第一章8 『不穏な手』
いつもより少し早めの投稿です。
……小さな小さな個人事務所内に、大きな大きな高笑いが反響する。当の本人は何が面白いのかさっぱりわからないが、とにかくずっと笑っている。
迷惑な客の隣にすました顔で着席しているのは、この事務所の主と言っても差し支えない存在。だのに客は馴れ馴れしく肩を組むと、いかにも「オレ達友達~」みたいな雰囲気を醸し出しているのだ。
その光景を怪訝そうな顔つきで眺めているのは、もちろん依茉だ。何を隠そう彼女こそが、この迷惑な客を連れ込んだ張本人である。
「にしてもよぉ、こうして顔合わせんのも久しいなぁ!! 先月どころか三ヶ月も会ってなかっただろ?」
「私的にはそのままどこか遠くに行って欲しいところなんですがね。貴方のことなんかすっかり忘れていましたよ」
「はいはい、ツンデレツンデレ」
「ツンデレ言うな!!」
依茉は、明らかに性格が対極であろう二人の男性のやりとりを見て、とにかく不思議な気持ちでいっぱいになった。
涼晴はといえば、今や誰しもがその名を知っているであろう超有名小説家であり、昨日の時点でかなりインドアな性格であることも分かっている。
対して、騒々しい来客はといえば、まるで太陽かのように明るい性格をしている。というか明るいを通り越して熱い。
肌は小麦色に焼け、体つきも涼晴とは比べ物にならないほど屈強だ。身長も百八十を少し超すくらいだと思われる。運動方面の知識に明るくない依茉が見ても、かなり鍛えているということが自然と伝わってくる。
陰と陽——。これほどまでに彼らを表す言葉が他にあるだろうか。
涼晴の態度は、どこか短髪の男を突き放そうとしているように感じる。が、件の男はというと、親密な関係を露見させているようだった。
ついに耐えきれなくなって——脳の容量オーバーともいう——、二人の会話に割って入るようにして問いかけた。
「あの、えっと、その……。お二人は一体、どういったご関係で……?」
「ん? 唯一無二の親友だけど?」
明快に答える来客。
「腐れ縁の間違いですよ」
迅速に訂正を加える涼晴。
……謎が解けるどころか、余計に迷宮入りをしているのはきっと気のせいだろう。
混乱を隠しきれない様子で、
「中間点をとって……知り合いという事でいいですか?」
「そんなとこですよ……親友は打騎の一方的な思い込みです」
「うつ、き……? ……って、えぇえぇ!?!?」
バン!! と机を叩き、前のめりになる。「打騎」と呼ばれた男は、依茉の突然の行動に体を引きつらせた。
「おいおい……今のご時世、オレ様の名前を知らねぇ奴が居るなんて驚きだぜ!!」
「自分で言いますか、それ」
打騎はまるで知らないかのように言ったが、依茉も名前くらいは記憶している。ただ、名前を聞いたことがあるのと、どんな職業に就いているのかぐらいで、顔や性格などの詳しい明細は把握していない。
ゆえに驚いたのだ。下手をすれば、涼晴よりも名前が売れているかもしれないのだから。
「無知なお嬢ちゃんに教えといてやろう!! オレの名は投野 打騎!! 世界を股にかける野球界の超新星!! 人生の全てを野球にささげてきたから、涼晴よりも頭は悪いぜぃ!!」
「だからそういうことを大々的に言うんじゃありません!!」
——投野 打騎。
日本のプロ野球団の中でも、トップクラスの実力を有している球団に所属している。
「投げれば大砲、打てば閃光」と呼ばれているように、投手打者両方をそつなくこなす。高校時代は弱小校だった母校の野球部を甲子園へと導き、一躍有名人となる。
その勢いは止まる事を知らないようで、プロの世界へと足を踏み入れてもなお、成績をぐんぐんと伸ばしている。まさに『超新星』と呼ばれるにふさわしい人物だ。
野球どころか軽い運動すら遠い存在のように感じてしまう依茉にとって、彼の業績というのは当初いまいち凄さがわからなかった。だが社会勉強と新アイディアの収集のために調べてみた時は、全身に鳥肌が立った事を今でも覚えている。
涼晴といい打騎といい、今のところ『裏社会』関係で知り合った人々は著名な人物ばかりだ。『才能人』はその分野に秀でた者かつ七福神から力を与えられた者のことを指すので、名の知れた有名人と顔を合わせられる事に薄々期待していたが、ここまでとは。
