7 悪役令嬢、義弟と再会する③
執務机へと戻ったアクアは、ふぅーっと大きなため息をついてそのまま倒れ込んだ。
同じ銀髪なのに彼の髪は柔らかくてふわふわだ。窓から差し込む陽光に照らされるその様は、まるで綿毛のよう。とても可愛らしい。
思わずその頭を撫でようと手を伸ばしかけたところで、ぴくりとアクアが顔を上げた。慌ててシルヴィアは距離を取る。
――室内に、再び沈黙が訪れた。
チュピチュピ、と窓の外で小鳥が鳴く声だけが、やけに響く。アクアはそんな鳥を探すかのように窓の外を眺めているが、虚ろな瞳には何も映っていない。
やがて、窓の外に目をやったままアクアはポツリと呟いた。
「義姉上……僕がクレージュ家に引き取られた時も、絵を描いていたのを覚えてる……?」
「えぇと……どうだった、かしら……?」
話の方向性が見えないまま、シルヴィアは戸惑いつつも記憶を振り返る。
「その様子じゃやっぱり、あの時の会話も忘れてるよね……」
そうだと思ったけど、と嘆息しながらアクアは思い出話を始める。
「クレージュ家に引き取られたばかりの頃の話だ。
家族と突然引き離されて、僕は屋敷に来たばかりの頃どうしようもないほどホームシックに掛かっていた。――日常生活に支障はなくても、誰も僕を見てくれない、気に掛けてもらえないっていうのは子供心に結構堪えてさ」
「ごめんなさい、貴方の気持ちに気づけなくて……」
良いんだ、とアクアは首を振る。とにかく最後まで僕の話を聞いて、と。
「それで寂しさを持て余した僕は、勉強の合間に前の家族の肖像画を描くことにしたんだ。せめて絵の中だけでも家族と一緒に居られるように、彼らを忘れないようにって。僕が飾るのに一枚、家族に送るのに一枚。
――言っちゃなんだけど僕、結構当時から絵を描くのは得意だったんだよ? それなりの出来になっていたと思う。それで、それが完成する頃……義姉上が偶然現れた」
そこまで聞いても記憶が蘇らないまま、シルヴィアはただ黙って彼の話に耳を傾ける。
……なんだろう、このヒタヒタと迫り来る嫌な予感は。
「それで義姉上に何してるのって訊かれたからさ、さっきの話をしたんだ。そうしたら義姉上……何言ったと思う?」
「何を……言ったの」
「『それなら腕利きの画家を紹介しましょう、その方が素人よりも貴方の家族そっくりの絵を描いてくれるわ』、そう言ったんだよ、貴方は!」
「…………っ!」
――覚えていない。全く覚えていないが、しかし。当時の自分なら言いそうなことである。
今なら、それの何が悪いのか理解できるけれど。
「僕さ、怒られるのなら覚悟していたんだよ? 『もう貴方はクレージュ家の一員なんだから、前の家族のことは忘れなさい』って言われるなら、仕方ないと思ってた。新しい家族に溶け込めるように頑張ろうって。
……でも、違った。貴方は百パーセント善意で、親切のつもりで、僕の気持ちをにこやかに踏みにじった……っ!」
今でもその記憶は、アクアの感情を逆撫でするらしい。ふーっふーっ、と肩で息をしながら、アクアは涙目でシルヴィアを睨みつける。
「びっくりしたよ。『誰が』『何を思って』描いた絵なのかなんて、まるで気にせず、『絵としての完成度』だけを価値として捉えられるなんて。
……それがトラウマになってさ、僕はそれから自分の絵を評価されるのをどうしても受け付けなくなった。絵を描くのは、やめられなかったけど」
「そんなことが……ごめんなさい」
記憶にないということは、シルヴィアにとってそれは本当に些細な出来事だったのだろう。そんなひと言がアクアに暗い影を落とすことになるとは、思ってもみなかったのだ。
それがまさか、ゲーム原作での設定にまで反映されるほどの大きな影響を与えていたなんて。
悪気はなかったなんて、言い訳にしかならない。
シルヴィアはただ大人しく頭を下げる。
「……良いんだ、僕が勝手に傷ついただけだから」
やがて落ち着いたらしいアクアは、激昂した自分を恥じるように目を逸らしてボソッと呟いた。
