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31 悪役令嬢、訣別する③


 ――やがて、吹きつける風に氷の粒が混ざり始めた。


「おっ、早くも風花が舞い始めたな」

 オリヴァーが広場へと進み出て、楽しげに黒いコートを広げる。

 しっとりした柔らかい黒の布地に冬風が吹き付けた。風に乗って飛んできた氷の粒がコートに当たり、星のようにその上で輝きを放つ。


 ほら、と示され近づいたシルヴィアは息を呑んだ。黒い布を背景に、氷の粒ひとつひとつが幾何学的な結晶を作っていたからだ。

 複雑で繊細な、爪の先ほどしかない自然の芸術品。その美しさに、目を奪われる。

「綺麗だろ?」というオリヴァーの問いかけに、シルヴィアは黙って頷くことしかできない。

 自然が作り出す、見事な美の造形。それはあまりに崩れやすく、そしてそれ故に幻想的だった。


「そろそろ梢落としが始まりますよ」

 フォーリアののんびりした声を合図にしたかのように、ひときわ冷たい風がごうと吹いた。雪のように白く、雨粒のように小さな氷の粒が空から吹き下ろされる。


「一番落ち葉、見つけました!」

 ハルカの明るい声が響いた。

 その指差す先に視線を向ければ、枝の先にある赤く紅葉した一枚の葉が、徐々に白く凍りついていく様が目に入る。


 やがて葉の全面が、氷で真っ白に覆われる。

 氷雪の一葉ははらりと枝からはがれ、そして静かに大地へ落ちていく。


 その一枚を皮切りに、一斉に木々が白く染まり出した。赤や黄色の鮮やかな葉は緩やかにその色を失い、そしてひらひらと落ちていく。徐々に木々は黒々とした枝が目立つようになり、地面は白く染まっていく。


 ――風花の梢落とし。

 冬の朔日には必ず雪の欠片のような風花が舞い、紅葉した葉を凍らせて落としていく。その景色を、アースガルドではそう呼んでいる。


「見事な景色ですねぇ……いくらボクが発明をしようと、自然の造形には敵わないって思い知らされる瞬間だ」

 ライカのぼやきにシルヴィアは思わず頷く。

 一日で世界が冬に染まっていくこの景色は、人間には太刀打ちできない圧倒的なスケールの芸術である。


(あぁそうだ。この梢落としの景色も、クレイが初めて見せてくれたんだ……)


 懐かしい思い出がよみがえった。

 まだ前世を取り戻すより前の、親からの期待に押しつぶされそうになっていた頃。

 家庭教師の時間の隙を縫って、クレイがこっそりと庭園まで連れ出してくれたのである。


(あれを見て私は、本を読んだだけじゃわからない美しさがあるってことに愕然としたっけ……)


 今でも振り返ると、胸がぽっと暖かく灯る優しい記憶。

 記憶を照らし出す灯火ひとつひとつが、クレイのくれたかけがえのない明かりだ。


 でも、改めて考えてみると不思議だ。

 お父様は、徹底して私が個人的な関係を構築するのを遠ざけていた。友人どころか、仲の良いメイドすら作らせようとしなかった。そのために頻繁に使用人を変えていたほどなのだ。


 ――それなのに、なぜ。クレイだけは常に傍に居てくれたのだろう。




 気づけば、ハルカがいつの間にか隣に座っていた。

「シルヴィア様が居て、属性騎士エレメンタルナイトの皆さんが居て、同じ景色を見て感動して……私、幸せだなぁ。こんな時間が続くなら、聖女になってもきっとやっていけると思うんです」

 ライバルに向かって随分挑発的な言葉だが、ハルカに他意がないのはこれまでの関係でわかっている。


 しかしそのお気楽な発現内容を見過ごすことはできず、シルヴィアの口からは思わず叱責の言葉がついて出た。

「甘えたことをおっしゃらないで。真に聖女となったら、今と違って貴方、故郷や家族とは完全に繋がりを絶たれてしまうのよ? それだけの覚悟ができていて?」


 意外にも、その厳しい言葉にハルカは怯まなかった。シルヴィアを真正面から見つめ、彼女は静かに返す。

「私の家族は、もう居ません。火事で生き残ったのは、私だけだったから……

私を引き取ってくださった貴族の方には良くしていただいたけど、それは家族とは違いますし、アースガルドに未練はありません。……むしろシルヴィアさまがそう感じているからこそ、私にそう言うのでは?」

