第一章4 『リスタート?』
分かる人にはわかるであろうセリフのネタが仕組まれています。探してみてね.
(今後はもっと露骨なネタが出てきます)
依茉の頭の中は修正液でもぶちまけたかのように真っ白に漂白された。
脳の半分以上が『?』で埋め尽くされたため、体全体が脱力してしまう。それほどに、文月 涼晴から放たれた一言は、彼女の意識に干渉するようなものだったのだろう。
……何故って言われても、私が先生の担当になれるかどうかを見定めてもらうためですよ~。
そう頭の中では考えていても、依茉は問いかけずにはいられなかった。
「も、もしかして……文月先生?」
「はい、文月ですが」
「……もしや私が先生の担当として一週間修行するっていう話は、編集長から聞いておられませんか……?」
おそるおそる。いや、まさかな!ハハハッ!! ……とか思いながら、訊いてみる。
すると眼前の天才はほほえんで、
「はい、聞いていません」
……まるで狙撃されたかのように、木製の床へと丸椅子から転げ落ちてしまった。
~~~
あれから、三十分程度の時間が経過した。
過行く時間の中で依茉は、履歴書だけでは語り尽くすことができぬことを涼晴に説明した。
ここに来るまでに何があったのか、自分がどういったことを志し、編集者として仕事をすることを選んだのか。終始しんみりした空気が漂っていたような気がする。
それはおそらく涼晴が、依茉の全てを肯定してくれていたからだろう。
実際に、依茉もだいぶ話がしやすかった。自分のことを他人に教えるというのは、少なからず恥じらいがともなうものだと思い込んでいたが、今回だけは違った。
親身になって耳を傾けてくれる存在が、ずっと身近にいてほしくなる。
「なるほど、大体わかりました。つまり貴女は、編集社での仕事を真っ当できるようになりたいと。それで私の仕事のアシストをすることになったと。その後は『メイロー』の編集長として、部下をこき使ってやれるような権力を手にしたいと」
「最後以外は全部そうです」
冷静かつ的確なツッコミを入れたつもりだったが、涼晴はどうやら彼女が慌てふためくリアクションを期待していたようで、少々残念そうに口を尖らせていた。
苦笑いをこぼしてから、依茉は早速本題へと切り込んだ。いつにもなく真剣な顔つきだ。
「それで、先生。私は文月先生のお力になれますでしょうか……?」
その言葉を受けてから、涼晴は口に手を当てて考え込むような仕草を見せた。こうして目を細めている表情を見ると、やはり男性的な切長な目が強調されるので、本来の性別がくっきり現れる。
まるまる十秒考え込んでから、涼晴は言の葉を紡ぎ出す……かと思われた。
実際には、彼は立ち上がったのだ。するとどこからか茶封筒を運んできた。依茉もオフィスでよく目にする機会がある、原稿用紙を封入する用のものだ。しかし見る限り、元のサイズよりもかなり膨張してみえる。
重い音を立ててデスクに封筒を置くと、コートの襟を整えてから、扉へと無言で歩を進める。
「えっ!?」
天才の思いもよらない行動に、驚愕の声が漏れてしまう。無骨なドアノブに手をかけてから、身を翻してほほえむ。
「その封筒には、書き溜めておいた原稿が入っています。私はこれから一時間ほど喫茶店でモーニングを食べてきますので……。それまでに赤入れを終えてください。カギは渡しておきますので、何かあったらお願いしますね」
胸元のポケットからカギを取り出し、ひょいと軽く投げる。危なげながらもキャッチに成功して顔を上げた時には、小説家の体はほとんど表へと出ていたのだった。
「え……? ちょまっ……!? えええぇぇぇ!?!?」
絶叫し、勢いのままに立ちあがる。その衝撃で簡素な丸椅子はが床に倒れてしまった。だが彼女にはそんなことを気に留められるほど、心と時間に余裕はない。
「それじゃ、頑張ってくださいね~」
白っちい手を軽く振り、個人事務所を後にする涼晴。その際依茉に向けられた笑顔は、彼女の『喜び』と『焦燥』の二つの感情を掻き立てるには十分すぎる材料だった。
……さてさて、どうしようか。
いくら涼晴が不在だとはいえ、彼の机を勝手に使うのは気が引ける。なので、まずは原稿が封入されている茶封筒を移動させて——
「よっ……! ととっ!? おも……すぎませんかねコレ……っ!?」
バランスを崩しかけながらも、なんとか封筒を持ち上げることに成功。ついでなので封の中身を覗き見てみる。
「………………………………………多い!!!!」
絶叫の波は窓ガラスをうるさく振動させたが、幸い砕け散ることはなかった。
しかし。彼女をそこまで驚かせる、圧倒的なまでの原稿の枚数。ぴっちりと揃えられていて正確な数は分かり兼ねるが、依茉の経験から推測するとゆうに三、四百枚は超えていると思われる。
