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32 護衛騎士、回想する


 ――いつから間違えていたのだろう。


 ――何処で間違えてしまったのだろう。




 振り返ってみても、その過ちはもう覆せないところまで来てしまっていた。


 自分はただ、「あの人」の望みを叶えたかっただけだった。

 「あの人」の憂いを取り除いてあげたかっただけだった。


 ……それだけ、だったのに。




 間違いを犯した始まりは覚えていなくても、それを思い知らされた決定的な瞬間だけは今でも脳裏に焼き付いている。

 二度と取り戻せないという後悔と、己の罪を見せつけられても打ち震えてしまった喜び。

 やり直すことのできない、訣別のとき。


 ――嗚呼、それは。


 彼女が、「この花が好き」と美しく微笑んだその瞬間だった。




○   ○   ○   ○   ○   ○   ○




 ――クレイ・アンダーソンにとって、この世界は生きづらく苦しい場所であった。


 人間は、呼吸をするように簡単に嘘をつく。笑顔を浮かべたまま、思ってもいないことを口にする。

 そのくせその欺瞞を指摘すれば、狼狽した彼らはその嘘を棚に上げ、決まってクレイを憎むのだ。曰く、「可愛げがない」、「不気味」、「人を疑うな」……


 幼少期の時点で、彼は既に周囲の人間に見切りをつけていた。人とは嘘をつかずにはいられぬ生き物なのだと、達観していた。

 それに口を出す、自分の方が異端なのだ。


 クレイは、子爵家の三男として生まれた。……と言っても、正式な子供ではなく、所謂いわゆる私生児、妾腹しょうふくの子供だ。屋敷の本邸に立ち入ることは許されず、母と二人、屋敷内の別邸に住まわされていた。

 それでも、母と二人だけの暮らしは穏やかな日々だった。母は頭が良く、立ち居振る舞いが上手な理知的な女性であった。

 絶対にその瞳を他人に見せてはいけないというのも、母の教えだ。立場の弱いクレイが脅かされることのないよう、彼女は常に細かく心を砕いてくれていた。


 ――けれど。

「お父様はお忙しい方だから。でも、きっと貴方のことを思っているわ」「貴方の兄上たちは、立派な方よ。悪口を言ってはいけないわ」

 ……クレイを想って掛けられる言葉は。


 たとえそれが優しさと思いやりに満ちた言葉であっても、やはりそれは欺瞞に満ちていた。

 決して、本心から出る言葉ではなかった。


 「愛してる」と母から言われたことは、なかった。

 クレイの母親はもともとは官僚を目指していた才女で、それが子爵に見初められたがために将来を閉ざされた過去があった。

 どれだけクレイのことを大事に思っても、その血の半分は自分の将来を奪った憎い男の血が流れている。彼女には、「愛してる」と言葉にするだけの勇気が持てなかったのだろう。


 ――そして。

「大丈夫、少し横になっていればすぐ治るわ」「泣かないで。本当に、大した病気じゃないのよ」「きっと……あの人が、迎えにきてくれる、から……」


 ――結局、母の言葉は、最期まで息子を想う嘘で満ちていた。




 夏の雨の日。

 分厚い黒い雲の下で、母の葬儀はひっそりと執り行われた。

 その日のことをクレイは今でも鮮明に思い出す。降りしきる強い雨に、世界の音と色は洗い流されてしまったようなあの時間。

 葬儀に訪れる、黒い服とくぐもった声の弔問客。クレイの目には、彼らの方が死人のように映った。


(この瞳が、せめて母の前だけでもその能力を発揮しないでいたら……)

 遺された小さな棺の前で、クレイは乾いた表情でそう想う。


 ――そうしたら、その優しい嘘に浸ることができたのに。


 クレイがよわい十歳に上がる頃の記憶である。




 母の死後、クレイは本邸へと引き取られた。「可愛い息子を心配するのは親の務めだからな」という、父親の見え見えの嘘と共に。

 実際のところ、クレイは他の兄弟たちよりも抜きん出て出来が良かった。要領が良く、何をやらせてもすぐに習得する三男。

 将来的にそんな優秀な彼を実務担当に据えれば、いささか頼りない長子でも家長が務まるだろう。そんな父親の魂胆は、透けて見えていた。


 しかし、素知らぬ顔でクレイは求められる姿を振る舞う。すなわち、妾腹の子供まで目をかけてくれる父親に感謝し、精進する息子という姿を。


「妾の子供が生意気だ!」「いつもニヤニヤしていて、気持ち悪いんだよ!」

 父親の考えを知らぬ兄たちからは、容赦ない言葉がぶつけられる。しかし、どれだけ辛く当たられても、罵倒を浴びせられるクレイの心は不思議と安らいでいた。


 ――悪口は良い。そこには、一片の嘘も含まれていないから。

 兄たちに小突かれながらも、クレイはただ黙ってそれを享受する。


 従順な息子として振る舞い、兄たちのサンドバッグに甘んじ、家の体面のために騎士学校で優秀な成績を修め……


 ――そして。

 騎士学校の卒業の日。クレイはひっそりと生家であるアンダーソン家を出奔したのだ。

 何もかも捨てて、ただ自由だけを携えて。




 目的地はない。クレイはただ、心ゆくままに足を運ぶ。

 それは、生まれて初めての心安らぐひとときであった。周囲に誰も居ない、嘘で塗り固められた関係が存在しない環境が、こんなにも快適なんて。

 これからは山籠り生活でもしようか、とクレイが半ば本気で考え始める。そんなタイミングで。


『ねぇねぇ、絶対妖精だよ、彼』

『そんなわけないだろ、こんなに大きな妖精なんて居ないよ!』

『ぼくたちのこと、見えてる? 聞こえてる?』


 ――彼は、初めての妖精との邂逅を果たしたのだった。




『面白いやつだよ、きっと彼女は喜ぶよ』

『案内しよう、ついておいで』

『やっぱり君は妖精だ。ぼくたちと同じ目をしているもの』


 キャアキャアと甲高い声ではしゃぐ、羽の生えた美しい子供たち。その目は、クレイと同じ血のような紅い色をしていた。

 これは妖精の眼だったのか、とそこで初めて知る。

 初めて会えた、自分と同じ性質を持った仲間。疑いもせず、クレイは誘われるがままに足を踏み出した。


 どこへ行くのかもわからない。何が待っているのかもわからない。

 それでもクレイは、熱に浮かされたように導かれるまま足を動かす。


 やがて彼らに連れられて歩くうちに、周囲の霧が徐々に濃くなっていった。

 まるでミルクのような濃霧に覆い隠され、戻る道も進む道もその中へと飲み込まれていく。


 ――その足が、次第に大地を踏まなくなっていたことにも、気づけなかった。




 やがて唐突に、霧の回廊は終わりを告げる。

 突然周囲が明るくなったかと思えば、屋敷の庭園らしき場所へと身体が投げ出された。


「うわっ」

 あまりに予想外のことで、判断が追いつかなかった。突然現れた大地に足がもつれ、地面に崩れ落ちる。


「誰か……誰か居るの?」


 透き通った、透明な声がした。硝子の鈴のような、黄金の竪琴のような、綺麗で張りのある優しい声。

 慌てて身体を起こそうとしたクレイと、茂みをかき分けて覗き込んだ少女の目がばっちり合う。


 その一瞬。

 世界は音を失くし、時が止まった。


 ――忘れられるはずもない。

 それこそが、クレイ・アンダーソンと聖女アンナの初めての出会いだった。


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