彼に与えられた『才能』は『熱き血の戦士』といい、野球に用いるボールやバットなどを駆使して『負』をせん滅する。『熱血』とよばれる、その名の通り炎のように燃え滾る血液を各種道具に流し込むことで、炎をまとった打撃を与えることができるようになるらしい。
火だるまになって特攻したときは何事かと思ったが、いわくあれも『熱血』を操ることでなせる一種の戦法とのこと。
「それはそれとして、どうして新人くんが打騎と一緒だったのですか?」
「えっと、私また『裏社会』に入り込んでしまって……。『負』の群れに襲われそうになった時に助けていただいて……」
「んで、話聞いたら涼晴の新しい担当ちゃんだって聞いたから、同行してたってわけ。しっかしまぁ、まーた可愛子ちゃん連れ込んじゃってさぁ。仕事どころじゃないんじゃねぇの~?」
からかうように、顔を近づける打騎。依茉はからかわれている対象に自分も入っていることに気づかず、呑気に頬を赤く染めていた。
だが、冷静になって打騎の言葉を思い返してみると、一つ引っかかるところを発見した。
『新しい担当』、『また連れ込む』。
これらの言葉が指すことはつまり、涼晴には過去に依茉以外の担当編集者を持っていたということになる。今まで彼の過去について触れるようなことはしてこなかったが、不意の出来事だったためか、妙に疑問が残る。
もう少し涼晴のことについて知りたくなったが、当人は嫌悪感を抱いたかのように顔をしかめて打騎を押しのけた。
「昔話は好きじゃないんです、打騎も知っているでしょう?それと、新人くんが誤解しますから変な言い方をしないでください」
冷静にさばかれた打騎はというと、一瞬だけ楽しげな表情に雲がかかったように見えたが、すぐに唇を尖らせてつまらなさそうにしたのだった。
「しかし……事務所に来たからには、お前とゆっくり話したいところだったんだが、どうやらそんなことしてる暇はないらしいな」
突然、打騎はまた表情を変え、向かいのソファに座っている依茉を見つめる。今度は至って真剣な、いかにも戦士を感じさせる顔つきだ。
「……やはり、貴方も気になりますか」
「勿の論だ。なーんで『才能人』でもない新人ちゃんが、『裏社会』に出入りが可能なのか。それとどうして『負』共に襲われるのか。この二つが、今解明すべき問題点だろうな」
先程までのラフな雰囲気はとっくの昔に消え去ったように、今はピリピリと張り詰めたような空気が充満している。
静寂が訪れることも多くなり、路上を滑走する自動車の走行音も目立つようになる。
「早めに解決しなければならない問題です。打騎もいることですし、小規模ですが会議を始めましょうか。新人くん、コーヒーを」
「は、はい!! 少々お待ちください!!」
「おっとっと、新人ちゃん!! オレ、コーヒー飲めねぇから紅茶を頼むよ」
「……鬱陶しいテンションもそうですが、注文が多いのも相変わらずですね」
~~~
今、涼晴と打騎に見つめられながらソファに腰掛けている。二人はそれぞれ違う飲み物を嗜んでいるが、彼女を見つめる視線だけは等しく厳しい。まるで悪戯をした子供を叱りつける親のようだ。
流石すぎる巨大なオーラに圧倒され、最初こそ対抗するように前方を向いていた依茉だったが、次第に緊張感に押し負けて視線を逸らしてしまった。
そして『気まずくなって視線を逸らした』と悟られないよう、流れるようにコーヒーカップを持ち上げる。彼らと同じように、喉を潤していく。
「それで……今私は一体どういった状況にあるのでしょうか? その……いまいち立場が掴めていないのですが」
「ま、普通そうなるわな。逆に理解しろっていう方が難しいだろ」
「えぇ。しかし、どのような状態に置かれているとしても、今は飲み込んでもらうほかありません。……新人くんは、今回を含めてもう三回も『裏社会』に足を踏み入れています。まさかあれが偶然のことじゃないとは思いませんでしたよ……」
先程よりも明らかに表情が険しくなる小説家は、まるで自分が事前に解決に尽力しなかった事を悔いるように顔を押さえた。
そのまま押し黙ってしまった小説家に代わり、打騎がバトンをつなぐ。