これを全て。内容を完璧に読み解き。誤字脱字を確認して。文法の誤りなども訂正して。そして何よりも……
「これを…………たったの一時間で、か……」
と、絶望に打ちひしがれている中でも、時間は刻一刻と過ぎていく。彼女の辞書には『待つ』という言葉は掲載されていないのだ。
心と体に鞭を打ち、涼晴の机の隣に備え付けてある、これまた高級そうな机に封筒を置く。椅子を引いて、浅めに腰を掛ける。
目の前の、今までに経験したこともないような圧倒的すぎる強敵に、武者振るいが止まらない。
——いや、これは武者振るいなどではないのかもしれない。
これこそが、依茉の『本性』。編集者としての、社会を回す者としての、使命感。そして同時に、濃密なまでの……『興奮』。
勢いよく原稿用紙を掴み取りにし、茶封筒から引っ張り出すと、自前の赤ボールペンを胸ポケットから取り出す。その瞬間に、彼女の意識は原稿用紙だけに注がれる。
……『諸行交悪』、か。まさか文月先生の生原稿を拝める日が来るなんて思っても見なかったけど。コレも『運命』に次いで人気のある作品だよね……。しかも先生が初めてシリーズものを書き始めた作品で、若年層をターゲットに置いた題材と内容。一巻は既に発売されてるから、つまりコレは続編の原稿……。私が赤入れして、先生が承諾してくれた文章が世間に出回るんだ。絶対に、失敗できない!
スシャッ……スー……トントン、シャシャッ。
ペラッ………………スシャッ……
淡々とした作業の音だけが、事務所内部を埋め尽くす。もはや呼吸することすら忘れ、既に完成しきっているほど崇高な文章に、追加で赤入れをしていく。
今まで教わってきたこと、自主的に学んできたことを存分に活かしても、涼晴のような文章は書けないと痛感する。だが裏を返せば、自分の学んできたことを涼晴という天才に認めてもらえるチャンスでもある。
やばい。やばい。やばい。やばい。やばい。
超 た の し い
いつしか彼女の顔には、笑顔のみが現れるようになった。白い歯を見せ、呼吸を荒げ。今にでも発狂しそうになるほどの興奮に悶えながら、彼女は自分に与えられた『仕事』を真っ当する。煌びやかな汗が頬をつたい、こげ茶の机に音もなく落ちる。
何度も、何度も。玉になった汗をこぼし、しかし笑顔は保ったまま、手と頭を動かす。
依茉のそれは最早、『機械』とも表せてしまうほどの勤勉さだった。手際良く、丁寧な字が羅列された上から、『金鞠 依茉』をぶつけていくようにペンを走らせる。
涼晴の文章だから、というわけではない。彼女はただ、『仕事』ができるということに対して悦びを感じているだけ。自分をありのままに曝け出し、自分を魅せることができる。
それこそが依茉の——
「私の求める、仕事!!!」
~~~
ガラスの向こう。人や車が行き交う景色を眺めながら、彼は優雅にコーヒーを嗜む。
なかなかに洒落ているカップに口を付け、芳醇で香ばしい香りを楽しむように、一口飲み干す。
彼の事務所前にある道路を北上していくと、この喫茶店に着く。距離もそこまで遠くないので、毎朝ここに通うのが日課となりつつある。通い始めて一ヶ月が経つが、従業員には顔と『いつもの』を覚えてもらえるようになった。
厚切りにして狐色に焼かれたトーストに、餡子をバターナイフで薄く塗り広げていく。ちなみに粒餡だ。
しゃむっ、と良い音を立てて一口頬張ると、バターと餡子の風味が鼻を突き抜ける。食パン自体に存在するふわりとした甘さも楽しみながら、咀嚼を開始する。
「むふふ……依茉さんにはいぢわるをしてしまいましたかねぇ……」
というのも、あの量を一時間で終わらせるのは流石に無理がある。試練を突きつけた本人である涼晴でさえ、苦労する作業であることには間違いない。お気に入りの厚切りトーストを飲み込みながら、新人編集者の顔を思い浮かべる。
「しかし美しいものですよねぇ。『働く人々』、というものは」
涼晴がどこか悦に入るような表情を浮かべ眺めているのは、喫茶店の大きなガラス越しに映る早朝の景色だ。
スーツを着こなしたサラリーマンは、電話越しの上司にどやされているのだろう、何度も何度も頭を下げている。
向かいの通りでは、花屋が開店の準備をしている。やはり春といえば花だろう。色彩豊かな花々を、まるで我が子のように愛でている様は愛らしい。
涼晴は、こんな景色を見るのが心から大好きなのだ。
また、流れていく情景が奏でる『社会の音』を鑑賞するのも趣があって良い。
ぎしぎしと、歯車と歯車が噛み合い回っていく音が、人々が目の前を通り過ぎていくたびに聞こえてくる。
——いい? 母さんや父さんが一流でいられるのには、ちゃんとした理由があるのよ。
——理由?
