第一章5 『戦をせねば仕事はできぬ』
依茉ちゃんどうなるんでしょうかね。それではどうぞ。
——走る、走る、走る。他に何も考えていないことはないが、とにかく走ることだけに思考を回す。勿論、両足も回す。
風切り音が耳の横をヒョウヒョウと、毎秒鋭い音を立てて通り過ぎていく。近くを歩く登校中の女子高生顔負けの長さの白髪が、風を受けて躍動している。
一秒、また一秒と経過していく中で、涼晴の表情は徐々に険しさを増す。目的地へと辿り着いたとして、彼女を助けられるかどうか……。
突如訪れたピンチが背に這い寄るのを感じ取るのは、非常に容易かった。
「貴女を失うわけにはいきません。仕事のためであり、貴女のためでもあります。そして……忌々しい私の過去のためにも。必ず助け出します」
誰に聞かれているわけでもない。たった一人、奔走する自分を鼓舞するように言葉を漏らす。
踏み潰された木の葉が、涼晴が巻き起こした烈風に攫われ、どこかへと姿を消してしまった。
あれから、数百メートルの距離を駆け、人気を微塵も感じられない路地裏へと到着した。朝の穏やかな太陽光すら入り込まないそこは、決して涼晴には似合うとは言えない場所だ。
肩で息をしながら、目的のものを探す。その様はまるでゾンビのようで、ふらつく足で空き缶を軽く蹴飛ばした。
「待っていてください……!! 今すぐに……っ!!」
一瞬だけ目を見開いた——かと思うと、彼は路地裏から姿を消してしまった。その消え方といえば、今朝依茉が事務所の裏口にあった『裏社会』へと入り込んでしまった時と、全く同じだった。事務所の裏のものとはまた違うところにある『扉』をくぐったのだ。
路地裏に再び、淋しげな雰囲気が戻ってくる。
~~~
涼晴は今現実世界で必死に走っているが、依茉はといえば——
「いやだあああああああぁぁぁぁぁ!!!」
……案の定、こちらもものすごい勢いで駆け回っているのだった。
両者に相違点があるとすれば、「目的」だろう。涼晴は現在進行形で依茉を『裏社会』から救い出そうと奮闘している。
救いを待つお姫様といえば、なにも敵の牙城で牢に閉じ込められているというわけでもあるまい、敏捷度を最大限活用して走り回っているのだ。
彼女の背後からは、多数の走行音が聞こえてくる。
こげ茶色と黒のマーブル模様の体表を持った、いかにもな姿をした化け物。あと少しでも衝撃を与えてしまうと外界へと出てしまいそうな、大きな目玉。それも四つも。
ところどころ違いはあれど、おおむねそのような説明が当てはまるなりをした化け物は、四足歩行で追いかけてくる。
彼らの名は『負』。そう遅くない再会になってしまった。
走行速度はやや彼らの方が上回っているようだ。三秒ごとに振り向くと、夢に出てきそうな半壊したかのような顔面が、徐々に迫りつつあった。
だが、そこらに立ち並んでいる建物を利用し、小回りを利かせて逃げ回ることで、彼らとの距離をなんとか縮めまいと奮闘している。
ステンドグラス調の外壁に見惚れている時間など、皆無。少しでも立ち止まった瞬間に依茉の敗北は決せられる。
ただ、追跡者達はどうやら作戦に引っ掛かったようで、依茉が旋回するたびに身内同士で体を打ちつけている。僥倖、というやつだろうか。
だがそれだけの幸せで恐怖が薄れるわけもなく。
「し、し、死ぬ死ぬ!! 命がいくつあっても足りない!!!! ていうか、なんで私がこんなところにいるの!?!?」
何かが心の中で吹っ切れたようで、頭をブンブン振り回しながら奇妙な絶叫を開始してしまう始末。見るも無様な彼女を見て、『負』達は嬉々としているようだ。
獰猛な歯をわざとチラつかせ、彼女が振り向くたびに恐怖をすり込もうという算段だろう。
「やだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだやだ!!!!!!」
——ガッ…………
その音は、無情にも彼女の発した声によって彼女の耳には届かなかった。反対に彼等には鮮明に聞こえたのだ。獲物の命がさかずきからこぼれ落ちていくかのような、絶望の音を。
依茉の体はバランスを崩し、右肩から着地するように転倒する。相当な勢いで走っていたため、転倒後もその速度は微量ながら保たれている。何度も体を打ちつけるように虹色の大地を転がり、やっと止まったところで動かなくなってしまった。
「グロロロロ……♪」
群れの一体が歌うような声を漏らす。それに感化されたように、取り巻きが次々と彼女に押し寄せてくる。
——なんで!? なんで私がこんな……!! 動いて…………ねぇ動いてよ、私の身体ッ!!!! このままじゃ本当に死んじゃうからッッッ!!!!!!