「今は過去を悔やんでる暇はない。重視すべきは、なぜ新人ちゃんが『裏社会』に引き込まれてしまうのか。それと、輩が新人ちゃんを襲う理由だな。新人ちゃん、最終確認だ。本当に心当たりはないんだな?」
「はい、断じてありません。そもそも先生と出会うまで『裏社会』なんて世界のことも知りませんでしたし、ましてや『負』達に喧嘩を売るようなこともできませんから……」
自分が何かを忘れているとしたら、もっと心の中に引っ掛かるものがあるはずだ。記憶を掘削しても、元からないものを探してもないものはない。どこをどう探そうが、出土するのはいつも通りの忙しい日常の記憶のみ。
「これでハッキリしたのは、今回の事案が被害者である新人くんの預かり知らぬ所で起きているということ。そして、連日絶え間無くあちらの世界へと引き込まれている……。これらを踏まえて結論を出すと、事案は確実に人為的な犯行であると言えますね」
依茉が初めて『裏社会』に誘われ、『負』からの襲撃を受けた時のことだ。彼女は人間を畏怖した。理由は至極単純、『負』達は人間の悪意や負の感情によって、その肉体が形成されている。つまりは人が人を襲って食らうのと、なんら変わりないのだ。
それが怖くてたまらなかった。仮に自分が涼晴達のように才能を持っていたとして、彼らのように平然と『負』達を払うことができるのだろうか? 否、出来るはずがない。
力があるにせよ、自分がしている事を含め人間同士の醜い争いでしかないからだ。依茉にはそういう、人間の汚点と呼ばれるものを受け止められる程の余裕がない。
眼前の男達は、姿や性格、はたまた先天的に持ち合わせている性格すらも異なる。だのに、どうしてこんなにも落ち着いていられるのだろうか?
決して彼らが親身になっていないとは思わないし、むしろ協力して解決に向かってくれているのは礼をしてもしきれないほどだ。
彼らのように優雅にコーヒーや紅茶を嗜めるほど、肝っ玉は持っていないのだ。
「どうして……どうして先生達は、落ち着いていられるのですか? 私はもう……怖くて仕方がないです……」
言えば、文句として捉えられてしまうかもしれない。そう思っていても彼女は、訊かずにはいられなかった。他人に頼る事でしか自分の身の安全を確保できない非力な自分を、未来永劫呪うだろう。
涼晴と打騎はうつむく依茉を見つめてから、両者同タイミングでカップを置くと、一層真剣な眼差しで話し始めるのだった。
「安心してください。私達も新人くんと同じですよ。大切な後輩が、こんな危険な状態に晒されているというのに、落ち着いてはいられません」
「その通り。今オレたちの心の中は、怒りと怨嗟で炎が燃え盛ってる。爆裂的に鎮火しなきゃいけないくらいにな。でもよ、一方的な感情に任せて怒り散らすのは、元も子もないってもんだ」
「貴女には私たちのような力はない。だからこそ、新人くんを守れる力がある私たちが冷静でいなければ、事の主犯の術中にはまっているようなものです」
つい先程までじゃれあっていた二人が、一気に頼もしく見える。
しかし、増大する安心感とは裏腹に、解決の糸口は一向に見えてこない。誰が、何のために依茉をターゲットとして計画を企てたのか、このままではわからずじまいで時間を空費してしまう。
打騎に関してはほんの数十分前に知り合ったばかりだというのに、問題の解決に尽力してくれている。依茉は何としてでも彼らの力になろうと、周りで何か変わったところはないものかと思考を回した。
と、直接関係があるわけでもないが、伝言を預かっていた事を思い出した。
「そういえば、先生。編集長からの伝言ですが、明日にでも二巻の原稿をできたところまででいいから持って来てくれと……」
「おや、そうですか。うーむ……正直言って、困りましたねぇ」
珍しく、困窮するように表情を渋くする。確かにまだ『諸行交悪』二巻の執筆は終わっていないが、スケジュール通りに行けば今日中には余裕を持って仕上げられるはずだ。
「な、何か変更しないといけない箇所が見つかったんですか?」
「いえ、ただ単に『裏社会』での問題と仕事の両立が厳しい状態にあるなぁ……と…………」
苦笑を浮かべて再度コーヒーカップを口に近づけた涼晴だったが、なぜか言葉の尻尾を濁して黙り込んでしまった。目の前でゆらめくコーヒーの水面をじっと見つめながら、か細い声を発し始めた。
