25 悪役令嬢、初めてのデート③
――それでも。
初めての街。初めての人。初めての光景。
それらに囲まれれば、そんな戸惑いはどこかへ押しやられてしまう。
「今日は市を見て、軽く何か食べてから雑貨屋を冷やかして……、それでも時間があれば郊外の砂浜の散策でもしてみようかと」
クレイが伝える今日の予定すら、耳に届いているのかどうか。
シルヴィアは心ここに在らずと言った様子で、ただひたすらに周囲を見てはその一つ一つに感嘆を続けていた。
午前の大広場の市場。
大勢の人がごった返す中で、さまざまな露店が商品を並べ、店主が声を枯らして客を呼ばわっている。
露店では原色の鮮やかな果物が頭よりも高く積み上げられていたり、土のついた野菜が束ねられていたり、何かをすりつぶして薬の調合をする姿が見えるようになっていたり……その光景ひとつひとつが新鮮で、目を奪われてしまう。
目の前に繰り広げられる圧倒的な生の情報を前に、シルヴィアは日頃の自制心も投げ出して次から次に気になった方向へ足を動かせる。
右へ、左へ、後方へ、そのまま前へ――……
突然、ガシッと手首を掴まれて周囲の景色に夢中になっていたシルヴィアははっと意識を引き戻した。
見上げれば、そこにいるのは苦笑いを浮かべたクレイ。
「ったく……子供じゃないんだから、あんまりフラフラしないでシリー。ほら、行くよ?」
「あっ、……ええ、ごめんなさい」
思わず素の言葉遣いが出てしまった。軽く笑い声を上げたクレイは、シルヴィアを促すように歩き出す。
……その手を、繋いだまま。
「えっ、クレイ、そのっ、手が……」
手首を捕まえていたクレイの手は、いつのまにかシルヴィアの小さな手を包み込むように握っている。
「こうして繋いでないと、シリーはあっという間に迷子になるでしょ。文句を言わない」
「いえ、文句じゃなくて……」
(手、手を繋いじゃってる〜〜〜‼︎ どうしよう、私、今手汗かいてない? なんかじっとりしてない? クレイが気にしてないと良いけど……)
最早パニックも近い状態に陥りながら、シルヴィアは前方を歩くクレイの表情を仰ぎ見る。
「この市で珍しいものと言ったら、評判なのがあの飴細工の露店で……」
案内を始めるクレイの表情は、あくまで冷静だ。
(これ、私も手を握り返して良いものかしら? ……良いよね? 今日の私は「街娘シリー」なんだし……)
案内に耳を傾けながら、クレイに繋がれた手を……目を逸らしてそっと握った。
一瞬驚いたように言葉を止めたクレイは、ふっと微笑むような息をついた後、優しくその手を握り返してくれる。
まるで心臓そのものを優しく握られたかのような、ギュッとなる感覚。
耳が痛くなるほどだった市場の喧騒が遠くなり、この人ごみの中にいるのにクレイと二人っきりになったような心地になる。
目の前で見事な飴細工がかたどられていっているのに、胸を弾ませるはずのその光景が頭に入ってこない。
「はい、どーぞ」
クレイに差し出されて、初めて飴細工が完成していたことに気がついた。
目の前にあるのは、見事な天馬だ。大きく広げられた翼も、躍動感ある四肢も飴で作られたとは思えないほど精巧で美しい。
こんな見事な芸術作品が作られていたというのに、自分は何も見えていなかったのか。我ながらあまりの魂の抜けっぷりに呆れる。
「あ……いくらかしら」
「気にしないで。今日は俺が奢るよ」
「そういう訳にはいかないわ。大丈夫、今日のために魔物討伐でお金を貯めて来たんだから……」
「おっと、ごめんよ!」
カバンから財布を出そうとしたところで、小さな子供が軽くぶつかって駆け去って行った。一瞬体勢が崩れたものの、大した被害はない。さして気にもせず手元へと目を戻したところで。
「痛い痛い痛い……っ! 放せよ、コノヤロウ!」
先ほどの少年の悲鳴が、すぐ近くで聞こえた。思わず目を上げる。
「クレイ……貴方、何をしているの……?」
その先に映った光景が理解できず、思わず呆然とした声が漏れた。
目の前に居るのは、地面に取り押さえられた子供。そして。
――飴を壊さないように高く掲げながらも、器用に片手でその子供を取り押さえるクレイの姿だったのだ。
押さえつけられた子供は、歯を剥き出しにして必死にその腕から逃れようと暴れている。
「シリー、財布は?」
目の前の異常事態に思考を停止していたシルヴィアは、落ち着いた声に促されて反射的にカバンに目をやる。
「ちょっと待って……あれ? あれ?」
――おかしい。何度も確認したはずの、財布が見つからない。
「わかったよ、返せば良いんだろう! 返せば!」
取り押さえられた少年が、不貞腐れたように身体をねじる。
どさり、と見覚えのある財布が地面に落ちた。
「これ、私の財布……! 貴方、まさか……」
財布を拾い上げて、シルヴィアは尚も暴れる少年を驚きの目で見つめる。
「ウルセーな! 返したんだから良いだろう、放せよ!」
――こんな幼い子供が、スリなんて。
驚きに言葉を失うシルヴィアに、クレイは目で問いかける。どうしますか、と。
その視線を受けて、シルヴィアはそっと地面に屈んだ。身体を低くすれば、少年と視線が合う。
「……なんだよ」
「どうして、こんなことを?」
しっかりと目線を合わせて尋ねる。しばらく沈黙を保っていたものの、少年の目尻にはだんだんと涙が溜まっていった。
「父さんが……船乗りの父さんが帰ってこないんだ。魔物が増えて、海が荒れて……だから俺が、一番の兄ちゃんの俺が、妹たちを守らなきゃ……」
徐々に嗚咽に混ざり合っていく言葉。
「……そう」
シルヴィアは言葉少なにその嗚咽を受け止めて、少年の傷んだ髪を撫でた。
「ねぇ、クレイ。今日のデート、30ダルあれば足りるかしら?」
「それだけあれば十分だけど、シリー、まさか……」
クレイの返答を聞いたシルヴィアは、小金貨三枚を手早く数え上げると残りの入った財布を差し出す。
「これを持って行きなさい。そして、もう二度とこんな真似をしないと約束して。貴方が殴られて大怪我を負ったら、その妹たちはどうやって生きていくの?
