35 護衛騎士、回想する④
それから彼は、時間の隙間を見つけてはシルヴィアをいろいろな場所へと連れ出した。時には教師を煙に巻いて休みを創出したり、馬車の不具合に見せかけて道中の時間を稼いだり。
クレージュ家の関係者に目撃されないように、怪しまれないように、というのは細心の注意を払っていた。その分持てる時間は少なく、頻度も低かったが、それでもそうした寄り道ではシルヴィアはいつも嬉しそうだった。その時だけは全力の笑顔で、全力の喜びを表現していた。
それを見て、クレイの心もひそかに慰められる。……当時はその喜びが彼の大きな支えとなっていたことに、自覚はなかったけれど。
――そんなある日。
「クレイ、貴方、今日は随分機嫌が悪そうね」
「え……そう、見えますか」
シルヴィアの何気ない言葉に、クレイは一瞬どきりとした。動揺を顔に出さないように、注意深く返事をする。
シルヴィアはその反応を気にした様子もなく、大人びた所作で肩をすくめた。
「きっと、私の勉強中にまたお父様からの呼び出しがあったのね。貴方、お父様と会ったあとはいつも不機嫌だもの。大丈夫? 辛く当たられたりしていない? お父様は、難しい方だから……」
「驚いた。……俺のこと、よく見てますね」
シルヴィアの指摘の通り、クレイはクレージュ家の当主から定期的に呼び出しを受けていた。『教会の狗』であるクレイのことを、当主が警戒していたからだ。
教会に余計なことを言わないように、余計な真似をしないように、とクレイに頻繁に圧力を掛けなければ、安心できなかったのであろう。
といっても、彼が心配していたのはシルヴィア本人のことではない。彼が憂慮していたのは、ただ一つ。教会にシルヴィアが取り上げられることで、『現役聖女を輩出したクレージュ家』という称号がなくならないか、ということだけだ。
――そして、今日もどうせ同じ話だと、思ったのだが。
(参ったなぁ……警戒していたのに、いつ見られていたんだろうか)
今日は突然、「シルヴィアにあまり近づくな。余計な世話を焼くのは身のためにならんぞ」と当主から恫喝されたのだ。「二度は言わん。次は、護衛騎士の変更を願い出る」とまで。
(まぁ聖女の託宣によるコネだから、簡単には放逐できないと思うけど……警戒されるのは、面倒だなぁ)
上手く立ち回れなかった自分に、腹が立つ。
その腹立ちが、どうやら所作に出てしまっていたのだろう。シルヴィアに指摘される未熟な自分を恥じる。普段から「いつも薄ら笑いを浮かべて、何を考えているかわからない」と評されている自分が、まさか彼女に内面を見透かされることになるとは。
だが、自分のことをわかってくれている、心配してくれているというのはくすぐったい感覚だ。初めて覚えるその感覚は、胸の奥をぽっと温かく灯す。
そんなクレイの内心の葛藤などいざ知らず、シルヴィアはなんてことないような顔でにっこりと笑う。
「クレイのことは大好きだから、よく見てるもの。見逃すわけがないじゃない。悩みがあったら、相談に乗るわ」
「え……おじょーさま、今なんと……」
「? 相談に乗るわ?」
「そうじゃなくて……」
言い淀んだクレイを見て、ああ、とシルヴィアはにっこり笑う。
「ええ、大好きよ。大切な、大切な私のお友達。だから、隠し事なんてしたら承知しないんだから」
「……っ!」
そうだ。彼女の言葉には、いつも嘘がなかった。
当初は嘘も心もないその言葉に価値を見出すことはなかったけれど……いつからだろう。彼女の言葉には、声には想いがこもるようになっていた。まっすぐに、感情を伝えてくれていた。
――初めて向けられた、「大好き」の言葉。嘘の混ざらない、真摯な感情。
その痺れるような甘い衝撃に、しばしクレイは立ち尽くす。
そんな彼の横をすり抜けて、シルヴィアは身をかがめて何かを摘んだ。
「大好きなものは、全部クレイが教えてくれたのよ。ほらこれ、グローサの花。……覚えてる? 私にこれを初めて見せてくれたときのこと。――私ね、お花の中ではこの花が一番好き。クレイと過ごした、大切な思い出のあるお花だから」
くるり、と一輪の花で指輪を作ると、それを指にはめてシルヴィアはにっこりと笑む。
「……っ!」
その瞬間、彼を取り巻いていた世界ががらがらと崩れ落ちた。