「新人くん……そうか、その可能性も……しかしまだ甘い…………を持たせるために……えぇ、そうしましょうか」
「涼晴? おーい、どした? 何か分かったのかよぅ?」
小説家の白くて骨ぼねしいものとは違い、日に焼けてゴツゴツした男らしい手を振る。
すると彼は意識を取り戻しようで、少しだけぎこちない動作でコーヒーを口に含んだ。
「いや、何も。ですが……少しだけ引っ掛かるところがありまして。それを確かめるためにもひとまず仕事を完遂させなければなりません」
「「はい!?」」
「というわけですから、打騎、コレを……」
突拍子もない事を口走り、一人で勝手に行動を起こす涼晴は、正方形の付箋に何かを記載して打騎に渡す。
最初は記載されていることの意味がわからなかったのか首を傾げていた打騎だったが、流石自称親友というべきか意図を汲み取ったようで、不敵な笑みを浮かべたのだった。
「オーケー!! んじゃ、オレ様はこれで。新人ちゃん、涼晴のことよろしく頼んだぜィ!!」
「え、えぇ!?」
真っ白い歯を見せてサムズアップをする野球選手に、驚きが隠せない。依茉が引き止める暇もなく、彼はすぐさま事務所を後にした。
……台風が去ったとでもいうべきか、小さな事務所に静けさが舞い戻った。ちら、と白髪が見えた方向に視線をやると、「ようやく帰ってくれたわ~」と言わんばかりにリラックスしている涼晴の姿があった。
「……仕事を盾に打騎さんを追い払ったとか、まさかそんなことありませんよね?」
「貴女は私のことなんだと思ってるんです? ちゃんと作戦はありますから、安心してください。因みにその作戦には、新人くん、貴女が重要になってきます」
「…………………………え」
ショックのあまり、そこから先の記憶はあまりない。断片的にしか思い出すことができないが、とにかく血眼になって赤ペンを走らせ、キーボードが割れんばかりにタイピングをしていたことは覚えている。
……お世話になっている男の引きつっている顔を添えて。
~~~
呆れるほどの晴天の下。日光に照らされて鮮やかさをより高めている赤髪が揺れる。
スーツを身にまとっているのは彼女だけでなく、名前も知らぬ一般社会人もだ。
昼時になると、この通りは人流が多くなる。各々空腹感を埋めるために近場のレストランなどで昼食を済ませ、再びオフィスという名の戦場へと駆り出されるのだ。そこが『楽園』となるか『牢獄』となるかは、その人次第だ。
依茉は少なくとも、前者だと思っている。なにせ馬鹿正直に働くことだけが取り柄なので、そうでもしないと生きがいを感じられない。働くことは楽しいし、人間関係も学生時代ほど難儀する方ではないと自負している。だが押し寄せる疲労だけは、どうすることもできない。
……残り日数は、今日含めてあと三日。
限られた日数で、どれだけ自分の力を磨けるか。どうせなら行けるところまで行って、編集長や同期の仲間達に、成長した自分を見せつけてやりたいものだ。
と、周囲の人間たちから賞賛されている未来予想図を設計しているうちに、『メイロー編集部』のエントランス付近まで来ていた。
この自動ドアをくぐるのも、もう二日ぶりになる。妙な緊張感が楔となって体に打ち込まれるようだったが、彼女の強固な意思はそれらだけでは砕けなかったようで、足を大きく動かした。
「……それにしても、先生は何を企んでいるんだろう」
一人でエレベーターに乗ってから、意識外でつぶやく。涼晴の事務所を出てくる時、彼の言っていたことがどうしても気になる。
「今日から安心してお外を歩けますよ~、って。……本当に大丈夫なんですよね? これで私死んだらどうしよう。え、本当にどうしようかな!? パパ、ママ、ゴメンネ!?」
心の中の涼晴が何か答えるよりも早くエレベーターの扉が開き、依茉はオフィスを目指すのだった。
「おぉ!! 来たね来たね~、依茉ちゃん!! 待ってたよ」
資料や原稿などの紙が擦れる音、電話対応に追われるOLの美声、嗅ぎ慣れたコーヒーの香ばしい香り。これぞオフィスだ、ようやくあるべき場所へ戻ってこれた気がする……気がする。
