第一章7 『熱血の「球」世主』
一日に二話投稿するのはこれが初めてですね。なんもかんも初めてといえる時期ですけども。
なにげ新キャラがでます。ではでは
朝の暖かな日差しが、丁度良い加減で入り込んでくるダイニングキッチン。すでに室内は芳醇な料理の香りで埋め尽くされており、食欲という、人にとって大きな欲望を駆り立てる。
木製のダイニングテーブルには、その香りの根源である料理が綺麗に並べられていて、涼晴と依茉はそれらを挟むようにして座っている。
献立は炊き立てほかほか、茶碗一杯の白米。ふわふわとした食感がたまらないスクランブルエッグに焼いた薄切りベーコンを添えたもの。少し大きめのボウルには、キャベツやニンジンといった野菜の千切りサラダが盛られており、ミニトマトで彩りが際立っている。
これだけといえばこれだけのメニューではあるものの、依茉にとっては「一人でこれができたらいいなぁ」と感じられる出来栄えのものたちだ。涼晴もどこか得意げな表情で食事を楽しんでいる。
言わずもがな依茉も思わず笑顔をこぼしてしまうほど、今までになく煌びやかな朝食だ。
永遠にこの幸せが続けばいいのに。そんなことを思って食事を進めていると、涼晴の言葉が前方から飛んできた。
「これ食べ終わったら、『諸行交悪』三巻の案を出すとしましょう。おおかた頭の中で構想は仕上がっていますが、まだ不透明なところがあるのは否めないので。新人くんの力を貸してください」
…………うわぁ、そうだった。私一応修行に来てるの忘れてた。
涼晴の言葉からわかるように、依茉はどうやらその力を彼に一目置かれているようだった。言われなくとも力添えはできる限りするつもりでいるし、一週間という短い期間でしか共同作業ができないのだから、せっかくならば仕事を成功させたいとも思っている。
しかしなんだろうこの……一気に現実に引き戻された感じ。一瞬ばかり、依茉の口内のベーコンはその濃密な味わいを失ったかのように無味に感じられた。
「も、勿論ですよ!! 私にやれることは精一杯出し切るつもりですので!!」
胸中の彼女が苦笑いしているのは、天才でさえ知る由もない。
「心強いですねぇ。……しかし新人くんがそうであるからこそ、疑問が湧き出してくるんですよね」
箸を置き、自然な仕草で口元に手を当てて首を傾げる。別段、神妙な顔つきではないものの、明らかに脳内で絡まった紐はほど
けていない様子だ。
味のしなくなったガムのようなベーコンをなんとか飲み込んで、
「何か、不思議なことでもありますか? 一生懸命働くのは当たり前でしょう?」
「それはそれとして、問題は他にあるんですよ。……少々苦しいかもしれませんが、昨日起こった出来事を思い出してみてください」
「き、昨日ですか? ええっと確か……事務所に行こうとして、着いた矢先に『裏社会』に入っちゃって、『負』に襲われてるところを先生に助けてもらった……でしたよね」
記憶の糸をたどり、昨日の悲劇を思い出す。涼晴が忠告していた通り、たしかに襲われた時の恐怖感が体を包み込んだ。が、今はすぐそばに頼れる存在がいる。
当の彼は縦に首を振り、「それでそれで」と言わんばかりに次のシーンを要求する。
「それからなんやかんやありましたけど、先生の試練を受けて、これから本格的にお仕事スタートー、って時に、また私が『裏社会』に引き込まれちゃって……。あの時は正直、なにがなんだかわからないまま逃げ回ってましたね……」
渋い表情を浮かべたところで、唐突に涼晴がこちらに向けて指を突き出す。
「それ、ですよ。一応聞いておきますけど、ここに来るまで『裏社会』に入った経験は?」
「な、ないですよ。あったらあんなに動揺してませんから。お恥ずかしい話ですけど」
赤髪を揺らしてかぶりを振る。なぜ涼晴はそんなことを聞くのだろう?