体表のせいで濁流が押し寄せてくるようにも見えるその光景は、目を塞ぎたくなるほどに絶望的なものだった。だが塞ぐことはできない。
圧倒的な恐怖というのは、体を麻痺させるのには打って付けの代物だ。
迫り来る彼等から、突如聞き間違いだと思いたい声が飛んできた。
「オンナ、だ!! アブラ、ガ、オオい!! クッて、やル!! クッてや、ルぅ!!」
異形な彼等は見た目からは想像することもできないような、軽快で明るいトーンの声だった。
調子は良いが、台詞の内容はといえば最悪としか言いようのないものだ。
視界が唐突にホワイトアウトし始める。前回よりも一層濃い絶望感が、体を舐め尽くす。いや、物理的に化け物達に舐められているのかもしれない。それすらわからない。
兎にも角にも、指先すら動かせないような状態で、彼女は助けを求めることなどできないに等しい。
お造りを大人数で突いて食べるかの如く、彼らに捕食されるのをただ待つことしかできない。そんな無力感が、最後に体を襲ったのだった。
——彼等が口を歪ませ、獰猛な牙を彼女の腹部に食い込ませようとした、その時だった。
「ギャルルルルル!!」
奇妙な絶叫が、依茉の鼓膜を震わせた。アラームにしては最悪なものだが、彼女の失われかけていた意識は、その声によって戻ってきたようだ。
何が起こったのかわからず、ただあたりを見渡すことしかできない。そんな時、どこからか聞き覚えのある声が耳に入った。
「よってたかって女性を虐めるとは。まぁ人間の負の感情が固められたものですから、仕方ないでしょう」
その声はどこか気だるげで、ため息混じりに聞こえた。しかし、依茉の顔に希望の光を灯すには、それだけで十分なほど。
「下劣な貴方達だとしても、一番やってはいけないことをしてしまいましたね」
依茉の背後に立つその人物は、文月 涼晴以外の誰でもない。整った顔を見た途端、依茉は自分の目頭に熱がこもったのを感じた。
震える足で立ち上がり、一応上司である彼の腕を掴む。
「せ……先生! これは一体…………」
「説明はあとです。まずはこの下衆共を、徹底的に潰さなければなりません」
その時依茉は初めて、涼晴の言葉に怒りの感情がこもっていることを悟った。表情といえば、若干曇ってはいるものの、依然として笑顔を保っている。彼女にはかえってそれが恐怖を醸し出しているように感じられて仕方がない。
依茉が何か声をかけようと口を開くのと同時に、
「危険ですので、貴女はここにいてください」
「で、でも!! あんなに大勢……」
掴んだままの腕をもう少しばかり自分の身に近づけ、引き留めようとする。
たしかに涼晴の強さは、身に染みてわかっている。だがいくらなんでもあの数は、到底一人でさばけるものじゃない。戦闘経験の一つもない依茉でさえ、本能的にそう察してしまうほど。
しかし彼の気持ちは揺るがない。表情も変えず、優しく依茉の手をほどく。
「私を誰だと思っているんですか?あんな奴らに負けるわけないじゃないですか。あ、フラグじゃないですからね?」