依茉が入室するや否や、どことなく芝居掛かった身動きでオフィスの長が歩を進めてくる。四月に出会ったばかりだが別に初対面というわけでもないだろうに、彼のユーモアさ全開で握手を求められる。依茉も何気に、彼のテンションは気に入っている。
「た、ただいまです」
「うん、おかえり。そうは言ってもあと三日あるけどね。それで、例のブツは持ってきてくれたかな?」
「何やらいかがわしい言い方ですね……。勿論持ってきてますよ」
亨弥専用の黒々としたデスクに鞄を置かせてもらい、原稿用紙が入っている茶封筒を引っ張り出す。初日に依茉が赤入れしたものよりも、はるかに膨らみが大きい。ゆうにニ、三倍はあるかと思われる。
「『諸行交悪』二巻の原稿です。文月先生ったら、筆が進むーとか言われて……」
「ま、まさか……最後まで?」
目を白黒させている亨弥が訊くと、依茉は苦笑いしながら首を縦に動かした。
できたところまでで良い、と伝えたつもりが、まさか最後まで仕上がったものを持ってこられるとは。こりゃ一本取られたと言わんばかりに手を額に当て、のけ反る。
「いやはや……末恐ろしい小説家だなぁ、彼も。そして同じく恐ろしい担当だよ、依茉ちゃん」
「ふふん。仕事、担当交代、いずれも~? マッハ!! が売りなので」
「うん、二つ目は胸張って言うことじゃないよね」
どうやら亨弥は、早くても最終章のちょっと前くらいまでかなーと思っていたらしく、全部に目を通すとなると少し時間がかかるらしい。
やったことに後悔などするはずもないが、おかげで多少ゆっくりできる時間が生まれた。あちらで仕事をしていると、当たり前だが同期もいないので涼晴と会話をするしか隙間を埋める方法がない。
でもって彼も仕事人間なので、口を開けば仕事の話。小休憩すらままならない。
ゆえにこうして何もしないという、依茉の性格には無縁の時間が生まれたのは、正直驚きだ。
亨弥は天才の圧倒的なまでの文才に詠嘆していることだろうが、一体この持て余した時間を何に使おうか。
「お? たしか金鞠さん……でよかったかな、今は文月先生のとこで修行中って聞いてたけど、帰ってきてたのかい?」
不意に上から声が落ちてきて、依茉は体をビクッと震わせた。投げかけられた声が、いわゆる頑固親父系の声質だったため、本能的に俊敏な動作を開始した。
顔を上げると、そこには涼晴ほどではないが、柔らかい笑みを浮かべる男性が立っていた。無精髭を生やした、『ザ・文豪』といった風格の彼は、数日前に依茉に担当交代の宣告を下した小説家茂木 元森だった。
「お、おぉお!? お久しぶり……というほどではないですけど、とにかくこんにちは!!」
硬直が解け切っていない状態で立ち上がったため、『びよよよーん』という間抜けなオノマトペがしっくりくるおかしな動作で立ち上がる。彼女の奇行を目の当たりにした小説家は、ガ、ハ、ハと力強く笑いを炸裂させた。
「いやいや、元気そうで何よりだ。文月先生の相手はどうだね」
「し、茂木先生もお元気そうでなによりです。そう……ですね、面白いというか変わっているというか、とにかく凄い人ですよね」
「ガ、ハ、ハ……そうだな、アイツは変わっとる。金鞠さんも、引き込まれんようにな。良くも悪くも、アイツはブラックホールのようなもんだ」
——うわー、めっちゃくちゃしっくりくる例え見つけちゃったよ。
良くも悪くもブラックホール、確かに彼によく当てはまる言葉だと思う。彼は白髪だが。
「そういえば……その節は、ご迷惑をおかけしまして、本当に申し訳ございませんでした」
深々と、頭を下げる。
そう、たとえ茂木氏がとても寛容な人であったとしても、依茉のミスは帳消しにはできない。今でも、なぜあのようないさかいを起こしたのか理解ができていない。
理由は意見が合致しなかったことだが、冷静になって考えてみれば自分の意見に至らない点がいくつもあることに気づいたのだ。
人生経験は、みてくれだけでも茂木氏の方が上回っていることは確実だ。自分の意見が通りづらいことなど、初めからわかりきっていたではないか。
だが依茉の悲観的な思考とは裏腹に、目の前で腕組みをする厳格な男性はニカニカと笑ってみせるのだった。