――ずっと、幼い少女のままだと思っていた。聖女になるのは、「いつか」の話だった。
でも、彼が気まぐれに与えた思い出はいつの間にか数を重ね、彼女は知らないうちに成長をしていた。共に過ごした時間は、いつしかクレイにとっても忘れられないものとなっていた。
そして、彼は致命的なことに気が付いたのだ。
以前のシルヴィアは、「花は美しい」「美しいものは好ましい」。――それで、終わっていた。聖女として必要な感性は、それで十分だった。
何の花が好きかなんて、彼女には必要なかったのに。
その在り方を、クレイは歪めてしまった。余分なものを付け加えてしまった。
さらに最悪なことに。
その余分の加わった彼女を守りたいと。地上にとどめておきたいと、自分はそう思ってしまったのだ。
――アンナとの約束を、置き去りにして。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「クレイー、クレイの想い人、何か気がついたみたいだよー」
「今日、ハルカと話して、ハッとしてた」
「クレイに会いたいって、何度もつぶやいてた」
「いつ会いに行くの? 仲直りはできるの?」
妖精たちが騒がしくクレイの周囲を付きまとう。
その声に、クレイは過去を振り返るのをやめて妖精たちを見回した。好奇心いっぱいの顔でクレイを見上げる彼らは、良くも悪くも雑多な情報を彼にもたらしてくれる。
「もちろん、会いに行きますよ。そのために、今、向かってるんじゃないですか」
「間に合うの? 大丈夫? クレイ、進むの遅いんだもん、急がなきゃ」
「そちらさんと違って地面のない世界を歩くのに慣れてないんでね、こっちは……」
ため息をつきながらも、クレイの歩みは止まらない。ミルク色の霧の中、周囲には無作為にアースガルドの景色が窓のように現れ、そして消えていく。
下手をすればその幻影に飲み込まれそうになりながらも、足を踏み外さないように進んでいく。頭に思い浮かぶのはシルヴィアのことばかりだ。
己の矛盾に気がついてから、クレイはきっぱりと彼女と距離をとった。彼女を支えられる位置に居ながらも、決して自分からは踏み込まないようにした。これ以上彼女の在り方を変えるのが、怖かったから。
……でも、すでに遅かった。彼女の変貌は、それでも止まらなかった。
「特にここ二年くらいのおじょーさまは、随分と見違えましたからねぇ……」
振り返って、諦めと慈愛のこもったため息をつく。
どうあってもひっくり返せないと思っていた父親の呪縛を、彼女は自力で解いてしまった。自分の価値を決めるのは父親ではなく自分なのだと、気がついた。
何がきっかけだったのか。
その変化は、ある日の夕食の場でシルヴィアが倒れた前後で起きたように思う。でも、彼女の中で何が起きたのかは不明なままだ。
過程はわからずとも、結果は明白だ。シルヴィアはシルヴィアのままでありながら、明確に変わっていった。
一年ほど前に突然もう一人の聖女候補が現れたとき、クレイはてっきり彼女が激高する、もしくは己の価値を否定されたとパニックに陥るのではないかと心配した。
しかし、彼女は笑い飛ばした。「ライバルが居ようが居まいが、私が聖女になるのは変わらない」と、父親の苦言を退け、彼女は堂々と言い放ったのだ。
そしてその言葉通り、彼女は自分の目指す聖女像に向けて努力を続けた。自身の意志で、聖女を目指し続けた。
せめて彼女が、以前のままだったら。「聖女になる」という目的ばかりに囚われた、がむしゃらな性格のままだったら。
そうしたら、聖女候補がもう一人現れた時点で彼女は聖女に選ばれなかったかもしれないな、とつまらぬことを思う。
ハルカが聖女になればシルヴィアは自由になる、とハルカの支援をしてしまったのは醜い自分のエゴだ。シルヴィアは彼女自身の想いで聖女を目指していたというのに、自分はそれを妨げた。
――俺を置いて何百年のスパンの世界を生きないでほしい。そう願ってしまった。
(まぁだからこそ、この矛盾を両立するために向かっているわけで……)
疲労を訴える身体を叱咤して、足を急がせる。
――彼女は、あの時の約束を覚えているだろうか。
覚えていないのなら、それでも良い。自分はただ、許されるために足掻くしかない。
でも、できるならせめてもう一度。
――彼女に、会いたい。