——それは、『社会に対する気持ち』。自分のことや利益のことしか脳にない連中は、社会人とはいえないわ。まずは欲を捨てて、社会奉仕をすることだけを考えるの。そうすれば、自然と幸せは巡ってくるものよ。
『社会の音』を聴いていると、どうしても昔のことを思い出してしまう。母から教え込まれた『社会に対する気持ち』は、今でも薄れることはない。むしろ、歳を重ねるたびにその濃さを増してきているように感じる。
母の教育カリキュラムは一般家庭のものよりはるかに厳しいものだったが、そのおかげでこうして働けていると思えば、安いものだ。
カランカラン……
スパルタ教育の日々を思い出しながら、トーストを半分ほど食べ終わったところで、だれか新しい客が入店したようだった。
反射的に音の発生源の方向へと視線を向けそうになるが、特に知り合いでもないのに顔を合わせてしまっては気まずくなるだけなので、食事を続行することにする。
だが、涼晴の聴覚に入り込んできた客と店員の会話は、彼の食事の手を止めさせた。
「いらっしゃいませ、一名様でよろしかったでしょうか?」
「あ、待ち合わせなんです。このくらいの……髪の長さで、真っ白い髪色した男の人って、こちらにいらっしゃいますでしょうか?」
「あぁ……そのお方でしたら、あちらの窓側のお席に」
「ありがとうございます!!」
最後に礼儀正しくお辞儀をし、客は九十度体の向きを変えて涼晴の座る窓際の席へと歩いてくる。涼晴が用意した、あの茶封筒を両手で抱えながら。
特徴的かつ鮮やかな赤毛に、整った卵型のいかにも女性らしい細い線の輪郭。ピシッとした黒いOLスーツを着こなした、社会人らしい服装。
やはり見間違いなどではなかった。喫茶店にまで茶封筒を持ち運んで、なおかつこれほどまでの明るい笑顔を放てる人間は、彼女しか知らない。そう、金鞠 依茉である。
目を白黒させて明らかなる動揺を見せる涼晴の隣までくると、そこで両腕の限界を迎えてしまったらしい。ひとまず……と言わんばかりに、テーブルに膨張した茶封筒を置く。
「なっ……どっ…………っ!?」
『なぜ!? どうやって!?』と叫んでいたつもりだったが、涼晴の口からはそんな奇怪な音声しか発せられなかった。
何度も瞬きをして、さらには両眼をゴシゴシとこすってみるが、目の前の封筒とスーツ姿の女性は目の前から消滅しない。現実だ。
「どうでしょうか、先生!! きっちり終わらせましたよ!!」
どう、と言われても。
正直、『驚愕』以外の言葉ではこの事実を言い表せない。それだけのことを、目の前の新人編集者は完遂してしまったのだ。涼晴でさえ苦悩するであろうという、まさしく試練にふさわしい『仕事』を。
開きっぱなしで口内が徐々に乾燥しつつあることに気づき、小刻みに震える手でコーヒーカップを口元まで運ぶ。ごくり……と固唾と共に飲み込んだコーヒーは、なんだかいつもよりも苦味が増して感じられた。
あくまで冷静を装うように一つ咳払いをしてから、
「ふむ……ふむふむ…………。と、ともかくお疲れ様でした……。それにしても、だいぶ早く終わりましたね……?」
右ポケットに常備している古びた懐中時計を開き、時間を確認する。
『七時五十一分』と、長針と短針がそう伝えてくる。涼晴が事務所を後にしたのは七時二十五分。つまり彼女は、この膨大なまでの仕事をたったの三十分ほどで終わらせたということになる。
天真爛漫な笑顔を見せる依茉に、今では少し恐怖を覚えてしまっている自分がいる。
最早彼女の吐く次の台詞すら、耳を塞ぎたくなるほどだった。
「早い……そうですかね? まぁ強いて挙げるなら、私が先生の作品が大好きだから……ですかね」
「……と、言いますと?」
