作物は旦那様の物であり、収穫時に勝手に口にするのは許されないだろう。農夫なら出来を確認する為に味見するのはありそうだけれど、私は駄目だと思う。なのに、旦那様直々に食べろと言う。
どうしたら良いか戸惑ってしまい農夫の方をチラリと見た。そうしたら苦笑いしながら頷いたので、旦那様の善意はきちんと受け取るべきなのだろうと恐る恐る手を伸ばして林檎を受け取った。血の赤はあんなにも怖いのに、林檎の赤は平気だった。
受け取った林檎を前掛けで拭いて、林檎をかじってみた。固くて歯が滑ってしまったけれど、どうにかかじりつくと中から汁がジュワリと出て来て、その瑞々しさと甘みと少しの酸味がとても美味しいと感じた。旦那様はそんな私を見て満足そうな顔をした。やっぱり旦那様は私を太らせようとしているらしい。
旦那様は農夫にも林檎を薦めて、皆で味見をした。でも私には林檎一個はちょっと多く、食べ切るのに時間は掛かるしお腹も苦しくなってしまった。何とか食べ終わって農夫の収穫の手伝いをする。すると今度は旦那様が「これも収穫するのか?」と聞いてきて、隣の木の林檎をもぎ取った。どうやら護衛だけでなく収穫も手伝う気のようだ。
「食べ頃の林檎を持って来た籠に入るだけ収穫します」
農夫の言葉に「分かった」と言って籠を一つ手に取った。さっきもぎ取った林檎を入れるのかと思いきや、またかじりついた。私と農夫は思わず「えっ」と言ってしまった。
旦那様はそんな私と農夫の様子に気付く事無く、食べ終わった林檎の芯をその辺にポイっと捨てると、また林檎を一個もぎ取った。今度こそ籠に入れるのかと思いきや、またかじりついた。
農夫と作業の手も止まり、啞然と旦那様を見つめてしまった。
「ジェス様。貴方はここへ林檎を食べに来たのですか?」
ルーイだけ冷静に旦那様にツッコミを入れている。
「あ……。いや、美味かったから。つい」
旦那様は三つ目を食べ終えまた芯をポイっと捨てると、やっと収穫をしてくれた。でもまだ色が薄い林檎を取ろうとしてルーイに「それまだです!」と注意されたり、収穫に夢中になり過ぎて籠の中の林檎をぼろぼろと落としてしまってルーイに怒られたりと、とても賑やかなコンビだった。それを見て農夫が吹き出して笑うものだから、私までつられて少し笑ってしまった。
その様子を旦那様がしっかり見ていたのに気が付いて、怒られると思い慌てて口を引き結んだ。
「ジェス様はこういう事には本当に不器用なんですから」
ルーイの嘆きの様な言葉に、旦那様は少し顔を赤らめて笑った。
笑ったのだ。
驚いた。怒られると思ったのに。邸の主人の事を笑ってしまったのに、使用人の私を怒らず、笑ったのだ。
うねる癖毛の下の鋭い目を細めて、口を僅かに開けて、はにかむような笑いだった。
急に息苦しくなった。旦那様を見ていられなくなって目の前の作業に集中した。私の仕事はこれなんだと自分に言い聞かせながら手を動かした。
旦那様とルーイが手伝ってくれたお陰で林檎の収穫は早々に終わった。皆で手分けして林檎が入った籠を持った。二人がいるから私は持たなくて済んでしまった。これもトレーニングになるからと持たせて貰えなかった。
林檎を持って丘を下る。私だけ手ぶら。
護衛が林檎を持っていてどうするのだろうと若干の疑問を持ちつつ、私の様な身分では言われた通りにするしか無い。
でも旦那様とルーイが会話をしながら下っていたせいか注意が足りなかった様で、旦那様が木の枝で頬を切ってしまった。
旦那様の顔から血が流れた。
「貴方は本当に何しに来られたんですか。林檎食べて林檎を落として、最後には怪我までして」
ルーイが呆れたように言う。
でも私は真っ赤な血に呼吸が速くなった。林檎の赤は大丈夫なのに、この赤はどうしたって怖い。
「ジェス様は先に部屋にお戻りください。林檎は私が運びますから。ガブリエル」
「は、はい」
突然ルーイに声を掛けられビクリとする。
「ジェス様の部屋で怪我の手当てを」
「はい」
私に拒否権は無い。
「この位の傷、大した事無い」
「良いですから。結構出血しています。このままにしたら様々な物を血に染めてしまいそうなので」
「……分かった」
旦那様はルーイからハンカチを受け取って傷口に当て丘を下り、鉄柵の通用門を潜ると、渋々と林檎の入った籠をルーイに渡した。そして部屋の方に向かって歩き出したので、私はそれについて行った。旦那様の歩くスピードは速く、私はかけ足状態だった。
途中執事に出会ったので怪我の事を伝え、手当ての道具を貰って旦那様の部屋に行った。
先に部屋に着いていた旦那様は着ていた外套を脱ぎ、服を寛げていた。ルーイのハンカチを頬に当てながら、部屋に入って来た私を見ていたので目があった。その瞬間に手が震え出した。
手当ては何度かやっているのに、緊張した。だって、この部屋には二人しか居ない。ルーイも執事も居ないのだ。
緊張しながら旦那様に近付いた。道具箱をローテーブルの上に置き蓋を開けた。
よりによって、怪我をしたのは頬。腕より顔に近い。
「失礼します」と言って旦那様が押さえているハンカチを取る。ルーイが言っていた様に結構出血している。まだ血は止まらず、傷口から滲み出てくる。
手がずっと震えて止まりそうに無かった。血が怖いからか、常に太腿に巻いている短剣に意識がいってしまうからか。
チャンスだった。旦那様と二人っきり。
旦那様は手当てをして貰っている時、いつも窓の外を見ている事が多いから、隙を見て後ろに回り短剣を足から出して振りかざせば……
でも手が震えて仕方が無かった。手当てすら出来ない。そんな私に気が付いていそうなのに、旦那様は何も言わずに大人しく座って窓の外を見ている。
震える手でどうにか手当てを続けた。顔だから包帯は巻かない。テープで留めた。
手当てが終わるとやっと出来た事に安堵してしまった。もう短剣を手にする気持ちにはなれなかった。
道具箱の蓋を閉じて立ち上がり、数歩下がってから頭を下げた。そのまま部屋を出ようとした所で旦那様に声を掛けられた。
「いいのか?」
何がいいのか分からず、振り返って旦那様を見た。窓の外を見ていた旦那様がゆっくりと振り返って目が合った。
「俺に復讐しなくていいのか?」
一瞬、息が止まった。
癖毛の下の目が真っ直ぐ私を見ている。この部屋には私しか居ない。私に向かって言った筈だ。
何も言葉は出てこなかった。出せなかった。
後退ってから走って部屋を出た。その場から逃げた。でも怖くて足が震えて足が止まってしまって、階段の手摺りに掴まるとしゃがみ込んでしまった。
そんな私を見つけた執事が心配をして、「今日の仕事はもう良いから部屋で休みなさい」と言われ、私はその日部屋に閉じ籠った。