ゆき という おんな
しいな ここみ様の「冬のホラー企画」参加作品です。
「……もしも、ゆき、という女だったら絶対に近づいちゃいけねぇ」
湯気の立つ白い飯を塩気の利いた漬け物で頬張っていると、斜め後ろのテーブルで男達が会話を交わしていた。
「あそこの地域は恐ろしい……」
「……それで何人も死んだ……」
「……氷漬けになった奴もいるそうだ……」
朝の定食屋は賑やかで、途切れ途切れにしか聞こえてこないがそんなような会話をしていたと思う。朝っぱらから酒を呑みながら嫌な噂話をしている奴らだ。余程の閑人だろうと思いながら私は熱い味噌汁を飲み干した。
「ごちそうさま」
「はいどうも。220円です。あら?」
女将は私の服装と荷物を見て言う。
「お客さん、これから山を登るのかい? やめた方がいいよぅ。ラジオで今日は雪だって言ってたよ」
「大丈夫です。山越えは慣れてるし、そんなに高い山でもないし」
今日はこの為にわざわざ早起きしてここまで来たし、装備も整えている。防寒具や地図とコンパスは勿論、携帯ラジオ、タオル、ザイルロープにハンマー、その他諸々。
「それにね、この山にはでるって話だよぅ」
女将はねっとりとした声で言う。
「出るって何が?」
「雪女」
「へえ?」
「雪の日、登山者の前に現れて、吹雪で凍死させるんだってよぉ」
女将は上目遣いでニヤリとした。
「あはは、女将さん。怖がらせようったってそうはいきませんよ。昭和も終わって今は平成です。雪女なんて居るわけがない」
「いーや、雪女を見たって人は何人もいるんだよ!」
「ハイハイわかりましたよ。じゃあ雪女に会ったらすぐ逃げますから」
私は笑って引き戸を開け、店を出た。
道程は困難だった。
女将の言うとおりラジオでは雪の予報で、山に入って一時間もするとそれは現実になった。
吹雪まではいかなかったが足許も滑りやすいし、手足の指先には突き刺すような寒さが襲ってくる。私の腕にヒラヒラと舞い落ちる雪は羽毛のような柔らかさと温かさを連想させる見た目なのに、融けて濡れると体温を奪ってゆく。
このままでは本当に遭難するかもしれない。引き返すべきか。そう思った時。
「……あ」
遠く、白い世界の中に探していたものがあった。多分間違いない。私はその道を辿る。
だが急に風が強くなり、顔に雪が痛い程吹き付けてきた。視界が狭まり雪しか見えない。私は正しい道を歩けているのだろうか。
「うわっ!!」
何かに足を取られ転ぶ。じんじんと手や膝に響くのは傷みか、寒さか。私は暫く動けなかった。
「……大丈夫……?」
私は地面に突っ伏したまま、確かにその声を聞いた。顔をあげると白一面の世界の中に別の色が浮かんで見える。
吹雪に舞い踊るようになびく黒く長い髪を持つ女性。こちらを見ている大きな瞳も漆黒だ。その周りは黒く長い睫毛と、ほんのりと朱に染まった目元が囲んでいる。肌の色は周りの雪に少しだけ色水を落としたかのように白い。
服も真っ白なのか、雪と同化して彼女が近くに来るまではわからなかった。
「……早く起きて。こっちへ」
彼女は私を立ち上がらせ先導する。先ほどは激しい吹雪で見えなかったが50メートルも行かないうちに山小屋らしき建物が現れた。
小屋はそこそこの広さで、奥にドアが二つ。一つは別の部屋へのドアだろう。もう一つは便所だろうか。土間にかまどがあるところを見ると、電気もガスも通っていないらしい。今は部屋の中央の囲炉裏だけがあかりと温かさを提供してくれている。
女は囲炉裏に新しい薪をくべ、炎が大きくなった。その上に吊るした薬缶から湯を注ぎ、熱い茶を淹れてくれる。炎にあたりながら茶をすすると、体の中から温まり徐々に身体の感覚を取り戻すことができた。
「助けてくれてありがとう。私は後藤 忍といいます」
私は念のため偽名を名乗った。
「あなたは?」
「……」
女は先刻から長い睫毛を伏せ黙り込んでいる。やはり疑われているのだろうか。パチパチと小さくはぜる炎が、彼女の彫像のような青白い頸や頬を黄色く照らしている。両手の人差し指と親指で枠を作りこの景色を切り取れば良い絵になるだろう。
「……ゆき、です……」
女がポツリと言った。
「え」
「山元 雪」
私はゾクゾクとした。ああやはり。噂の雪女の正体は彼女ではないかと思っていた私の考えは当たっていた。指先が細かく震えたが彼女に気取られただろうか。いや、気取られたとしても寒さのせいだと思われるだろう。
私はじりじりと自分の荷物へ手を伸ばした。手探りでタオルと瓶を見つける。
「……あ、風が」
外から聞こえる音が静かになった為、彼女は立ち上がって窓辺に寄り、外の様子を確認していた。その隙に私は素早く瓶のふたを開け、中身をタオルに含ませる。
「吹雪が止みました。今なら多分下山できますよ」
「ああ……そう? ちょっと見せて」
私も立ち上がり、窓辺に……彼女の後ろに近づく。この薬品を染み込ませたタオルを彼女の口と鼻にあてがい眠らせるために。
ゆき。
山元 雪。
ああなんと美しい名前か。羽毛のようにヒラヒラと宙に舞う軽やかさや柔らかさと、刺すような痛みに近い冷たさを同時に持つ雪という存在。美しい彼女にぴったりだ。
どうしたら一番彼女の美しさを引き出せるだろうか? ロープやハンマーも持ってきたがそれは彼女にそぐわない気がする。やはり前やったように氷漬けにするのがふさわしい。彼女の長い黒髪が氷に閉じ込められる様はどれだけ美しいだろうか。
時間はかかるが多分大丈夫だ。
彼女があの地域から行方をくらました後、山小屋周辺に出る雪女の噂を聞いてもしかしたらと思い、わざわざ人の少ない雪の日にここに向かったのだ。私の芸術作品が完成するまで誰かに見咎められることもおそらくないだろう。
さあ、ゆき。私の手で―――――――――
バン!
後ろでドアの開く激しい音がした。思わず振り向くと鬼神のような顔の男が目前まで迫っている。奥の部屋に隠れていたのか!!
男はタオルを持った私の手を掴み捻りあげる。私は痛みに叫び声をあげ、なんとか逃げようとしたがそのまま床に叩きつけられた。
「雪! 今すぐ山を降りて駐在さんを呼んでこい!」
「え……?」
怯えてこちらを見下ろす彼女に、男は私を組伏せながら頭にがらがらと響く太い声で怒鳴りつけた。
「きっとこいつだ! お前の住んでた集落で『ゆき』って名前の女ばかり殺してた事件の犯人だよ!!」
お読み頂き、ありがとうございました!