「この原稿、あの『諸行交悪』の二巻の原稿ですよね? 多分もう少し足す必要があるのは、先生も既にお分かりでしょうけど……。私、この作品大好きなんですよね。あ! 勿論『運命』も大好きで読んでますよ!? 初版のサイン付きの物もしっかり購入させてもらいましたし!!」
「そ、それはどうも…………」
今までにないほどの熱量で迫ってくる彼女は、分かりきっていたことだが『涼晴オタク』であるようだ。そっと苦笑をこぼしておく。
「それでですね! やっぱり『良い作品』だからこそ、仕事の手が進んだ……のかもしれませんね。まさか新人の私なんかが、文月先生の原稿に赤入れできる時が来るなんて、夢にも思いませんでしたから」
コレは……とんでもない逸材にであったかもしれない。
涼晴は、自分の運の良さに大層歓喜した。しかし同時に、何故こんなにも勤勉な彼女が何度も担当交代をされてきたのか、不思議で仕方がなかった。
疑問は残るが、今は考えても仕方のないことなので、そっと茶封筒の中身を取り出してみる。
周りの目など気にするそぶりも見せず、彼は赤入れが施された原稿を読み進めていく。
一枚、また一枚と、目玉をぎょろぎょろ動かしながら。終いには双眸を少し血走らせ、必死に赤文字を含めた自分の文章を読んでいく。
横を通り過ぎた客や店員は、涼晴の狂喜的なその様子に心底驚いた事だろう。
——読破した頃には、既に八時半になっていた。作家であり、読書家でもある涼晴が読み切るより早く、依茉は赤入れを終えたのだ。
片手で顔面を覆い、指の隙間からチラッと彼女の方を見る。
自分が修正したものを見られていることに緊張しているのか、それとも恥じらいを感じているのか。頬に紅を刺し、落ち着かない様子で店内をキョロキョロと見回している。
——自分に自信がない……? いや、そうではありませんね。気づいていないだけでしょう。コレは……どうやら好機が巡ってきたようですねぇ……。
彼女に悟られないように微笑する。慣れた手つきで原稿用紙を、元通りに封筒に封入していく。
「完璧、ですね。よくもまぁこれだけの量を短時間で終わらせられますね。正直、期待以上の出来です」
「本当ですか!? じゃあ……!!」
「はい。一週間ほどにはなりますが、よろしくお願いします」
その言葉を聞くや否や、彼女の顔から緊張の色は綺麗に消え去っていった。代わりに眩しい笑顔が、ぱぁっ! というオノマトペが出てきそうなほど浮かび上がってくる。
彼女の胸中の不安が支配を解いたことを確認した涼晴は、いつもの優しい調子で話を始める。
「ふふふ……本当にいい笑顔をしますねぇ、貴女は。……ところで、貴女は私がついていた二つの『嘘』に気づけたでしょうか?」
唐突におかしなことを口走る。彼の発言には気分が有頂天の依茉も驚き、背筋をピクッと躍動させた。
「うぇぇ!? う、嘘……ですか!?先生何かヘンなこと言ってたっけ……」
色々な仕草で考え込む彼女は、徐々にその動作の速度を上げていくため、まるで千手観音のように見えた。
しかし努力も虚しく、何も手がかりすら掴めないようだった。
「まずは、『貴女が私の事務所に来る事を私が知らなかった』、ということです」
「えぇえぇ!? なんでそんな……」
「私の遊び心と言いますか、お茶目と言いますか?」
「なん……っ!? ほ、本当にびっくりしたんですよ!?やめて下さい!! あと全然お茶目じゃないですぅ!!」
頬を膨らませ、あからさまに憤慨している。しかしまだ『嘘』は隠されている。
「ふふふ、ごめんなさい。あとは、その原稿にも嘘が隠されています」
骨ぼねしい白い指でさしたそれは、件の膨らんだ茶封筒。
依茉は思わず、首をかしげた。コレのどこが『嘘』になるのだろうか?
