創作は独善か
俺は割と適当に創作しています。
目標はないし、目指しているものはアクセス数が増えたらいいな、くらいです。
なぜ小説を書いているのかといえば、少し長くなりますが、昔、農業ブログ書いていて「うまく書けるようになったら、ホームページでも作って販売促進に繋げよう」と思ってましたが、あれよあれよという間にmixiだのTwitterだのFacebookの時代に突入して、個人ホームページなんてあっという間に過去の遺物となってしまいました。
そして、ただブログを書いている俺は何なんだと(笑)
しかも農業ブログのはずが空手やら少林寺拳法やらの武道関係、最近読んだ漫画や小説、筋トレ、子供たちに関することのあれこれ、ただの個人的なブログになっていました。
(有難いことにコメントを寄せてくれる方々がいた)
そのなかでケータイ小説ブームが押し寄せ、少し読んでみると簡素な文章で書かれたシンプルなストーリー……これなら長年ブログ書いていたから書けるんじゃね?と当初の目的はどこへやらケータイ小説を書き始めました。
書いてみたら、これが結構面白かった。
好き勝手書いて、登場人物が動いてストーリーを作っていく。完成したときの充実感といったらなかった。
ブログから小説を書き始めたので自分自身の個人的な見方、見解が反映されまくっていたと思います。一人称で書くことが多かったので、もしかしたらブログと同じ感じだったかもしれません。
(色々あってケータイ小説時代の作品は消しましたが)
ご存知の通り現在もあんまり読まれていないので、まだ独り善がりの小説書いているかもしれませんが(笑)
この辺、自分ではよくわからないんですけどね。
最近、東日本大震災関係の小説を拝見しました。
感想は面白かった。素直にそう思いました。
最後まで読んで満足した読了感に包まれ「きっとこの人は被災地域か、その近辺、もしくは知人に被災者がいるのだろう」という感想を持ちました。
それだけリアリティというか直接的ではなく一歩下がって震災を語るストーリーにそういう印象をもったのですが、あとがきを読んで驚きました。被災地域から遠く離れた地域の方でした。
昔、震災直後になろうで『震災被災者を応援しよう!』的な自主イベントがありました。主にみてみんの方だったと思います。なにをどうすれば応援なのか、ただイラストを描いたりしていました。その行為に凄く不快感を感じました。
そのイラストを誰が届けるのか、と。
ネットに上げたから被災者もみれると思っているのか。今、ネットをみれる環境ですらない被災者もいるのに……かといって俺自身はなにをやっているのかといえば絵を描くわけでも文章を書くわけでも、ボランティアに駆けつけるわけでもない。ただ、マスメディアに報じられる情報に被災者に同情し、いくらか募金をしただけです。そんなわけでどうしようもない無力感を感じ、なろうから一時的に消えたのを思い出しました。
被災者でも語り部として詳細に語ることは難しいものらしいです。テレビのインタビューでみましたが「語っているうちに事実をかたるのではなく、物語となっていく」と苦悩していました。そういったものを当事者ではなく、第三者が創作として語るのはどうだろう、と。これが資料として詳細にまとめるのなら話はわかるのです。事実をありのまま書記すのだから。だけど小説は創作です。だから事実をありのまま書記すことはできないと思うんです。小説として書いた時点で個人的な物語だと思っています。
自分はブログから出発して小説を書いているのだから、そういう見方しかできないのかもしれない。その作者は東日本大震災をみて自分でもなにかできないものか、と被災者に寄り添うために書いたのかもしれない。多くの人に読まれ、どこかのコンテストで最終選考まで残り、現在ネット小説大賞一次選考通過もしているので認められる筆力はあるのでしょう。
俺の話をこうやって聞いて、では創作で実際の事件や災害、戦争を語ってはいけないのか? という人はいるでしょう。その問に俺は答えることができないんです。こうの史代の『この世界の片隅に』が大好きで漫画は何周したかわからないくらい読んでいます。こうの史代さんだって戦争体験者じゃないし、漫画だって創作です。
それがよくてなぜさっき話した小説は悪いのか?
それが俺自身にもよくわからない。
体験者が亡くなって歴史となっているのだから創作が許されるて思っているのか、まだ東日本大震災には生きている被災者がいる。まだ傷跡から生々しく血が流れている状態で傷の痛みを第三者が勝手に俺たちに語っているのが許せないのか、俺自身が作者の筆力に打ちのめされて嫉妬しているからこうやって書いて落ち着こうとしているのか。
つまりよくわからないのです。
ただ、少し自分のなかでこの気持ちを整理したくてここに書きました。不快に思われたらすみません。