29 悪役令嬢、訣別する
『クレイおはよう! 聞いて聞いて、この前愚痴っちゃったアースさまの件だけど、クレイの言葉を参考にしてみたら昨日は褒められたの!』
『それは良かったですねぇ。アース様は厳格な方ではありますけど、決して理不尽ではありませんから。認めてもらえると思いましたよ』
『それでね、これはちょっとしたお礼。日持ちしないから、すぐ食べてね』
『ありがとうございます。そんな気を使わなくても良いんですよ』
『私が送りたいの。聖女試験は偉い人ばっかりで疲れるけど……こうしてクレイと話をするとストレス解消になるから。ねぇねぇ、今日のシルヴィアさまはどんな感じ?』
『そうですね、今日のおじょーさまの予定は……』
「やっぱりわかっていても堪えるものね……」
それ以上は聞いていられず、シルヴィアは頭を上げた。
加護の応用で周囲の気配を探ることができると気づいてから、シルヴィアはたびたび朝の礼拝堂でその力を使っていた。盗み聞きだということは重々承知のうえで、それでも聞かずにはいられなかった――主人の目を盗んで交わされる、礼拝堂での秘密の会話を。
段々に親しくなっていくクレイとハルカの会話。いつから、彼女はクレイに対して敬語を使わなくなっていたのだろう。二人の距離は順調に近づいている。
ハルカのことは好きだ。大事な友人だと思っている。……それでも、クレイと楽しげに話している姿を見ると、心が騒ぐのを止められない。クレイの目に映らないで、二人だけで話なんてしないで――そう叫びたくなってしまう。
「自分の気持ちに気づいてからは、なお辛いわね……」
己の恋心を自覚しても、それでクレイとの距離が近づくわけではない。むしろ、自分の気持ちがバレて避けられてしまうのではないかと心配で、挙動不審になってしまっている節さえある。
せっかく街中デートで縮まったはずのクレイとの仲は、シルヴィアのそんな不自然な態度で再び元のとおりに戻ってしまった。あまりに余所余所しい態度をとってしまうシルヴィアにクレイが心配そうな、寂しそうな顔を向けていることには気づいているのだが……いろんな感情がごちゃ混ぜになったシルヴィアは、それにどう反応したら良いのかわからない。それなのにクレイがこちらに意識を向けているということに、昏い喜びを覚えてしまう。
――人を好きになるというのは、もっと素敵なことだと思っていた。それなのに自分の感情は醜いばかりだ。クレイにこんな想いを知られたくはない。
「何とかしたいと、思ってはいるのだけど……」
ぼやきながら、礼拝堂を出る。途端、冷たい風に吹かれてぶるりと身体が震えた。
――もう、秋も終わりかけだ。
聖女試験の期間は、次の春まで。猶予はもう、あまり残されていない。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
焦りはそうして募るものの、クレイとの関係は遅々として進まなかった。
もはやシナリオ通りクレイとハルカとの関係が成立している以上、自分の想いを遂げることはできないのかもしれない……シルヴィアがそんな半ば諦めの境地にまで達しかけたその頃。
――事態はある日を境に、思いがけない方向へと動き出したのであった。
いつものように聖女試験へと臨んだシルヴィア。
「ただいま、クレイ……」
その日、彼女は珍しく落ち込んだ様子で、ぐったりと自室へと戻ってきた。
帰宅の挨拶もどこか上の空。出されたココアを少しずつ口にしながら、彼女はしばらくの間、心ここにあらずといった風情で物思いに耽る。
「ねぇクレイ……少し、貴方の意見を聞いてみても良い……?」
――やがて。
心に決めたようにシルヴィアは切り出した。
「俺ごときの考えがお役に立てるとは思えませんが……まぁ話を聞くくらいなら、いくらでも」
そう言いながら、クレイはココアを温め直す。物思いに沈んでいる間に手の中のカップが冷めていたことに、シルヴィアはそこで初めて気がついた。