「もういいって。過去のことは水に流そう、な? 今は別の担当さんつけてもらってるけど……あ、これはオフレコだぞ? しょーじき、君の方が仕事が早い。いやぁ、俺も惜しいことをしたもんだよ!! ガ、ハ、ハ……」
その後、他愛のない世間話をした茂木氏は、愉快に笑いながらその場を後にした。
依茉も彼の背中を見送ると、自分のデスクへと帰っていく。二日ぶりに戻ってきたが、埃をかぶっているなんてこともなくて安心した。
「おっすー!! 依茉っち久しぶり!! 元気してた~?」
突如として依茉の膨よかな胸が綺麗な手によって覆われた——かと思うと、そのまま一回、二回と揉みしだかれる。もにもに、と何やら耐えがたい感覚が羞恥心と肌をくすぐる。
「ふにゃあん!? にゃはん!?」
「あははっ!! ヘンな声出てるよ~? も・し・か・し・て~?」
背後から抱きつくようにして小さな顔を近づけてくるのは、同期である蛇川 麻莉那だ。昨日自宅に帰り、着替えていた時に頭をよぎった記憶——胸を鷲掴みにされて揉まれるという——の登場人物。
唐突な淫行とからかいに動揺を隠せない依茉は、オフィス内であるのにも関わらずちょっぴりピンク色な声を出してしまった。それをすぐさま否定するのと、蛇川に注意をしなければと立ち上がる。
「ちちちち、ちがうちがう!! 決してそんなことはないからっ!! きゅ、急にされるとちょっと、ビックリするというか……」
「じゃあ、先に断ってからなら揉んでいい?」
「駄目だよ!? 何ゆえ揉むのさ!?」
「だってぇ、依茉っちのめっちゃおっきーし? 触り心地いいからさ。だから……ね?」
性懲りも無く、両手をわきわきと蠢かせる。その動きは妙に光沢を放つ粘性を持った、触手のそれに相違なかった。
「相変わらず仲良しだね、君達は」
この一方的なまでの行為の、どこに『仲良し』を感じたのか問い正したくなる。黒縁メガネの男が依茉と蛇川のやりとりを見て微笑んでいる。彼も同期の一人で、名を鳩口 治紀という。
「は、治紀君!! 見てないで助けてよぅ!!」
「いや、僕男だし? こう見えても紳士なんでね」
「紳士はオンナのコ同士のやりとりを笑顔で観察しないと思うぞー? はるるんのえっち」
出勤すれば、基本毎日こんな感じのやりとりが繰り広げられている。なので周りの仕事仲間や他の同期のメンバーも、この騒ぎには慣れている。
しかし一番の被害者である依茉はといえば、急に胸を揉まれるのには未だ慣れることができていない。慣れるものでもないし、慣れようとも思わないが。
兎にも角にも、なんだかんだ言って仲は良い。学生時代は友人関係も無縁だったので、こうして日陰者が受け入れられるのは嬉しいものだ。
「それにしてもさぁ依茉っち。あの文月大先生のお手伝いしてるんでしょ? 大変だねぇ」
ようやくセクハラをやめてくれた蛇川は、依茉の隣の席へと着席し、労ってくれる。この編集部は割と規定がゆるいため、彼女は若者らしく金髪に髪を染めている。
「大変ではあるけど、それ以上に楽しいよ。私が仕事するのが好きっていうのもあるんだろうけどね。でも、まさか私よりも文月先生の方が仕事大好き人間だとは思わなかったなぁ……」
「依茉さんが言うなら……相当だね。やっぱり赤入れ難しかったりする?」
親切にコーヒーを置くと、蛇川と同じく依茉を心配してくれる鳩口。元より人がいいのもあるが、今回は依茉がどことなく疲れているように見えたからか、いつもの二割増しで口調が優しい。ちなみに今の茂木氏の担当は、彼が行っている。
「うん、他の先生方とは一線を画してるというか……とにかく難易度が半端じゃないね。でも予想外に、文月先生とっても優しい人だから、私の意見もしっかり聞いてくれてやりやすいよ」
「へぇ、意外。天才小説家っていうくらいだからさ、もっとあれやれこれやれー!! ってカンジのスパルタ教育なのかと思ってた」
「私も最初はそう思ってたんだけどね。実際はそりゃもう優しい人で……」
「惚れたんだ?」
「そうそう………………え?」
その後、要件を全て済ませて帰路に立ったが、トマトの如く顔を真っ赤にしていたのは言うまでもない。
面白かったらブックマーク、レビューや感想などよろしくお願いします!!
枯葉 輪廻のTwitterアカウントもよろしく!! @kareha_henshin