33 護衛騎士、回想する②
少女はしばらく自分を取り囲む妖精たちの声に耳を傾ける。そして、クレイに向き直った。
「こんにちは。アースガルドの人間と言葉を交わすのなんて、一体何百年ぶりかな……聖域にようこそ。私はアンナ、聖女アンナ。会えて嬉しいわ」
「……クレイ。よろしく」
至近距離で笑顔を向けられたクレイはどう反応すれば良いかわからず、ぶっきらぼうにそうひと言だけ返す。
「へぇ、私が聖女って聞いても疑わないんだ」
「俺は……嘘が見えるから。こいつらと同じ眼をしてるんだ」
アンナの周囲にいる妖精を指差す。眼を見せることは、しなかった。
「ああ。それでこのコたち、大きな妖精を連れてきたって言ってるのね。妖精の眼を持つ人間なんて、聞いたことないもの。……聖域に、自力で入ってくる人間も」
ねぇ、とアンナはクレイの手を取る。
「もし良かったら、しばらく聖域に居ない? 私、すっごく退屈してたんだ」
アンナに乞われて、クレイはそのまま聖域に滞在することにした。
身を隠すにはもってこいの場所だったし、何よりアンナの言葉には嘘がなかった。嘘のない彼女の声は、聞いていて心地よい。それは、初めての感覚だった。
アンナを支える属性騎士も、同様にこの環境に飽き飽きしていたらしい。クレイを快く迎え入れてくれた。
暇な時間を見繕っては、五人はそれぞれ自分の得意分野をクレイに教え込む。元々器用だったクレイは、瞬く間に彼らの技術を習得し、めきめきと実力を伸ばしていった。
「三百年、こんなところに居るなんて大変だな」
しばらく経つうちに、そうした会話も気やすくできるようになった。
アンナは、まるでクレイの姉のように甲斐甲斐しく、そして親しげに彼の世話を焼く。気づけばクレイも、そんな彼女に心を許していた。
三百も年が離れているのにとてもそうは思えない、家族のような関係。人生で初めての居心地の良さに、クレイはゆったりと浸る。
「今はどちらかというとヒマを持て余しているだけだから、退屈ではあるけど全然平気よ。私が就任したての頃なんて、それはもう、酷かったんだから! 前任の聖女様がいらっしゃる間に次代ができなくて……聖女不在の期間が十年近くあったから、アースガルドはボロボロ。私も突然聖女にさせられて、右も左もわからないまま聖域に連れてこられて……本当、あの頃は辛かった……」
しみじみと過去を振り返るアンナ。その鮮やかな回顧は、三百年も昔の話とは思えないほどだ。
「そんなに大変だったんだ」
気の利いた相槌は打てないが、アンナは気にしない。勢い込んで頷く。
「すっごく! 毎日泣きながら働いてたくらい。……でも、私しかいないから。これを救うのは私しかできないから、頑張るしかなかった。そうしなきゃって思ってた」
ひと呼吸おいてから、でも、とアンナはつぶやく。その目が見つめる先は、過去か未来か。
「今はわからない。私が聖女になることが、本当に必要だったのかって。……確かに、アースガルドは前の聖女様が崩御されてから貧しくなった。けど、それでも暮らしていけないほどじゃなかった。切り詰めれば、なんとかその日その日を過ごしていくことができた。だから」
一瞬だけ迷ってから、アンナは言葉を続ける。
「……本当は、彼らの生活ってそうした自分たちの頑張りを積み重ねて、つかみ取っていくべきじゃなかったのかって。聖女なんて力に頼らず、自分たちの努力と工夫で」
「聖女になったこと……後悔してる?」
「そうじゃない、そうじゃないけど……何ていうのかな……ううん、やっぱりなんでもない」
その日の会話は、そこで終わった。
「本当は後悔しているのかもしれない」
アンナがそうクレイに告げたのは、その会話からひと月ほど過ぎてのことだった。一瞬、クレイはそれが何の話かわからず面食らう。
「私が、聖女になったこと。でも、それはアースガルドの在り方とか、そんな高尚な話じゃなくて……」
言いかけてアンナは、ふと口をつぐむ。
――そして結局、その日はそれ以上続きを口にすることはなかった。
「恋人がいたの」
そう切り出したのは、それからまたしばらくして。奇跡を終えたアンナが疲れ切った様子でベッドに倒れこんだときだった。
枕に顔をうずめ、足をバタバタさせながらアンナは言う。
「すっかり忘れてた、そんな記憶。……きっと、ほかの属性騎士の皆にも居たでしょうね。私の代の聖女就任は、本当に突然だったから」
枕を抱きしめながら起き上がると、アンナはクレイに向き直る。
「そう。恋人が……居たのよ。もう、名前も思い出せないけれど。
彼について来て、とは言えなかった。彼の人生は彼のものだって思ってたから。でも年に一度、感謝祭の日は私もアースガルドに降りられる。そのときに会えるって軽く考えてた」
ふっとため息をついて、アンナは遠い目を向ける。
「最初の三年……もっとだったかな、くらいはとにかく忙しくて。各地の淀みを祓って、必要な加護を施して……ってしてたら、それぐらいの月日なんて飛ぶように過ぎてた。
それである年、ふと思い立ったんだ。そうだ、彼に会いに行こうって。そしたらね……」
力のない笑みで、首をかしげる。