「ありがとう。今日、フォーリア様と語らった聖女の心構えについて悩んでいて……といっても、悩んでいるのはもっと一般的な話なんだけど」
ふぅ、とひと息ついて対面の席を示す。クレイが頷いて席につくのを待って、シルヴィアは再び口を開いた。
「私が悩んでるのは聖女の心構えではなくて、その前提部分の話なの。聖女の心構えというのは――『執着なき愛情』、『見返りなき献身』、『深謀なる慈愛』の三つ。今日はその中の『執着なき愛情』の考え方について、フォーリア様からダメ出しをされてしまって……」
「執着なき愛情……ですか」
クレイの相槌からは、なんとはなしに白けた、冷笑的な響きを感じる。その反応は少し気になったが、シルヴィアは話を続けた。
「私は、それを誰に対しても平等に広い愛を持つこと、特定の何かに偏らない愛だと解釈したの。そうしたら彼に、『では、愛の執着とはどういう状態を指すと思いますか』と訊かれて……色々考えて口にしてみたんだけれど、自分でもしっくりこない答えだし、そんな答えでは当然フォーリア様を納得させることができなくて。今まで深く考えたことがないテーマに、行き詰まってしまっていて……クレイの考えを聞かせてもらえないかしら」
ひと息に悩みを打ち明ける。
あれからずっと考えているが進捗はなく、手詰まり状態が続いている。
「人の心というのは難しいわね……聖女の資質以前の問題だわ」
己の不甲斐なさにため息を落とすシルヴィア。そんな彼女を、やれやれ、といかにも呆れたような顔でクレイは見やった。
「俺がおじょーさまに教えられるようなことは、ほとんどありませんが……」
そう言いながらも、ピッと人差し指を立ててクレイは話し始める。
「そもそも心構えとしてそれが挙げられている時点で、本来愛というのが執着ありきだというのが前提にあるわけです」
それはご納得いただけますよね? と確認されて、シルヴィアは素直に頷く。
俺が考える執着のある愛というのは……、とそれを見てクレイはゆっくりと語り始めた。
「特定の相手に対する執着。自分のものにしたい、誰にも譲りたくないという気持ち。相手の幸せ、自分の幸せを願い、そしてそのためならばそれ以外の犠牲を取るに足らぬものと切り捨てる盲目的な想い。一歩間違えれば自分の幸福のために大切なものを犠牲にしてしまう、醜い欲望の発露となる危うい感情……さきほど言ったように、愛なんて俺に言わせれば、執着とほぼイコールみたいなもんです」
紡ぎ出すクレイの言葉は、淀みがない。それは、まるで普段からそんな感情と向き合っているようにも見えた。
「クレイには……そんな想いを捧げる相手がいるの?」
知りたくないと思いつつ、シルヴィアはつい口にしてしまう。
クレイは……ハルカのことをそんなふうに想っているのか。その想いのために、自分は犠牲にされたのだろうか。
クレイは昏い微笑みを浮かべて嘆息する。じっとシルヴィアを見つめるその視線に妙な熱を孕んでいるのは、何故だろう。
「そうですね……きっと、俺のこの感情はとても醜い。俺は……自分の欲のために、大切に思うはずの相手の願いすら踏みにじる男ですから」
――その想いの結果が、主人の裏切りに繋がるのか。虚しい想いに襲われる。
それでもクレイの語る「執着じみた愛」の説明は、シルヴィアの琴線に触れた。
「わかるわ……とてもよくわかる。たとえそれが片想いだったとしても、私のことなんか見てくれていないとしても、あの子になんか渡したくない。ずっと傍に居て欲しい。私だけを見てほしい。そのためだったら、どんなズルもしてみせる……!」
言葉にしながら、シルヴィアは愕然と目を開く。
ただ好きだと思っていた。傍に居てくれるだけで良いと思っていた。
それなのに、自分はこんなに醜い想いを抱えていたなんて……
きっと、フォーリアは気づいていたのだ。シルヴィアが、その感情が抱える闇から目を背けていたことに。
