第一章3 『天才小説家との遭遇』
楽しんで読んでいってくださいな!!
「ほええええええ!? あな……あなあな! あなななな!? あなたがあああ!?」
いつものオフィスでこんなことをすれば、たちまち編集長なり同期なりからの叱責を受けるところだが、今はそんな言葉すら聞こえてこない。
依茉は今、編集長から貰い受けたメモに書いてあった住所、つまり彼女が担当することになった作家の個人事務所にいる。
目の前にあるのは編集長のものと比べてもさらに大きい、作業用の机。高級感に溢れるそれだったが、机上は溢れんばかりの原稿用紙と多種多様な筆記具で埋め尽くされている。ハッキリ言って、彼らが品位を損わせている。
その奥には、またまた高額そうなワークチェアに腰掛けている男がいる。
恐ろしい事に、依茉の破滅級の威力を誇る絶叫を受けても、耳を塞ぐ動作を見せなかった。
しかしそれなりのダメージはあったようで、頭を軽く左右に振って調子を取り戻したようだった。
「元気がいい人ですねぇ。そうです、貴女が言った通り私が……」
——その名を知らぬものは、二千六十二年現在で、おそらくいないだろう。それだけ名が売れている。顔が広い。超がいくつも付くほどの、著名人。
同時に依茉が密かな憧れを心に灯している人物でもある。
「私が、文月 涼晴です」
彼は淡々と述べたものの——自分のペンネームなので当然だが——、依茉にとってはにわかに信じがたいことである。なにしろ、あの「文月 涼晴」だ。日本を代表する小説家の一人に仲間入りを果たした、小説界のダークホース。
——齢二十二にして「天才」とまで称される偉業を成し遂げた、まさに生ける伝説。十九歳という若さで、かの有名な文学賞「芥川賞」を見事受賞。瞬く間に彼の名は世間に知られ、彼の受賞作「運命」は一千万部を売り上げるベストセラーとなった。
めでたく涼晴の代表作となった「運命」だが、ジャンルとしては冒険小説である。
主人公の人間として成長していくさま、旅をともにする仲間と深めていく関係。そして何より、登場人物の決断。それら全てが相乗するかの如く読者の感性を刺激し、何度読み返しても飽きない名作に仕上げられている。
文月 涼晴の凄まじさを引き立てているのが、執筆する小説の「ジャンル」である。
当然受賞後も彼は続々とヒット作を生み出しているが、なんと一つのジャンルに拘泥することなく、多様な作風、題材で小説を書いている。
今ではライトノベルにも注力しているようで、若年層からの支持は確実なものとなってきている。
金鞠 依茉の脳内メモリーには、これらのことが記録されている。本人がメディアに顔を出すことをあまり好まないため、こうして顔をしっかりと拝見するのはこれが初めてだった。
彼の凄さというのは語り切ることもできないほど多い。それらすべての要因が重なり、この状況に依茉が驚愕しているのだ。そして——
……何故、新人である自分が、こんな天才と共に仕事をすることになったのか!!
目の前の天才が何度瞬きをしても消えない事を諦め、ついに彼女は口を開いた。正直いい意味で会話したくなかったが。
「あなたが……文月先生、なんですね?」
「いかにも。私が文月です」
「……聞きたい事は山ほどあるんですけど、まず一つ目、聞いてもいいですか……?」
「はい、私に答えられる事ならなんでも答えますよ」
天才と称される彼は、依茉が思っていたよりも物腰柔らかで紳士的だった。そう思うと、彼女の心は軽くなった。
「あの……さっきまで私達がいた場所って、一体どこなんでしょうか? この事務所の中……な訳ないですよね」
——ちなみに、悲惨な事実をひとつ。
依茉が目指していた事務所は住所こそ合っていたものの、扉の位置が違っていたらしい。
彼女がノックしようと試みた扉は、涼晴いわく裏口だという。あのままだったら順当に遅刻していたということだ。
依茉が尋ねると、涼晴は自然な動作で口元に手を当てた。考え込むような仕草を見せるとひとつため息をつき、チェアから立ち上がった。
「やっぱり、気になっちゃいますよねぇ。気持ちはわかりますよ。死ぬかも知れない経験をしたんですからね」
「そ、そりゃ気になりますよ!! あんな漫画みたいなこと……!!」
わかりやすく動揺する依茉を横目に、彼はどこからかホワイトボードを尻尾に引き連れ、彼女が座る丸椅子の前まで移動してきた。
直後、彼は何も言わずにクリーナーを使って、文字だらけでほぼ真っ黒だった盤面を消していった。
……『締め切り、明日まで!!』とすみっこに殴り書きされたそれを、依茉は見逃さなかった。
「あまり一般人には……公表しないように言われているんですが……『なんでも答える』と言ってしまったことですし、仕方ないですね……っと」
きゅ、きゅーとボードマーカーを走らせ、上の方に講座のタイトルらしきものを記述した。鼻歌を歌いながら文字を書き連ねていく彼の様子を黙って見ていた依茉は、意外にも可愛らしく動く天才を見て、ほほえましい気持ちで心が満たされていた。
一通り書き終わると、彼は胸ポケットから黒縁の眼鏡を取り出し、慣れた手付きで装着する。