「新人くんが『裏社会』に干渉していないのならば、どうして新人くんは『負』に狙われていたのでしょう?」
「………あ」
確かに、涼晴に言われる今の今まで気づかなかった。恐怖が原因か、こんなにも単純なことに気を止めることがなかった。
『依茉が襲われていた原因』。物事の発端といえば、必ず何かしらの根本、つまりは原因があってこそだ。あらゆることに存在するはずのそれは、今回の件では未だ尻尾を見せていないのだ。
「でしょう? 不思議ではありませんか? 貴女はごく普通の編集者として、労働者としての責務を果たそうと尽力していただけ。貴女は『裏社会』に一切干渉していない。一般人が『負』に襲われるなんてことは、滅多にないことですから」
「……前例は、あるんですか?」
先に食事を済ませた涼晴は席を立ち、食器を流しへと運ぶ。至って落ち着いた振る舞いで、洗い物を開始する。鼻歌を歌うかの如く、整った声を響かせる。
「私が『才能人』になってからは、おそらくないかと。それより前の事についてはもう少し歴が長い知り合いに聞くか、『七福神』に直接聞くかですね。あるいは『宝船』内の資料を漁るかしないと詳しい情報は手に入りません」
『宝船』というのは、『裏社会』を統治している『七福神』達が住まう帝城のことである。その名の通り大型の船のような形の変わった城だが、特筆すべきは空中に浮かんでいるということだ。
『才能人』に重量を知るものはいないが、現世の建造物でそれに敵う重量の建物など存在するのだろうか?それを容易に浮かばせているのだから、神々の念能力というのは末恐ろしい。
たとい涼晴ほどの実力者だったとしても、一秒とかからずに消し炭にされてしまうのは目に見えている。
「ところで新人くん。貴女の服装は仕事には向かないような見た目になっていますが、大丈夫なんですか?」
「ほえ? 何かおかしなところでも……って、うわ!? うわわっ!? ナニコレ!?!?」
危うく椅子ごと背後に転倒してしまいそうになるが、すんでのところで体制を持ち直すことに成功する。
涼晴に言われたとおり自分の服装がどうなっているのかを確認したところ、想像以上に悲惨なことになっていて驚いた。
黒のタイトスカートは、特に裾がボロボロになっていてほつれた糸がだらしなく垂れ下がっている。
その下に履いている黒タイツはスカートのそれよりもひどい有り様で、まだらに引きちぎられたかのように穴が空いてしまっていたり、伝線が目立っている。白く美しい肌が露出しており、妙な羞恥心が湧いてくる。
このような惨状を引き起こした原因として考えられるのは、やはり昨日の『負』達との追いかけっこだろう。追いかけっこといっても、遊び半分でやろうものなら軽く命が消し飛んでしまう。その点を考慮すれば衣服の状態など気にすることもないのだが、あいにく今はただの社会人だ。身分に合った服装でなければ、示しがつかない。
依茉はなかなかの綺麗好きであるがため、自他関係なく汚れていたり乱れているところがあれば、すぐに意識が向いてしまう。
潔癖症というほどではないが、言えるのは涼晴の作業机の状態でもう『アウト』である。
「き、気がつかなかった……」
「むむむ、困りましたね。朝食後すぐにでも原稿に取り掛かろうと思っていたのですが、新人くんがそれではそうもいきませんね」
「せ、先生が気遣ってくださる必要なんてないですよ!! 私はこのままでも十分働けますから」
「いえ、ノンノンです。新人くんは今、私の相方なんですから、きっちりしっかりしてもらわないと、私の品格が下がってしまいます」
「そ、それはまぁ……?」
「とにかく、服以外の調整もしたいでしょうから、一度自宅へ帰っていただいても構いませんよ。その代わり私は新人くんの帰りを大人しく待ってるわけにもいかないので、原稿進めておきますからね。赤入れ、覚悟しておいてください」
「はい!! 覚悟はもとよりできております!! 金鞠 依茉、将軍の命により、一時帰宅いたします!!」
ビシッ!!っと効果音が聞こえてきそうなほど機敏な動きで敬礼をする。数秒の時間沈黙が生まれたが、すぐに両者の笑い声が部屋を包み込んだ。
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『もしもし~。こちら享弥です。どう、依茉ちゃん。元気でやってる?』
「はい、なんとか!! ってうわっと!! すす、すみません!!」
『な、なに!? なんだって!?』
「いえいえ、お気になさらず!! ちょっと自転車に轢かれかけただけですので!!」
『……おっちょこちょいなのも変わってないみたいでなんか……うん、安心したよ』
上司に痛いところを突かれ、苦笑してしまう。携帯電話越しでも礼儀を忘れることなく、ペコリと会釈する。特に誰にもみられているわけでもないが、これが依茉にとってのルーティンなのだ。
彼女は現在、自宅への帰還を涼晴に命じられたため、道中の信号待ちをしているところだ。すると突然享弥からの電話がかかってきて、何事かと少しゾッとしたが、どうやら近況報告をするだけのようで安心した。
『心配ではあるけど、うまくやれてるようでよかったよ。そういや文月から聞いたよ、赤入れ完璧にできたんだって? やるじゃないの』
「い、いえ、それほどでも……。というか、アレって編集長と文月先生の演技だったんですよね」
『そうだけど?』
「そうだけど? じゃあないですよ!! 心臓に悪すぎますジェットコースターの方がまだマシです!! 縮んだ分の寿命返してください」
『いや……そんなにかい?』
寿命のことはこの際良いとして、依茉はひとつ気になったことがある。
編集長に『裏社会』での出来事を伝えてもいいのだろうか……?