だからこそ彼は、それに気づくきっかけを与えてくれたのだろう。
「おじょーさまに……そんなふうに思える相手ができたんですね」
クレイが寂しそうに笑う。
どうしてそんな顔をするのだ、私のことを裏切っておいて。
「そうね……自分でも、こんな醜い感情があるなんて思わなかったわ」
己の感情に打ちのめされながらも、シルヴィアは問う。
「……ねぇクレイ。こんな感情を持つ私は聖女に相応しくないのかしら……」
「いいえ。おじょーさまは、誰よりも聖女に相応しいです」
いつも優しい、クレイの言葉。誰よりも大好きな、クレイの言葉。
「本当に? 私は聖女になれると思う?」
「ええ。おじょーさまの能力があれば、聖女になれますとも」
――だから、お願い。
嘘でも良いから、答えて。
「それじゃあ貴方は……私に、聖女になってほしいと思う?」
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
その問いに答えが返ってくるまでに、時間はほんのひと呼吸分しかなかっただろう。
それなのに、シルヴィアはその沈黙が永遠に引き伸ばされたように感じる。
「……いいえ。おじょーさま、いいえ。すみません。俺はそれでも……貴方に、聖女になってほしくはない」
苦しげなクレイの声。
ヒュ、と思わず息を呑んだ。心臓が凍りつくのを感じる。
ある程度予想していた……そして一番聞きたくない答えだった。
どうして、とは聞けなかった。
「でも信じてください。俺は、おじょーさまのことをなによりも大切に思っている。この言葉に……嘘偽りなんて、ない」
付け足されるクレイの言葉は、ぴくりともシルヴィアの心臓を動かさない。
――裏切られた。
とうとう直面させられた現実に、打ちのめされる。
何年も時間をかけて、少しずつ、少しずつ想いを交わしてきたというのに。
通じ合えたと思っていたのは、自分だけだったのか。
どす黒い感情があふれ出す。
許せない。こんなにも好きなのに。許せない。愛しているのに。許せない。どうして裏切るの。許せない許せない許せない――!
「出てってちょうだい」
シルヴィアの絞り出した声は、どこまでも冷徹に響く。
「おじょーさま……」
「二度も言わせないで。出てって! クレイなんか大っ嫌い! 早く、この部屋から出ていけ!」
――大嫌い。
そう言葉にした途端、シルヴィアは取り返しのつかない後悔に襲われる。自分の中に大切にしていた宝物を、その手で叩き壊してしまったような感覚。もう元には戻らない、粉々になった手の中の宝物。
一度口に出してしまった言葉は、取り消せない。そしてクレイの言葉を無かったことにして彼を許すには……シルヴィアはクレイのことを好きになりすぎていた。
シルヴィアは無理矢理に顔を背けて口をつぐむ。これ以上の言葉は口にできない。
いま口を開けたら、なにを口走ってしまうか怖かった。ひたすらクレイを詰るかもしれないし、泣きながらやっぱり行かないでと許しを乞うてしまうかもしれない。そのどちらも、シルヴィアはしたくなかった。
――しばしの沈黙。
やがて、パタン、と静かに背後で扉が閉まる音がする。
その音が耳に届いた瞬間、シルヴィアは床へ崩れ落ちた。それと同時に、こらえていた涙が頬にとめどなく流れ始めるのを感じる。
しゃがみ込んだまま、顔を覆ってシルヴィアは肩を震わせる。
――とうとう、口にしてしまった。もう戻れない。
押し寄せる後悔に、潰されてしまいそうになる。
せめて、クレイの弁解を聞けば良かった。なにを思って彼女の肩を持つのか。何故、シルヴィアが聖女になることを拒むのか。
……でも、聞きたくなかった。聞きたくなかったのだ。
クレイの口から、ハルカが好きだと聞くなんて。
そんな決定的なひと言に向き合いたくないと、シルヴィアは逃げ出してしまった。耳を塞いで、拒絶してしまった。
――そして。
それ以来、クレイはシルヴィアの前からふつりと姿を消したのだった。