……そして。そういう時は、教会を頼りなさい。もし万が一まともに取り合ってもらえなかった場合は……、紫のループタイをつけた神官にこれを渡して。シルヴィア・クレージュの紹介だと」
クレージュ家の紋章の入ったボタンを握らせる。
「………………」
拘束を解かれた少年はしばらくの間シルヴィアを睨みつけると、礼も言わずに差し出された財布とボタンを引ったくるように受け取って駆け去っていく。
こんな揉め事など日常茶飯事だとばかりに、市場の賑やかさは変わりなく少年を飲み込んでいった。
「――わかっているわ、偽善だってことぐらい」
しばらくその姿を見送ってから、クレイに何か言われる前にシルヴィアは口を開いた。立ち上がった彼女は、何が見える訳でもないのに少年が去って行った方向を見やる。
「あの言葉が本当かどうかもわからない。もっとひどい状況の人たちが他にも居るかもしれないのに、目の前の見える問題に一時的に対処しただけ……これが、根本的な解決にはならないことくらいわかってる。
――それでも、放っておけなかったの。数字で問題を把握していても、実際こうして目にしてしまうと何もできない自分が許せなくて……ごめんなさい、単なる自己満足ね」
クレイは身を屈めて、シルヴィアの服についた土を払い始める。
「シリーは、悪く取り過ぎだ」
そういう彼の声は、わざとらしいほどに軽い。
「少なくともシリーの行動で、今の少年は救われたさ。それよりも、シリーの問題は……」
「問題は……?」
手を止めたクレイは、じぃっと覗き込むようにシルヴィアを下から見つめる。その視線に、思わずたじろいだ。それ以上に何か、自分はしでかしてしまっていたのだろうか。
「シリー、今の少年のことで自分を責めてるでしょ。自分が不甲斐ないから、魔物討伐が遅れたから、こんな悲劇が起きてしまうんだって」
「まぁ……それは……」
「それが、問題。貴方は、必要以上に自分に求め過ぎてるんだ。……良い? どれだけ豊かになろうと貧富の差はどうしてもできてしまうし、個人レベルでの悲劇なんてそこらじゅうに転がってるもの。それはもう、どうしようもないこと。それぞれの人間が向き合うしかない問題なんだ」
クレイはさらりとこの世の不条理を口にする。
「それは、そうかもしれないけど……」
そういうものだと思っても、割り切れない気持ちはシルヴィアを苛む。
「それでも、どうしてもシリーが「救えなかった人間」が気になるんだとしたら……、それと同じくらい「救えた人間」のことも考えなきゃいけない」
「救えた、人間……?」
そう、とクレイは頷く。
「救えなかった人間の裏には、シリーが救った人間が存在するでしょう? その数は、君が救えなかった人間よりも多いはずだ。彼らの存在を無視して、救えなかった者ばかりに焦点を当てるのは不公平だよ。貴方が居なければ、犠牲はそれ以上に拡大していたんだから」
だから多くを抱え込み過ぎないで、とクレイは言う。その表情はあまりにも優しくて、シルヴィアは胸が詰まりそうになる。
――どうして、そんなふうに言えるのだろう。
クレイの優しさは、シルヴィアの隠していた傷をひとつひとつ優しく撫でていく。「聖女の宿命を持つ者」の痛みを、的確に癒やしてくれる。
――それが、不思議だった。
その痛みは、本人すら気づいていないものだったから。
「それと一点、補足しておくと。あの少年が言っていたことは本当だよ。彼らはあのお金で、救われることになると思う」
「どうしてそんなことが、わかるの……?」
「わかるんだよ」
ふっと微笑んだクレイの笑みは自信たっぷりで、そうなんだ、とシルヴィアはすとんと納得する。
そうか、それなら良かった。自分の自己満足が、少しでもあの少年の助けになれたなら……
「以前の私は……最小限の犠牲というのを、数字でしか理解できてなかった。それによって最善の結果を得られるなら、必要なコストだと割り切っていた。でも、本当はそこにもそれぞれの生活や想いがある……」
クレージュ家の教育では、それを教えられることなどなかった。あくまで普遍的に、平等に。神の代行者として俯瞰した視点で物事を判断することが、是とされていた。
どうしてその裏に存在する悲しみに気づくことができたのだろう、とシルヴィアは改めて不思議に思う。
前世の知識を得たことももちろんあるだろうが、それよりも前から少しずつ、自分は人間らしい感情を獲得していったと思う。
――振り返ってみて、改めて気づいた。おそらくこれは、クレイのおかげだ。
少しずつ私に人間らしい感情を、小さな喜びを教えてくれた。何気ない日常が、ちょっとした発見でこんなに色づいて見えるなんて。
「さて、と。……じゃあ、続きを見て回りますかー」
「クレイ、口調戻ってるわ」
差し出された手を重ねながら、シルヴィアは明るく笑う。
ありがとう、と繋いだ手をぎゅっと握って、精一杯の感謝の気持ちを伝えた。