初めて依茉と会った時に小説家は、『裏社会』のことについて事細かに説明をしてくれた。ただ、未だ謎に包まれているかつ『裏社会』の存在を飲み込めていないところがあるので、彼女も完全に理解ができているかといえばそうでもない。
だが自分の身に起こった奇怪なことや、涼晴の華麗な戦闘のことが、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
涼晴はあの世界のことを「公にしてはまずい場所」と言っていたが、彼と編集長の間柄ならば、既に『裏社会』の存在について伝えられていてもおかしくはない。
万が一を考えて、探りを入れるような問いかけをすることに決定。早速実行に移る。
「あの、編集長。文月先生とはよくお話になられるんでしょうか?」
『うん、そこそこね。仕事のこともあるし、たまに飲みに行ったりするよ。なんでそんなことを?』
「いやぁ、勿論書籍で読んでも分かるんですけど、生原稿で読んでみたり、実際に筆を入れてみると改めて先生の文才が際立つなぁって思いまして……。なにか、先生は秘訣みたいなこと言ってませんでしたか?」
『それ僕に聞くかなぁ? うーん……あぁ、そういえば、自分だけの世界があるーみたいな、いかにも純粋な子供みたいなこと言ってたっけなぁ』
享弥の言葉を聞いて、依茉は自分のしようとしていたことがいかに愚かだったのかを痛感した。
電話越しの上司がストレートに『裏社会』と明言しないということは、名称については知らされていないということになる。
しかも涼晴から直接聞かされた言葉なのだから、彼自身も『裏社会』をぼかすようにして伝えたことがわかる。流石天才小説家。
「そうですか……ありがとうございます」
『いーよいーよ。あ、そうだ、伝えとこうと思って忘れてたよ。文月は原稿の方、進んでる?』
「……?はい、順調ですが」
『良かった、じゃあ明日にでも一度、二巻の原稿持ってきてくれる? 今まで文月の原稿は、僕がチェックしてたからね、その点でもアドバイスできたらいいなぁって』
「はい、了解しました!! 先生にもお伝えしておきますね」
『うん、宜しく頼むよ。それと最後に忠告をしておこう。文月の悪戯には本気で相手しないこと。あくまで悪戯だから、真に受けると痛い目見るよ』
「…………痛い目見たんですね」
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一日ぶりに帰還したマンションの一室は、特に変わったところもなく平然と依茉を受け入れてくれた。どこか変化しているようなことがあれば、それはそれで大問題だが。
「ただいま~っと……」
労働に疲れ切った社会人丸出しの、間の抜けた調子で帰宅を伝える。誰も聞いていないが、一人暮らしによって生まれた淋しさを埋めるにはこれがうってつけである。
靴を脱ぎ、ぺたぺたと素足でフローリングを歩いていく。依茉の黒タイツは既に穴だらけになっていて、とても公衆の面前で履けるようなものではなくなってしまった。
流石に恥ずかしすぎるので事務所を出る前に脱いだのだが、これはこれで恥ずかしかった。スカート短いし。
「………………」
ふと、しわの目立つ乱雑に敷かれている布団が目に入った。あまりにも乱雑だったせいか、一瞬空き巣にでも入られたのかと思った。
が、よくよく考えてみれば、この惨状は自分自身が引き起こしたものなのだと思い出した。
あれほど自分で自分に釘を刺し、絶対に遅刻しないようにと思っていたのに、昨日に限って寝坊するのだから本当に呆れてしまう。
そして性懲りも無く、このまま布団に潜って一時休息を取ろうとしている自分がいる。何やら魔性の魅力を放つ布団がこちらを見ている。
「い、いやいや!! まだ私勤務中だし!! それに着替えにきただけだし!!」