「貴女は一通り目を通しているのと思うのでわかると思いますが……妙に読みづらくなかったですか?」
「あぁ……言われてみればたしかに……」
依茉は作業中、涼晴の生原稿に対して抑えきれない興奮を露出させていた。プラス、仕事を完璧かつ迅速に終わらせなければという使命感の中で戦っていたためか、その時は何故か気にならなかった。
『あの涼晴にしては、文章が読みづらい』
「あれはですね、わざと読みづらくしておいたんですよ。編集長から、『試練を与えられた勇者がそっちに向かうはずだからヨロシク!!』という半ばふざけたメッセージが届いたので、『試練』とやらのために用意しておいたんですよ」
……なんか、怒りを無理矢理抑えていそうな口調だった。
「そ、そうだったんですか……!! 今思えば確かに、誤字が多かったりだとか、読み手に伝わりづらかったりだとか……。そんな箇所がいくつもあった気がします……」
「ふふ。ちなみになんですが、その間違いを一つでも取りこぼしていたら、貴女は採用しないつもりでした」
衝撃の事実に、思わず汗が吹き出る。
依茉は大層、自分の社会人魂もとい生真面目さに感謝をしたという。
「ですが、見たところどこも取りこぼさずにきちんと修正ができているようでしたので。貴女ならば、私の文章を預けられると思った次第です」
そう言われると、なんだか心が温まる感覚を覚えた。ようやく自分のしてきた努力が認められた気がして、目頭に熱がこもるのを感じた。
涙がこぼれそうになるのを必死に抑え込んでいると、涼晴はおもむろに席を立ち、コートの襟を整え始めた。
「そろそろ事務所に戻りましょう。時間は有限、努力は無限。一刻が惜しいですから、すぐ仕事に取り掛かりますよ」
「は、はい!!」
亜麻色のコートを軽く翻し、意気揚々と店を出ていく。
レジに向かわなかったことに驚いた依茉だったが、元いた席をよくよく見ると、小銭がいくらか置かれていた。欧米文化マシマシなそのやりとりは、涼晴いわく「それも『いつもの』のうちの一つです」とのこと。
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「しかしまぁ、本当に良くやりましたね……。本音を言うと絶対に不可能だと思っていたのですが……」
「そこまで期待されてなかったってことでいいですか?」
「はい」
ここまで潔い返事だと、言い返す気力すら起きない。
二人は会話を交わしながら、朝の街を踏み歩く。通り過ぎていく人々の顔は、まさに十人十色といったところ。太陽のように明るいものもあれば、宵闇のように暗いものもある。出勤に対する心持ちはやはり、それぞれ違うようだ。
二人のように必ずしも仕事をしているとは限らない。そういうところも、涼晴は趣があると思っているのだが。
「事務所に戻ったら、まず何から取り掛かりましょう? 今回の原稿を含めて、終わらせないといけない原稿ってありますよね」
「そうですね……まずは机の整理からしたいですねぇ。ほら、あるあるじゃないですか?試験勉強を始めよう!! と殊勝な心がけはあるのにも関わらず、机の整理を始めてしまうという。貴女もきっとわかって…………」
ぞくっ…………
ふと、嫌な雰囲気がその場に立ち込めた気がして、涼晴は立ち止まった。
冒険をしている勇者パーティーの如く、依茉は涼晴の背にくっつくように歩いているはず。ならばこうして涼晴が立ち止まれば、彼女のゆく道は塞がれる。
つまり、衝突という事象につながる。もしくは「あ、危ないじゃないですか!! 急に立ち止まらないでくださいよ!!」という元気な声が聞こえてくるはず。
だが、可能な限り『現実』に近づけて予測できる事象は、何一つとして起こることはなかった。
嫌な雰囲気は消え去るどころか、時間の経過とともに肥大化していくようにさえ感じる。まるで、背後から刃物を突きつけられているかのような——
「…………ッッ!」
冷酷なまでの気配を押し除け、勢いのまま振り向いた時には……|居《・》なかったのだ。
居るべき人が。これから仕事を共にしようと計画を企てていた、あの新人編集者が。
息が詰まる。呼吸をしたいと思考しても、肉体がそれを拒否しているかのよう。金縛りのような現象に襲われる。
だがそれすらも振り払い、硬直が解けた直後、涼晴は視線を歩道へと下ろす。
「や……られたッッ!!」
彼の視線の先には、水面のように揺らめく歩道があった。通常ならばこんな物理法則を無視したような現象は起こるはずがないのだが、涼晴は『これ』がなんなのかを熟知している。
鋭く毒づくや否や、彼は踵を返して疾駆する。亜麻色のコートと白い長髪が、風にたなびく。姿勢を低くし地を這うように走るその姿は、まるで荒野を駆ける獣のようだ。
波のように押し寄せてくる人々を身軽な身のこなしで避けながら、速度はそのままに走行を続ける。どうやら迷惑行為みたかったが、彼には時間がない。
しかし時間がないのは彼だけではない。
金鞠 依茉——彼女もまた、時間によって運命が左右されることになりかねない状況にある。
最悪の事態を避けるためにも、急ぐ。普段なかなか見せない険しい顔つきで、彼女の無事を祈りながら。
単なる心配を含んだだけではない嫌な汗が、頬をつたって落ちていく。
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