「緊張感が台無しッッ!!」
「ふふふ……。心配ご無用、私なら大丈夫ですから。貴女という大切な人を傷つけた……。それだけで私が貴女を守り、奴らを倒す理由は十分です」
そう言い残すとコートをマントのように翻し、彼女に背を向ける。決して大きな背中には見えない。不安が立ち込める中、彼はあのメモ帳を取り出し、勢いよくページをめくっていく。
「さぁ、執筆の時間です。貴方達に、最後の物語を……」
~~~
…………空気が重い。
そんなことありはしないはずなのに、まるで自分の肩に鉛を乗せられているかのような。圧倒的なまでの比重の空気感が、二人を取り囲んでいる。喫茶店帰りの雰囲気とは大違いだ。
隣ですました顔をしている天才小説家が、まさかあんなにも残虐な攻撃——いや、復讐方法を取るとは思いもよらなかった。ゆえに精神的疲労がえげつない。
……彼のとった行動は、言葉にすれば簡単なもの。ただあの軍勢を『押し潰した』のである。
無論、あの数を一人の体重だけで押しつぶせるものでないことは、依茉でも理解できる。大岩なんかを持ち上げている暇すらない。まず彼にそこまで筋力があるようにも見えない。
ならばどうするか。答えは明白、『言葉を紡ぐ者』の能力を使用したのだ。
——『空白』。不可視の重力攻撃です。スペースキーを押すかのように、重ねれば重ねるほど、対象者への重力は強まり最終的には……
にっこりと、これ以上ないと言っても過言ではない満面の笑みを浮かべる涼晴。彼の姿で丁度というか都合よくというか、大群がペシャンコになっているところが隠される。ふと脳裏にフラッシュバックする。
常々おかしな人だとは思っていたが、彼を怒らせてしまうと自分もああなってしまうのではないかと思うと、どうしても体が萎縮してしまう。
だが正直なところ、嬉しいという感情が芽生えたのも、揺るぎない事実であるのだ。
『守る』、と。その一言がまるで電気ショックのように、全身をほとばしった感覚が消えない。しかし悲しいかな、今までろくな友人も作らず、ただ夢だけを追い続けてきた彼女には、その感情がどう呼ばれているのかすら分からなかった。
現実世界にて一度、お得意の咆哮を背中に浴びせて注意されたが、あの『負』達のように処されなかったことを考えると、一応は信頼してくれているのだろうか?
「……新人くん? 新人くーん? 聞こえてますかーー?」
「はひぃ!? なな、なんでございましょうか!?!?」
限りなく頬からゼロ距離に近い位置で呼び掛けられ、依茉は体を硬直させた。きっと面白い顔になっているのだろう、彼女の顔を見た途端涼晴は微笑した。
「災難続きで申し訳ないですが……これからが腕の見せ所ですよ、新人くん」
「そ、そうでしたね。まだお仕事がありますから…………って、ちょっっっと待ってください」
立ち止まり、うつむく。神妙な顔つきで、思考を回すことに専念する。
——今、私、なんて呼ばれてた……??