「っ……!」


 思いがけないハルカの言葉に、胸をつかれた。

「未練なんて、そんな……」

 アースガルドに、未練なんてない。そういう風に育てられ、そういうものと受け入れてきた。

 私の目指すものは、変わりはない。


 ――クレイさえ。クレイさえ居てくれれば。

 ――そう。彼さえ居てくれれば、未練なんて……!


 切なる叫びは、知らないうちに声に出ていたらしい。ガタン、と気付かぬうちに身を乗り出していたために、椅子が大きな音を立てて揺れる。

 ハルカが驚いたように目を丸くする。




「シルヴィア様、少しお話させてもらっても良いですか?」

 ハルカの横から、ゆったりとした声でフォーリアが呼びかけた。いつからこの話を聞いていたのだろう。

「ええ、もちろん」

 激昂した自分を恥じるように咳払いをして、シルヴィアはもう一度椅子に掛け直す。


 隣に掛けたフォーリアは、シルヴィアの顔を覗き込むような前傾姿勢になった。その視線にあるのは見透かすような鋭いものではなく、包み込むような優しさだ。気持ちが落ち着いてくるのを感じる。

「お節介とは思いましたが……最近の貴方は、見ていてこちらが苦しくなるほど不安定で心配だったのです。……やはり、貴方の護衛騎士の方がいらっしゃらないことが原因だったのですね」

「私事でお心を煩わせてしまい、心苦しく思いますわ」

 今さら否定しても無駄だろう。肯定はしないものの、周囲を振り回してしまったことに頭を下げる。


「いえいえ。彷徨えるは、人の業。生きる上で必要な過程ですから、お気になさらず。私は、多少なりともシルヴィア様の悩みの助けになれないかと思ったまでで」

 おっとりと笑ってそう述べるフォーリア。元は聖職者だけあって、その声には不思議な安心感がある。


「最初に貴方がクレイさんのお話をされたときから、気にはなっていたのです。……以前の魔物討伐の際のお話を覚えていますか? 私がこちらに身近な人間を連れて来ない理由が、貴方にはわからなかった。……今も、そうなのでは?」

「……ええ」


 そうですか、とため息混じりの相槌を打ってフォーリアは静かに言葉を続ける。

「きっと、彼にはわかっていたのでしょう。だからそれに耐えられず、身を引いた……」

「……どういうことでしょう?」


 クレイの事情なんて、フォーリアは何も知らないはず。それに彼は身を引いたのではなく、自分が追い出したのだ。

 それなのに妙に確信ありげなフォーリアの言葉に、シルヴィアは引っ掛かりを覚える。


 良いですか、と居住まいを正してフォーリアは語り出した。

「聖女交代が順調に行われて我々が聖域へと移動した場合、アースガルドの人々と我々とは様々な面で隔絶されることになります。一番わかりやすいのは世界の隔絶、物理的な距離の問題ですね。……まぁこれは、相手が聖域に暮らすことを受け入れてくれれば、なんとかなるでしょう。実際、歴代の聖女様の中には夫を連れて聖域に着いた聖女様もいらっしゃいますから」


 シルヴィアは頷いた。

 そこまでは、彼女も考えていたとおりだ。勝手な考えかもしれないが、きっとクレイは想いが通じたら聖域にもついてきてくれる。そう思っていた。


 しかし。

 それでも、とフォーリアは話を続ける。その次こそが話の本題であるように。

「……それでも、それが解決できたとしてももう一つ。より辛い、対処のしようがない隔絶がそこにはあるのです。それ故に、我々は基本、アースガルドの者を連れて行くことを良しとしない。それこそが……」


 フォーリアの説明は、淡々と続く。

 その思いがけない内容に、シルヴィアは思わず目を見開いた。




 ――もしかして、彼は。


 今まで考えていなかった問題に、シルヴィアは初めて思い至る。


 ――「これ」が原因で、私が聖女になることを拒んでいる……?


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