口ではそう言いつつも、心の中の悪魔は残念そうに顔を歪ませているのがわかった。
誘惑に負けそうになった心身に鞭を打ち、クローゼットを勢いよく開く。
何着ものスーツとタイトスカートがハンガーにかけられ、大人しく出番を待っているようだ。
まず上のスーツを脱ぎ捨て、カッターシャツも脱ぐ。薄地のシャツも脱ぐと、ほとんどありのままの姿になる。上半身に身につけているのは淡い桃色の下着だけになり、一気に安心感が薄れる。
……ここだけの話だが、おそらく男性よりも女性の方が『胸』という存在への執着心が大きいと思う。女性は、とにかく自身のスペックを磨くためにも豊満な胸というものを欲しがる傾向にある。依茉も学生時代はそうだった。経験ゆえの持論というやつだ。
実際は肩凝りやら動きずらいやら、男性の目線やらで早い話消えて欲しいのだが、そうと分かっていても女性は貪欲だ。
同期にももちろん女性社員はいるが、それはもう依茉の胸を見るなり揉みしだこうとしてくるのだから、大変だ。多分、自分が男ではないからオッケー的な感じで考えているのだろうが、立場が立場なら立派なセクハラになりかねない。
——自分の胸に視線を落とし、入社当時から続けられているおかしな記憶が蘇ってしまった依茉だった。
時刻は九時を少し過ぎたところ。やはり自室の安心は何にも変えられないものがあるようで、そこそこ時間がかかってしまった。
部屋を借りているマンションから事務所までは少し距離があるので、急がなければ仕事の時間がなくなってしまう。
忙しなく身支度を済ませると、ピカピカのスーツ姿で自室を後にした。鞄の中にはもしかしたらいるかもしれないものを詰め込んで、後は予備のタイツも入れておいた。……必要になることがないと願いたい。
「よしっ!! 気合十分、元気いっぱい!! 金鞠 依茉、しゅっき——」
その時だった。唐突に、視界が水面のように揺れ動き始めたのだ。
目の前にそびえたっている摩天楼は、物理法則を完全に無視したようなありえない形に変貌し、大通りを走行する自動車の群れは、速いのか遅いのかわからない速度になっている。
「な、なにこれ!? 何がどうなって……!!」
思わず一歩後退りし、現実では起こり得ないような現象に狼狽する。
そう、「現実では起こり得ない」。現実ではない、どこか。そのどこかを、依茉は既に知っている。人間の醜悪な負の感情が、姿を変えて闊歩する——
「ば、『裏社会』!? なんでっ……私『扉』なんてくぐってないはずなのに……!!」
気づけばそこは、人間の感情で形成され、虹色の閃光を放っている大地へと姿を変えていた。あらゆる人間の記憶に残っている景色などから形成された和洋折衷な情景は、ずっと見ていても慣れない。
「早く『扉』を探さないと……」
突然の出来事に驚愕の表情を見せた依茉だったが、今回ばかりはすぐに落ち着きを取り戻し、出口の捜索を開始した。
こうして落ち着いた行動ができているのも、全てあの小説家のおかげであり、彼からの教習を受けていなければ恐らく、今も慌てふためいているに違いないだろう。
『裏社会』は景色こそ奇怪だが、道の舗装だけはしっかりと施されているため、別段歩きずらいということはない。加えて現実世界の道路とも酷似しているので、このまま事務所裏にある『扉』に辿り着ければ、そこから脱出できると思われる。
——それで脱出できるほど、甘い世界ではない。それが『裏社会』というものだ。
神の悪戯だろうか。だとすれば、意地が汚すぎる。
『扉』まであと数十メートルというところで、前方に濁流のようなものが見えた。間違いなく、『負』の群れだ。
グリョ、グリョ、と不気味で耳障りな鳴き声が耳に届いた時、言葉にできないほどの恐怖感が全身を縛りつけた。