「彼、結婚して子供を連れてた。……当然だよね。私とは別れたんだし、もうそれぐらいの月日は経ってるんだし。当然名乗ることもできなくて、私は逃げるように聖域に帰った。
しょうがないってわかってたけど、その時はそれでもショックで。しばらくアースガルドに降りることはできなくなってた。それで執務に打ち込んで、アースガルドを盛り立てることが私の使命だーって仕事に燃えて……」
あの頃が一番頑張ってたかなぁ、と懐かしむような笑顔を浮かべるアンナ。
「それである日、ふいに思ったんだ。今なら彼の様子を知っても傷つかないなって。アースガルドに行けるのは一年に一度だけど、私は聖女サマだからね、地上の様子を覗くぐらいなら造作もない。彼は何してるんだろうって何気ない気持ちで水盆を覗き込んだ。そしたら……」
アンナの声が震え、そしてふつりと途切れた。
思わずクレイは、布団から覗くその手を握りしめる。
――ほっそりとした指の、華奢な小さな手。この手で、彼女はいったいどれだけの人を救ってきたのだろう。
ありがとう、と泣き笑いの顔でクレイを見上げる。
「そうしたらその日が、彼の葬儀の日だった。小さかったはずの彼の子供は、もうすっかり中年になっていた。その横に、孫らしき少年を連れていた。
……そこで、初めて気が付いたんだ。もうあれから五十、六十年経っていたことに。聖女の仕事は十年、二十年のスパンで長期的な世界の調整をすることだけど、そうしたら当然、それだけの時間がアースガルドでは流れてる。彼らと、聖域に生きる私とでは生きている時間の流れが違う。もう私は、彼らとは相容れない存在になってしまっていた……」
「…………」
何を言えば良いかわからず、クレイは息を吞む。
ごめんね、とアンナは優しく彼の頬を撫でた。
「変な話をして、ごめん。だから、クレイが来てくれて嬉しかったんだ。アースガルドの人たちと同じような一日、一日の長さを味わうことができた。地上の時間を過ごすことができた。――漫然と過ごしてきた数十年よりずっと、この一年は長くて充実した日々だったよ。ありがとう」
「俺は、いつまでもここに居ても良い。百年は……居られないかもしれないけど」
かすれた声で、精一杯にクレイは告げる。もう彼にとって、アンナは守りたい大切な人になっていた。彼女を安心させたかった。
ありがとう、とアンナはもう一度笑う。
「そう言ってもらえるだけで、嬉しい」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「クレイに、お願いがあるんだ」
もうすっかり聖域での生活も慣れたころ。
ある日改まった様子で、アンナは切り出した。
「良いよ、なんでも言って」
普段、アンナに頼みごとをされることなどまったくない。クレイは張り切って、そう答える。
「ありがとう。あのね、ついさっき私の……聖女の、次代となる存在が現れたの」
「……!」
クレイは思わず息を呑む。
それはすなわち、今代の聖女、アンナの崩御が近いことを示していたから。
「といっても、まだ六歳の女の子。だから、あと十年くらいは聖女交代に掛かると思うけど。
私の就任期間も、三百年ちょっと。結構頑張ったほうだと思うし、それ自体にあんまり悔いはないかな」
朗らかに笑うアンナ。その瞳に翳りはなく、クレイには彼女が本当にそう思っていることがわかる。
「それじゃ……最後まで傍に居るよ、アンナ」
その手を握りしめて、クレイは告げた。
それが家族への思慕なのか恋愛感情なのかはわからないが、クレイは確かにアンナのことを大切に思っていた。自分にできるだけのことをしたいと、感じた。
それなのに、ううん、とアンナはその言葉に首を振る。
「それも嬉しいけど、クレイには他に頼みたいことがあるんだ。――クレイには、その子のことを見てほしい。近くでその子を見極めてほしいんだ」
「見極める……?」
聖女もただの人間と変わりはない、と公言する彼女にしては、随分と傲慢な表現だ。
「そう。とはいっても見極めてほしいのは、彼女が聖女に相応しいかじゃない。彼女が聖女になって私のように後悔しないか。それを、見てほしいの。
……一人の聖女さえいれば、多くのアースガルドの民は救われる。それは、その通りだと思う。でも、だからといってその一人の人生を彼らが踏みにじる権利はない。だから、」
「わかった。聖女にすべきでないと判断したら、俺が連れて逃げれば良いんだね」
心得たとそう返せば、アンナはほっとしたように頷いた。
「クレイと離れるのは寂しいけど……でも、あなたが次代を見てくれるって思ったら、私も安心できる。今までありがとね、クレイ。あなたのおかげで私、少し幸せを思い出すことができた」
「お礼を言うのは俺のほうだよ、アンナ。あとは俺に任せて。頼まれたことは、必ずやり遂げるから」
アンナは静かに安堵の微笑みを浮かべる。
「うん。頼りにしてる。私のこと、できれば忘れないでね。私も、忘れないから」
――最後まで、彼女の言葉は嘘がなく心地よい。
「忘れるもんか、絶対に忘れない! 今まで、本当にありがとう――!」
今まで得られなかった感情を、思い出を教えてもらった。たくさんの幸せをもらった。
だからこそ、彼女の願いは何よりも叶えてあげたい――!