「それでは、今日は文月 涼晴の、『あなたもこれでよく分かる!? 謎の世界講座!!』にお越しいただき誠にありがとうございます」
……なんとも胡散臭い、悪質商法の勧誘かなにかに使われていそうな講座名と立ち振る舞い。思わずぽかんとしてしまった。
「まずは大前提として、貴女が迷い込んでしまったあの空間は何だったのかについて、説明させていただきますね」
「は、はぁい!! よろしくお願いしまぁす!!!!」
なんだか変なテンションだった。
「あの世界には一応名前がありまして、私のように自由に出入りできる人間の間では、『裏社会』と呼ばれています。こちらの世界……つまり現世の何処かに『扉』があり、そこから入ることができます。周囲が虹色に光り輝いて見えていたと思うのですが、あれは現世から流れ着いた、人々の『感情によるものです」
「か、感情……ですか? 建物とか岩とか、それ以外の全部が全部虹色だったから、つまりあの世界そのものが人間の感情で創られてるってことですか……!?」
おそるおそる尋ねると、涼晴はトレードマークである柔らかな笑みを浮かべた。
「その通りです! 飲み込みがお早いようで、大変助かります」
「い、いやぁそれほどでも……。仕事がら、ファンタジックな設定とかには慣れてますから」
そうは言っても、実際に自分が立ち会ってみてこうも早く事態を飲み込めるものだろうか。飲み込めてしまう依茉も依茉である。
「……さて。人の感情には、必ずしも喜ばしいものだったり、綺麗なものだけがあるとは限りません。良く煩悩とも呼ばれますね。憤怒、嫉妬、恨み……それは星の数ほど存在しています。いわゆる『負の感情』は、あのような美しい光を放つわけではないんですね。『負の感情』が密集し、一つの生命体として受肉したものが、あなたに襲い掛かってきた怪物です。一般的には『負』、と呼ばれていますね」
彼の言葉を聞いた途端、依茉は自分の背に冷や汗が伝ったのを確かに感じ取った。
自分を襲い、挙句食らおうとしていたあの異形の怪物は、人の感情による産物だというのだ。人の悪意によって自分は殺されかけたのだと思うと、すぐにでも人間不信になってしまいそうだ。
「ど、どうして私を襲ってきたのでしょう……?」
「さぁ、何故でしょうね。低俗な彼らのことですから、おおかた小腹でもすいていたとかそんなところでしょう」
ごほん、と咳払いをしてから、再び彼は『裏社会』についての説明を開始する。
「彼らのことは一旦忘れてもらって……。こっちの世界で政治が行われているように、『裏社会』にも権力者がいるんです。それがかの有名な、『七福神』の方々です」
「し、『七福神』!? 神様ってホントにいるんですか!?」
七福神といえば、日本においてはかなり有名な神々であろう。「七」と付く通り、七つの福を授けてくれるという話が最も知られている。
大黒天、恵比寿天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋尊。彼らの名前を聞いたことのない日本人の方が、珍しいだろう。おそらく涼晴の名よりも名を馳せている。いや当たり前か。
もちろん依茉もその名を聞いたことがあるのだが、その姿を拝んだことはない。あるほうがおかしいと思う。
人々の感情が渦巻いて形成されている世界、というのでも既にファンタジックだが、神様が出てきてはその要素がさらに濃くなる。
「えぇ、いますよ。なんなら顔合わせしたこともありますし」
まるでそれが常識と言わんばかりの調子で話す天才に、今に始まった事ではないが呆気に取られてしまう。
時々IQが二十離れていると会話することが困難と言われるが、最早そんな次元ではない。
どれだけ頭のネジを吹っ飛ばせるかがカギだろう。
「それであの怪物たちを、先生は相手していたんですよね。……あれ? なんで対等以上に戦えてたんです?」
「ここにきて素朴な疑問ですね……。まぁついでに話すつもりでしたので大丈夫ですけど」
そう告げると、またホワイトボードに何かをつらつら書き始めた。
『七福神』と書かれたところから矢印が伸ばされ、その先には簡素な人間のシルエットが描かれた。
「私があのようにして『負』と戦えていたのには、『才能』が与えられているからです。ここで言う『才能』というのはですね、よく漫画で主人公が魔法を使ったりしますが、あれと同じようなものです。特別な力……超能力の一種だと思っていただいて相違ないでしょう。この図の通り、『才能』は『七福神』から直々に授けられます。『才能』を与えられ、戦士として覚醒した人々は『才能人』と呼ばれていますね」
「ほえぇ……。じゃあ、先生の『才能』はあのふよふよ浮かんでた文字ってことですか?」
「そうです。因みに、私の『才能』は『言葉を紡ぐもの』、といいます。メモ帳と万年筆を使うことで、文章に関係する力が使えるようになります。……さて、さらに『才能』について深掘りしますが、実は誰でも譲渡される力ではないんですよね。適性がなければ、『七福神』は『才能』を与えてはくれません」
「ど、どういうことですか?」