本当ならば、この事態に出くわした時には隣に涼晴がいるはず。だが、今回は誰一人として自分を守ってくれるものはいない。なによりもそれが、依茉の恐怖感を駆り立てる最も大きな要因だった。
『才能』はおろか、一般的な体力すら持ち合わせていない彼女が太刀打ちできる訳がない。仮に彼らが低級の『負』だったとしても、すぐに腹の足しにされてしまうことだろう。
呆然と立ちすくんでいると、今この場で起こってほしくないランキング第一位に値することが起きてしまった。『負』の群れの一匹と、不意に目が合ってしまったのだ。
「グリリリリィ……!!」
唸るように喉を鳴らし、どうやら獲物として依茉をロックオンしたようだ。一体の行動に気づいたのか、次々に仲間が彼女の存在を認知し始める。
絶望的なまでの光景を、ただ眺めることしかできないことに歯痒さを覚える。それに相対するかのように、両脚が小刻みに震えだす。
歯をカチカチ打ち鳴らす音が細く響き、自分で発した音にも関わらず恐怖を演出させている。
途端、
「グリャァァァァッッ!!」
嬉々とした表情を浮かべて駆け出す化け物は、サバンナの大地で獲物を狙う肉食動物に酷似している。みっともなくよだれが地面に零れ落ちる。
「い、いやあぁああ!!」
無様で滑稽な様だが、今の彼女には泣き喚いて逃げ回ることしかできない。
せっかくほぼ新品のスーツに着替えてきたというのに、早速傷をつけてしまいそうで怖い。というかそれ以上に、ここから少しでも離れなければ命はない。
とたとたという軽い足音の後ろは、次第にドタドタという重い音が、幾層にも重なってきている。騒ぎを聞きつけたかのように、新手の『負』が参戦してきたようだ。
「だ……誰か助け……」
切実な願いは、叶わない。どれだけ嘆いたって、涼晴は現れない。正義のヒーローなんて、居るはずがない。
——かと、思われた時だ。
ボンッッ!! という破裂音が、依茉の後方で鳴り響いたのだ。
おそるおそる振り向き、しかし逃げる足は止めることなく、音の正体を探ろうとした。
「……!? ほ、炎……!?」
依茉の視界に飛び込んできたのはどぶ川のような体表を持つ異形の怪物——だけではなかった。
まるで彼らを取り巻くように、轟々と音を立てて火柱が立っている。一本どころの騒ぎじゃあない。ニ、三……五本の炎が蠢いている。
『負』の痛々しい悲鳴や絶叫に聞く耳すら立てず、炎の威力は強まっていく。まるで、「この隙にお逃げなさい」とでも告げるように。
「一ォつ!! 非動な悪を根こそぎ燃やし!!」
声——。
声が聞こえた。聞き馴染みのない、涼晴のとは全く正反対の勢いのある声。眼前に広がる炎の勢いにも負けないような、力がありったけ込められた怒号とも取れる声量。
誰のものかも分からぬ声の後に、再度爆発音が『裏社会』を揺らした。見ると、先ほどまで誰もいなかったはずの場所に、誰かが仁王立ちしているではないか。
汗が目に入ったためしっかりと捉えることはできないが、その人物の背には……『1』と。番号が大きく描かれている。
白を基調とした服装は上下で揃えられており、整った印象を受ける。だが前腕のあたりは黒のインナーが飛び出ているようで、どうやら白い服は半袖のようだ。
「二ァつ!! 追う必要はない、ぶっ飛ばすのみ!!」
常人を遥かに超えるであろう大声は、どうやら何かの決め台詞のようだった。
——組んでいた手を解くと、ベルトの背中側へと右手を添える。その動作を認知したベルトは一瞬赤い閃光放つと、彼の手中に一つの球状の物体を出現させる。
握りつぶしてしまうくらいに力を込め、右腕を大きく後ろへと引き絞る。同時に左脚を持ち上げて、バランスを保つ。
依茉でさえも、この『フォーム』には見覚えがあった。学生時代、教室で一人自習をしてから帰宅していたが、その道中で見た部活の……
ちゅどおおんッッ!!
