26 悪役令嬢、初めてのデート④
そうして、デートは順調に進んでいく。
ただただ楽しいその時を楽しんでいたシルヴィア。
そんな彼女がその日一番の苦境に立たされたのは、お昼の時間になってからだった。
「これ……本当にこのまま食べるの……?」
「屋台で買い食いしてみたいって言ったの、シリーだろ?」
「う……、それは、そうだけど……」
クレイがシルヴィアに手渡したのは、出来立てのサンドイッチ。
大きめのコッペパンに挟まれた薄切りのハムとみじん切りしたキャベツ、トマト、玉ねぎの組み合わせは、ひと目見ただけで約束された美味しさを伝えてくる。
ただ、問題はそこではない。そこではないのだ。
「これ……、どうやって食べるの……?」
途方に暮れた言葉がこぼれ落ちる。
――そう。挟まれた具はパンが外れそうなほどたくさん詰め込まれていて、今にも決壊しそう。
それをパンの周囲にぐるぐると紙を巻き付けることで、この食べ物は無理矢理サンドイッチの形に押しとどめられているのだ。
食べ物であることは伝わってくるのだが、どこから食べれば歯が立つのやら。受け取ったシルヴィアは難攻不落のその要塞に、そのまま呆然と立ち尽くすばかり。
「どうやってって……かぶりつくんだよ、アーンって」
「そんなはしたないこと……!」
思わず悲鳴をあげてから、ハッと言葉を切った。
キョロキョロ周囲を見渡す。大丈夫、特に自分に注目している人はいない。
「これが屋台の醍醐味ってやつだよ? ほら、美味しいんだからさ」
言うや否や、クレイはガバッと大きな口を開けてサンドイッチにかぶりつく。包装紙が剥かれたパンが崩れ始めるより早く、獲物を口に収めていくクレイ。見事な食べっぷりだ。
「そうよね……屋台にはフォークもナイフもないものね……」
それに触発されてシルヴィアもおずおずとサンドイッチを口元まで持っていくが、なかなか決心がつかない。
そもそも、大口を開けた姿をクレイに見られるのが恥ずかしいのだ。
「えいっ」
しばしの逡巡の末、かぷ、となんとかサンドイッチに食らいついた。
……が、いくら咀嚼してもパンの味ばかりで具の味がしない。何か変だな、と手元を見れば、解き放たれたパンの具たちは知らないうちにボトボトと地面へ落下していた。
「ぷっ……あはははは」
それを見ていたクレイが、ごまかしきれずに吹きだす。
「まさかサンドイッチ食べるのに上手い下手があるなんて……シリーはサンドイッチの才能がないなー」
「もうっ、馬鹿にして! 良いから、あっち向いてて!」
ツン、と顔を逸らすが、実際食べるのが下手すぎるのは自覚しているのでどうにも締まらない。
「ごめん、ごめん。でも、シリーにも苦手なことがあるってなんか新鮮だなぁ。……あ、いや、友達を作るとか普通のおしゃべりをするとか、苦手なこと普通にあるか」
「意地悪ばっかり言うんだから! もう知らない!」
拗ねたフリをして背中を向ければ、くつくつと笑い続けながらもクレイがお詫びと称して屋台のジュースを持ってくる。
それで喉を潤しながら、悪戦苦闘しつつもなんとかサンドイッチを食べ切った。クレイがおどけた拍手で祝福する。
楽しいな、とそんな失敗を経験しながらも、シルヴィアはしみじみ思った。
もし自分がクレージュ家に生まれていなくて、縁があったら。クレイとこうして普通にデートする日が来ていたのだろうか。
くだらない夢想を思い描くと、脳裏にハルカの姿がよぎる。
屈託なく笑い、何事も全力で楽しむ彼女の方が、きっとクレイとお似合いだ。
――馬鹿だな、自分は。
自嘲の笑みが唇に浮かんでしまった。
妄想の中ですら彼女に勝てないなんて、おそらくその時点で自分は負けてしまっている。
その後に行った雑貨屋では、クレイの髪紐を購入した。
財布の残金は心許なくなったが、悔いはない。今日という日をこれで思い出してもらえたら、とシルヴィアはこっそりと願う。
自分で選んだ、クレイへのプレゼント。一見ただの紺色の紐に見えるそれは、よく見ると銀糸で細かい模様が編み込まれているのがポイントだ。
この銀の糸を自分の髪になぞらえていることには……気づいてほしくもあるし、気づかれたくない気もする。乙女心は複雑だ。
それから少し疲れたタイミングで、甘味処に寄った。
今まで嫌いだと思っていた生菓子の味が、その評価がひっくり返るような美味しさでとても驚いた。嫌いだったはずのクリームが、ふわふわのスポンジと瑞々しいフルーツと合わさって極上の味わいになっている。
「クレージュ家のクリームは、美味しさよりも砂糖をふんだんに使える豊かさをアピールするために作られているからね」と、不思議そうなシルヴィアにクレイはなんてことないように言う。
そうだったのか、と目から鱗が落ちる思いだった。
甘さ控えめのふわふわのクリームが、果物が本来持つ自然な甘さとこんなにマッチするなんて。
甘味で元気を取り戻した後は、異国雑貨を取り扱う怪しげな店にも立ち寄った。
前世の知識で見れば正体がわかるものも、どの知識を駆使しても一体何なのかわからないものもたくさんあった。
店主のつけていた香水が独特で、店を出てからもしばらくはその匂いが身体に付き纏ってきたのには辟易したものだ。
その次は――、それから――。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
ここで最後、と案内されたのは、沈みかけた夕日を水面に大きく映し出す静かな海辺だった。
空がオレンジ色に染まっていく。オレンジ色の縁には群青が混ざり始め、夜の時間がヒタヒタと迫ってくるのを感じさせる。
「とても楽しかったわ……」
波打ち際を肩を並べて歩きながら、シルヴィアは晴れやかに笑う。
今日という一日が終わってしまうのは残念だけれど、それでもこの思い出はいつまでも消えることはないだろう。
自信を持って、そう言い切ることができる。
「ここで夕日が沈むのを眺めるのが、絶景なんだ。……もし、砂の上に座るのが嫌でなかったら」
「喜んで」
クレイの提案に頷いて、しっとりと重たい砂の上に腰掛けた。
目に映る景色全てを塗りつぶすかのような、大きな赤い太陽が眼前いっぱいに広がる。その圧倒的な景色に呑まれ、言葉も忘れてそれに見惚れた。
少しずつ、少しずつ太陽は水平線へと沈んでいく。
「冬の感謝祭のときも、ここは穴場なんだ。ここから街を振り返ると……いや、これは実物を見た方が良いかな」
砂浜に投げ出した手を、そっとクレイの指が触れる。
一瞬、呼吸が止まった。
――もう、「はぐれないため」なんて言い訳は使えない。
自分の心臓の鼓動が、そのままクレイにまで伝わってしまいそうだ。横にいる彼の顔を、見ることができない。頬が熱い。
それでも、そっとその手に寄り添った。繋ぐでもなく、ただ手を少し重ね合わせるだけの行為。
ただそれだけで、胸の内から温かな幸福感がじわじわと広がっていく。
「シリー。良かったら次の冬の感謝祭、ここで一緒にその景色を見ないか」
「……! ええ、喜んで。絶対に忘れないでね? 約束よ?」
高鳴る心臓がうるさすぎて、息が苦しい。ふっと微笑んだクレイが口を開きかけた、その時だった。
「誰かっ! 誰かぁー!」
絹を裂くような悲鳴が、突然心地よい静寂を切り裂いた。