「少し残酷で失礼なことを言ってしまいますが……例えば、私と貴女、どちらが文才に恵まれているでしょう」
そんなこと聞くまでもない。涼晴はだいぶ恐縮している様子だったが、失礼でもなんでもない。彼の実力に見合った発言だと言える。依茉の心が痛むことは微塵もなかった。
「そんなの先生に決まってますよ!!」
「まぁ、そうなりますよね……本当にすいません。しかし、つまりはそういうことなんです。この日本で、ある分野において類い稀なる才能を持った人間のみ、『才能』を授かることができるんです」
——才能。仕事をする場面では、耳にする場面が良くあると依茉は思っている。それはその人だけが持つものであり、血のにじむような努力を重ねたもののみが持つことを許される力。
しかし、ここでいう『才能』というのは、あの化け物と対等に渡り合うための『力』のことである。それを彼は持っている。確かにこの目で見たのだ。色とりどりの文字が飛び交う中で、心の底からの笑みを浮かべている男の姿を。
一概に才能といっても、目の前で必死にホワイトボードに羅列された文字を消している男のように、生まれつき持っているということもある。依茉はそういう人間に対して心底嫉妬したものだ。
だから自分にそれがないと理解した瞬間に、彼女は彼ら才能人との隙間を、努力で埋めることを決意した。だからこそ、あの編集部にも入社できたのだと思う。
無欲に生きてきたつもりだったが、この人のようになれたら……とつい思ってしまう。少々の嫉妬心が見え隠れするような表情で、
「じゃあ先生は、『七福神』にも認められるくらいの文才があるってことですよね。ちょっと羨ましいなぁ……」
——訂正。隠しきれていなかった。
届かぬところに彼がいるのは分かっていても、羨んでしまうのが人間の性というものである。
ぽつりとため息をつく愉快な女性に、涼晴はまたまたほほえみ、肩から振り返るようにして言葉を投げかける。
「貴女だって、何か誇れることはあるのでしょう?輝くものを持っていない人間の方が、私は珍しいと思いますが」
輝くもの。ピクリと肩を動かしてから、依茉はそれについて思考を回した。
努力の末に手に入れた、今の仕事。確かに、改めて考えてみれば編集部に入社することができたのも、自分がそれに見合った力をつけたからだという証拠で——
「あ…………ああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
突如、依茉は絶叫した。
体のどこかに異常をきたしたとか、不可解なものを見てしまったとかではない。
ただただ、大切なことを自分がすっかり忘れていることに気づいたのだ。
……背面で受け止めたからよかったものの、正面から咆哮を喰らっていたらおそらく命はなかったであろう。涼晴は跳び上がり、事務所の低い天井ギリギリまで頭を近づけた。その際ホワイトボードの縁に脛をぶつけ、結局悶絶する結果に終わった。
流石の文月大先生もこれには黙っていられず、涙ぐんで彼女の方へと振り向いた。
「い、いきなり発狂しないでください!! 心臓飛び出たかと思いましたよ!!!!」
この小一時間で一番慌てている涼晴を見た依茉は、できる限りの速さで何度も頭を下げた。それこそ脳がジュースになってしまうくらいに。
「すみませんすみませんすみません!! 私つい叫んでしまう癖があって!! そ、そんなことより……先生、これを!!」
ゴソゴソと、肩掛けにしているカバンの中を漁り出す。一つのクリアファイルを引っ張り出し、勢いよく涼晴に突き出す。
当の涼晴はというと、クリアファイルをそっと受け取ったのちに神妙な顔つきでデスクへと戻っていった。
再度ワークチェアに腰掛け、まじまじとクリアファイルを眺める。それの中には、とある書類が収められていた。
綺麗というより可愛い部類に入る顔つきをした一人の女性の証明写真や、その女性の経歴などが記されている。間違いなく、これは『履歴書』である。
依茉が不意に思い出したことは、朝早くからこの小さな個人事務所へと足を運んだ理由だった。編集長からの命で、目の前の天才の『担当編集』を一週間だけだがすることになったのだ。
本来の目的を思い出してから、一気に汗腺が緩む感覚が全身を襲った。冷や汗か、脂汗か。どちらにせよ嫌な汗が滝のように溢れ出ていく。
あの文月 涼晴に自分の経歴を見られていると思うだけで、緊張感が沸々と湧き上がる。
頬杖をつきながら、未だ眉をひそめている涼晴。何か、依茉の経歴で癪に触るようなことがあったのだろうか?考えるだけでも血液が凍るようだった。
今や日本を代表する小説家に駄目押しをされてしまったら、流石の依茉でも立ち直れる自信がない。
先程まで穏やかだった事務所の雰囲気が、突き刺さるような緊張感に覆われていくのがわかる。
だが、履歴書を読み終わったと思われる天才から放たれた一言は、まるで予想もしていなかった言葉だった。
「金鞠……依茉さん。貴女は何故、『これ』を持ってきたのですか……?」
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