先程よりもさらに大きな着弾音が響く。依茉の動体視力では到底確認できないであろう速さで、球が打ち出されたのだ。
もろに豪速球を喰らった『負』は、四肢をあちこちに爆散させる。
「三つゥ!! オレが正義だ、問答無用ォォ!! 熱狂!! 熱烈!! 熱血ゥゥッッ!! うぉおお!! 燃えるぜェェェ!! 止めてみなァァァァ!!!!」
何やら色んな要素が詰め込まれていそうな、意味不明極まりない決め台詞を言い終わるのと同時に、彼は突如走り出した。……全身を真紅の炎に包んでから。
「え? ……えぇえぇえぇえぇえぇえ!?!?」
既に、恐怖は心から振り払われていた。理由は紛れもなくあの男だが、その男が急に火だるまになって特攻するので、今度は心配が湧き出てくる始末。
依茉は自身の情緒不安定さをどう表現したら良いのか頭を捻ったが、考えるのが馬鹿らしくなった途端、絶叫を炸裂させたのだった。
「オラオラどうしたァァ!? 止めてみろっつってんだよォォ!! サヨナラホームラン決めちまうぞコラァァァァァ!!!!」
意味不明な絶叫をかます男は、なんと自分が火だるまになっていることも気に留めず、自ら『負』の群れへと飛び込んでいく。どういう原理かは不明だが、熱くはないようだ。
彼の右手に目をやると、いつの間にか金属光沢を放つ棒状のものが握られているではないか。端的にいうのならば、それは『金属バット』という。
そして、興奮状態の彼が持つことで『鈍器』になる。
ゴン!! ゴシャ!! メシャ!! グチャア!!
……文字で表すならば、こんな感じだろうか?
思わず耳を塞ぎたくなるような、グロテスク過ぎる音声が耳に届く。ゾンビが出てくる系の映画ですら耐性がない依茉が耳を塞ぐ中、茶髪で短髪の男は力強い笑顔で怪物を撲殺していく。
それはそれはいい笑顔で、一周回って怖く見えるほど。
「鍛え方がなってねぇなぁ!! 社会の荒波に揉まれて生まれたんだろォテメェらはよォ!! ならもっとオレを楽しませてくれるよなぁ!? なぁ!?!?」
灼熱のフィールド、白い歯を見せて笑うその姿。依茉には『負』よりも、今は彼の方が悪魔のように思えて仕方がなかった。
五分にも満たない戦闘だったが、時間の割に内容が濃すぎた。危うく心に傷を負いそうだったが、深呼吸をして落ち着かせる。
すると、討伐——というよりは一方的な暴力に見えたが——を済ませた熱血漢が接近してくる。依茉はこの状況に、謎のデジャヴを感じていた。
「おう、可愛子ちゃん。怪我はねーかい?」
いや、初対面でそのテンションなの?チャラくない?
「だ、大丈夫です。それよりありがとうございます、見ず知らずの私を助けていただいて……」
ペコリと頭を下げると、男ははにかむようにして恥じらいを見せた。
「おいおいおい、礼を言われるほどのことはしてないんだがなぁ、まぁ気持ちは貰っとくわ。ところでよぉ、可愛子ちゃんは『才能人』じゃあないのかい? 何やら逃げ回ってたみたいだけど」
「そうなんです。何故だかはわからないんですけど、『裏社会』に入れてしまうみたいで……というよりかは、引きずり込まれてしまうというか……」
苦笑いを浮かべる依茉とは対照的に、男は目を丸くしていた。
「ココの名称を知ってるってことは……誰かに入れ知恵されたってことか。知ってるかもしんねーから、そいつの名前教えてみ? なぁに叱ったりはしねぇからさ!ほらほら、カモンカモン!!」
涼晴といいこの男といい、『才能人』はおかしなテンションの人しかいないのだろうか?
……偏見すぎるな、それは。
思いがけず非難してしまった事を胸中で反省し、男の質問に答えていく。
「えっと、文月 涼晴っていう小説家です。私は先生の担当編集をしている者で……」
「……マジかよ。まさか目的地が一緒だとは思わなかったぜ。実はオレも、涼晴に用があって千代田に来たんだよ」
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