6.女/居心地が良い職場
「これは……」
私の目の前にはイノシシがいる。勿論生きてはいない。
「ガブリエルにはしっかり栄養を付けて貰います」
執事に厨房に来る様言われ来てみれば、イノシシがどどんと調理台の上に居るのだから驚きもするだろう。そして私に栄養を、とな?イノシシと執事を何度も往復して見てしまう。
「旦那様が先日ガブリエルを抱えた時にあまりにも軽くて食事量が足りないんじゃないかと心配しております。それで山で狩って来てくださいました」
訳の分からない私に執事が事情を説明してくれたけれど、もっと訳が分からない。
たかが使用人一人が軽いからと、イノシシ!?
たかが使用人一人が心配だからと、イノシシ!?
軽いと言われても、私はこの邸に来てからちゃんと食事を取らせて貰っているから寧ろ肉は付いたと思うのに。あんなに体の大きな人からしたら確かに私は小さいし細くて軽いだろう。
周りの使用人はイノシシに大喜びだ。勿論私一人で食べる訳では無いので、おこぼれに預かれる喜びなのだろう。それに旦那様も食べるだろうから、そんなに恐縮する必要は無いのかもしれない。執事もニコニコと「沢山食べましょう」と言っている。
でもどう反応したら良いのか分からなかった。
旦那様とルーイは先日の襲撃で弓矢が腕を掠めたので、二人の手当てをジャネットと行う事になった。
執事にイノシシの礼をと話したら、手当ての時に直接伝えても良いと言われてしまい、その日緊張しながら旦那様の部屋に行った。ジャネットはルーイの部屋に行くと言うので、彼女との別行動に少し心細さがあった。
部屋に入ると旦那様は慣れたものでシャツを脱いで手当ての準備万端だ。執事に促されて手を震わせながら深呼吸をした。
「あ、あの、旦那様。イノシシを、ありがとうございます」
言いながら頭を深く下げた。緊張で声も震えてしまった。
「ああ」
とても短い返答だった。
執事に肩を軽くぽんとされたので、下げていた頭をあげた。旦那様はいつもの様に大人しく座り、顔は窓の外を見ていた。窓の外は今日も曇り空。
手当てをする為に旦那様の側に寄り、包帯を解いていく。血は少しだけ滲んでいた。この腕で狩りをしてくれたのだろうか。狩りをしたから傷口が開いてしまったのだろうか。新しい布に薬を塗り、包帯を巻き直す。終わってからチラリと旦那様を見た。うねる癖毛の間から見える耳が、少し赤い気がした。
手当てが終わり頭を下げてから部屋を出た。
旦那様はもしかして私にお礼を言われ、照れていたのだろうか?
緊張とは少し違う、騒がしい心臓の音に一日落ち着かなかった。
それから度々旦那様が狩りをして来てくれる様になった。ある日は鴨、ある日は熊。ウサギの日もあった。お陰で近頃はジビエ料理のオンパレード。
「こんなにも賄いが充実してたら太ってしまう」
鴨肉の煮込みを食べながらジャネットが言う。
「これまでもたまに狩りをして来てくれた事はあったけど、こんなにも頻繁に食べられるのはガブリエルのお陰ね」
そうなのか。
でもそれをどう受け止めて良いのか、私には分からなかった。
一般的には良くして貰っているのだから有難いと感謝すべきなのだろう。けれど私はあの男に復讐したいのだ。こんな風に良くして貰うのは困る。
旦那様からしたらやっと新しい使用人が来たのだから辞めて欲しくないのだろうと思う。別にこの間襲撃に巻き込まれたからと、ここの使用人を辞めようとは思っていない。復讐がなされるまで辞めるつもりは無い。だからもう狩りをして来て貰わなくても良いのだ。寧ろ、止めて欲しい。
でも、他の使用人達はとても喜んでいる。それに旦那様だって食べている。私の為だけという訳では無いのだから、もう止めて欲しいと言うのは思い上がっている様ではないだろうか。
そんなこんなで私の心は複雑だった。
「狩猟に出掛けて危なくないのかな」
「慣れたものでしょ。狩猟大会とかもあるし、良い練習になってるんじゃない?」
「あ、いや……。そっちの危ないじゃなくて。ついこの間襲撃されたばかりなのに」
「ああ、そっち。まあ、旦那様は強いから。だから英雄にもなったんだし」
まあ、そうなのだろうけど。
「でも前も腕に怪我して帰って来てたよね?」
私がここに来たばかりの頃だ。ここ一年位襲撃は無かったと言っていたけれど、この邸では無いだけで、何処かで危険な目に遭っているのではないだろうか。
「前のは訓練で怪我をしただけでしょ?あんなのしょっちゅうよ。たまたま傷が深くて治るのに時間が掛かっただけ。普段軽い傷なら水洗いして放置よ」
そういうものなのか。確かに騎士なら訓練もあり怪我を負う可能性はある。
旦那様にとって怪我は当たり前なのだろうか。訓練でも怪我はするものなのだろうか。
父は怪我をして騎士を辞めたけれど、戦場で怪我を負ったとは聞いていない。もしかしたら訓練中に負った怪我が治らず、騎士を辞めざるをえなかったのかもしれない。
剣を握るということは、それだけ危険に晒されるという事なのだろう。他人に妬まれたり疎まれたりする。私の様な人間に恨まれたりもする。
そしてそれらから今を守る為に大きな鉄柵で邸の敷地を囲っているのではないだろうか。侵入されない様に出入り口を限定して。
私もその守りの中にいる。私は守られる立場で無いのに。私はあの男に復讐をする立場なのに。
鴨肉を口に含み美味しいなと思う。
孤児院に残してきた皆に申し訳無い気持ちが生まれてしまう。孤児院で食事は二食出されたが、こんなにも沢山では無かった。それにこんなにも美味しくは無かった。まともに食事なんて取れなかった孤児の頃に比べたら孤児院もずっとマシだったけれど、ここと比べてしまうと質素だったと感じる。
孤児院から通いで使用人として働いていた頃は、勤め先の邸で賄いが一食出た。けれど虐めで出されなかった日もあるし、目の前でこぼされた事もあった。仕事の日は賄いがあるからと孤児院では一食しか出なかったから、賄いを食べられないと一日一食だった。
でも質素で良かった。お陰で守られた物もある。
私はガリガリだったし体も小さかった。錆びた鋏でわざと髪も短く切っていた。前髪だけ長く顔を隠して、男の子のフリをしていたのだ。
可愛い娘は暴漢に襲われていた。住んでいた町の男は殆どを殺されたから、敵国の兵士や敵国の町民に。
働くようになってもガリガリで肉の無い私は、暗い性格もあって邸の男性の手が付く事も無かった。同僚が旦那様やら坊ちゃまのお手が付いてきゃあきゃあ話しているのを、何がそんなに嬉しいのかと不思議に思って遠くから聞いていた。聞きたくなくても声が大きくて聞こえて来た。きっとわざと聞かせていたのだろう。お前にはあり得ないだろうと、馬鹿にしていたのだ。
ここにはそんな事が何一つ無い。とても居心地が良い。
ここがあの男の邸で無かったらどんなに良かっただろう。いつかこの生活を手放すのだ。
でも、あの男の邸だからこんなにも居心地が良いのかもしれない。そんなこと、気が付きたくなかった。