「だから、義姉上があの絵をそんなふうに評価するなんて、驚いた。……知らないうちに随分変わっていたんだな、義姉上は」
「まぁ以前とは変わったと思うわ、色々な意味で」
その「色々な意味」が、まさか前世の知識の獲得とは思わないだろうけど。
その答えにしばらく考え込んでから、ねぇ義姉上、と目を合わせないままアクアは言葉を続ける。
「ずっと、気になっていたんだ。……義姉上は、何のために努力をするの? 頑張って心をすり減らすことに……意味なんてあるのかな」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
――どうしてその質問を、今このタイミングで。
思わずそう声を上げそうになったのを、なんとか飲み込んだ。
興味のない顔で何気ない声で呟きながらも、アクアの身体に力が入っているのは一目瞭然だ。彼は真剣に、その問いに対する答えを待っている。
でも、だからこそ、その質問はおかしいのだ。
――だってその質問は。
――好感度が高くなってきたタイミングで、彼がヒロインに対してするものなのだから。
その時のヒロインの答えで正解となる選択肢は、「努力なんて思ってない。好きなもののために頑張れるって楽しい!」だった。
それに対してアクアが「そうか。君のためなら、僕も楽しいって思えるのかな」と答えて、アクアルートが第二段階へと進むのだ。
でもそれは所詮シナリオの話だし、その答えはシルヴィアの答えではない。
慎重に言葉を選びながら、シルヴィアはその問いに対しての自分なりの答えを口に出す。
「自分が望む結果のために、後悔しないため……かしら」
「その結果、目的が果たせなくても? 無駄だったとは思わない?」
「そのために全力を尽くして、それでもダメだったのなら本望よ。何も悔いることはないもの。結果を受け入れることは……できると思う。
悲惨なのは、まだできることがあったのにそれをせずに失敗したとき。頑張れば手に入ったかもしれないのにそれを怠ったなんて、後から気がつくのは辛すぎるわ」
それにね、とシルヴィアはにっこり続ける。頭の中には、クレイのことを思い浮かべながら。
「自分の夢のために頑張れるって、楽しいことよ。それだけで夢に近づいたような、前向きな気持ちになるもの。きっとこの想いは……無駄にならない」
「……どうせ義姉上の夢って、聖女になることでしょ」
「それだけじゃないわ、もちろん」
「え」
意外そうに目を丸くするアクアを見て、シルヴィアは微笑むだけにとどめる。――流石に、義理の弟に己の恋愛事情について知られるのは恥ずかしすぎるから。
――気がつけば、窓の外は暗くなり始めていた。
「あら、もうこんな時間。時間を取らせちゃって、ごめんね。それじゃ、失礼するわ」
他の属性騎士の話を聞くことはできなかったが、義弟との会話としては十分実りあるものだったように思う。
「……明日も、別の属性騎士のところに挨拶に行くつもり?」
ぼそりとアクアが尋ねる。
「ええ、そのつもりだけど」
「……ても良いよ」
「え?」
アクアの声が小さすぎて、何と言っているのか聞き取れない。首を傾げて聞き返せば、怒ったようにアクアは繰り返した。
「だーかーらっ、オリヴァーは僕の寄宿学校時代の先輩だから、紹介しても良いって言ってるの!」
「オリヴァーって炎の属性騎士の……? 良いの?」
照れ臭そうに、ふい、と横を向いたまま、アクアは言葉を続ける。
「僕はあの時義姉上に言った言葉を、間違いだったとは思っていない。でも、今の義姉上なら……挑戦してみるだけの価値はある、んじゃないかな」
「っ! 嬉しいわ!」
「あーもうっ! 鬱陶しいなぁ、そんなに喜ばないでよ! ……それじゃまた明日ってことで」
最後は強引に部屋から押し出されながらも、シルヴィアは振り返って言う。
「ええ、また明日ね、アクア――」
そっぽを向きながらだけれど、それでも可愛い義弟は小さく手を振って、ちゃんとそれに応えてくれたのだった。