「どうしたんですか新人くん」
「それですよそれ!!」
「……はい?」
「その『シンジンクン』って……!! もしかして私のことですか!?」
喚き散らかすと、なぜか小説家は不思議そうな顔をして首を傾けた。その動作が異様に芝居がかっており、なおのこと神経を苛立たせる。
「そうですけど、嫌でしたか?」
「嫌っていうか……っ!! 私にはちゃんとした名前があるんですよ!? 依茉っていう、パパとママにつけてもらった名前があるんです!! 名前で呼んでくださいよぉ!!」
「あははははっっ!! べ、別に良いじゃないですか!! いやぁ~お腹痛い……!!」
「何笑ってるんですかああぁぁ!! こっちは真剣なんですよおおぉぉ!!」
……後々になってこの日、なぜこれほどまでに彼が爆笑をかましていたのか聞いてみたところ、「必死になった時の新人くんの顔が面白すぎて耐えれなかった」、と伝えられた。
~~~
「はああああああああああああああああ……」
記憶に残る限り、人生最大のため息を炸裂させて顔をしかめる。眼前に広がった仕事の量はさほど多いわけではないが、問題はその内容だ。
——赤入れ。依茉のような編集者は作家が書き連ねた文章をチェックし、その文章をより良いものへと研磨することが仕事である。
読者に伝わりやすい表現か、文法的に見て間違った使い方をしている箇所はないか、誤字脱字がないか。あらゆる面で気配りをしておかないといけない、骨の折れる作業だ。
もちろん依茉は、それを自分の仕事であるということを自覚している。だがそれをさせてもらえないと言う事態に陥ったのは、これが初めてのことだった。
何度も何度も読み返し、それこそ穴が開くほど原稿用紙に目を通した。しかし彼女が介入できるような隙間すら、その文章には存在しなかったのだ。
「新人くん、手が止まっていますよ。どうかしましたか?」
「…………いや、何というか……コレ、私要りますか? このまま出しても良いくらい完成された文章なんですけど」
口を尖らせてふてくされたような言葉を漏らす依茉。ペン先すら出していない赤ボールペンを、右手でくるくると回転させている。ボールペンも出番がないので暇そうにしているように見えてくる。
不意の敵襲はあったが、それでも有り余っているはずの体力を持て余している彼女を見て、思わずため息をつく。
「そんなことないはずです。私には貴女の赤入れが必要なんです」
「だったらもう少し手加減してくださいませんか……」
「それじゃあ駄目じゃないですか。新人くんに与えた試練用の原稿用紙は、それ用にわざわざ作っただけにすぎません。あんな粗が目立つ文章、私が書くと思ってるんですか?」
「それは……思いませんけど。それでも、私が越えられるような壁じゃない気がします……」
「はぁ……。いいですか、新人くん。ため息をつくのと同じで、愚痴や文句をこぼしてしまったら幸せが逃げますよ?私は絶対に貴女を否定しませんから、もっと積極的にきてください」
依茉は眉を持ち上げ、その言葉によって再び活力を取り出したように見えた。そして——
「わかりました……先生!! 私やりますよ!! それと、先生もため息ついてたので幸せ逃してますけど、大丈夫ですか?」
「…………………………………………………………あ」
活力を取り戻したとともに、余計なところに目を向けるようにもなってしまった。
これは一本取られた、と言わんばかりの優しい笑みを浮かべ、涼晴は自分も静止させていた筆を進める。
……さて、ここからはもう何十回目となる原稿用紙とのにらめっこ対決だ。印刷機を通して書かれたかのように綺麗な文字を、脳へと刷り込んでいく。一文、また一文と緻密な判断を下しながら読み進めていく。
あれ……? さっきまでは全然目に留まらなかった文章が……!? なんだろう……言葉では表現できないけど、『こうしたら』っていうアイディアがスラスラ出てくる……っ!?
この感覚が何なのかはわからないが、とにかく仕事が何倍にも楽しめそうな予感が押し寄せてくる。ペンを握る右手に力が入り、全身に鳥肌が立つ。まるで電流が体内を這いずり回っているかのようだった。しかし、どこか心地いいのはなぜだろうか?涼晴に言われた言葉、だからなのだろうか?
その後、これまでとは比べものにならないほど筆が進んだ依茉。意見をバンバンぶつけ、やはり涼晴の才能の異質さに驚愕しつつも、協力して原稿を完成させていった。
ちなみに、ホワイトボードに『締め切り、明日まで!!』と殴り書きされていたのを二人が思い出したのは、午後十時のことだった……!!!!
面白かったらブックマーク、レビューや感想などご自由にお書きくださいませ!!
枯葉 輪廻のTwitterもよろしくお願いします~ @kareha_henshin