20 悪役令嬢、負けイベントに挑む⑥
考えに沈んだシルヴィアを気遣って、そこからはフォーリアも口を閉ざしたまま黙々と道を行く。
――やがて。
「ここは……」
不意に、不自然に拓けた空き地が現れた。
中心に広がる大地は黒くくすみ、もはや枯れ草とも言えないどろどろした枝葉が大地に沈んでいる。匂いがあるわけでもないのにそこから込み上げてくるものを感じ、シルヴィアは思わず口元を抑えた。
――立ち昇るのは、正体のない死の気配。
「見つかりましたね。ここが、魔物の発生地点でしょう」
少しだけ厳しさを増したものの、フォーリアの声は先ほどと変わらず温かい。その声の調子に、凍りついた感情が少し落ち着きを取り戻す。
足を進めながら、何もない空中からヤドリギの杖を掴み出すフォーリア。取り出した杖を掲げながら、彼は迷いなく空き地の中心地へと足を進めていく。シルヴィアも慌ててその後を追った。
「魔物の討伐より先に大地の浄化を始めましょう。この場を放っておいたら、第二、第三の魔物が現れてしまう……シルヴィア様、準備はよろしいですか」
「はい」
真っ黒な空き地の中央まで進み出たフォーリアが、ゆったりと手を広げる。彼の手にしていたヤドリギの杖が、ふわりと空中に浮かび上がった。
空からの太陽のかけらを集めたように、光の粒子を纏い始めた杖。そこを中心に、フォーリアの魔力が循環し始めるのを感じる。
シルヴィアは目を閉じ、それに同調する。
吹き抜ける浄化の風。それが滞りなく広がり、新たな生命の息吹となるように……
突然ブワッ、と総毛立つようなどす黒い気の澱みが、山の最奥部から噴出した。万象と同調していたシルヴィアはその澱みの影響をモロに受け、同期していた繋がりから意識が弾き出される。自分という存在そのものに泥をかけられたような不快感と悍ましさ。
「っ! フォーリア様!」
「大丈夫です!」
もはや気配を探るまでもない。生を憎むその澱みは、まるで放たれた弓矢のようなスピードでシルヴィア達の立つ地点へと肉薄する――!
「ギエエェェエエ!」
どぉん、という爆発音のような音とともに、耳をつんざくような咆哮が聞こえる。立ち昇る砂埃で、しばらくの間シルヴィアの目には何が起きているのか見てとれない。
「っ、これは……!」
やがて砂埃が薄れるにつれてフォーリアの背中越しに目に入った光景に、シルヴィアは驚きの声をあげた。
二メートルほどある、六つ足の獣。猪と熊の獰猛な部分だけを切り出して繋ぎ合わせたようなその生き物は、二人に襲い掛かろうとするほんの数歩手前で空中に縫い止められていた。
地面から垂直に突き出した杭のような枝と、中空に浮かぶ杖から伸びた蔦。その二本が、まるで十字に戒めるように魔物を貫いている。
すぐに気がついた。この緑を味方につけた技が、フォーリアの能力なのだろう。
びくん、と痙攣のように魔物が動きかけたところを、さらにもう一本の木が容赦なく突き刺さった。
前方に立つフィーリアの、厳しい表情が目に映る。普段の優しげな顔からは想像つかない、酷薄で張り詰めた表情。
「格好いい……」
思わず呟きが洩れた。
そんなことを言っている場合でないことはわかっているが、この「普段穏やかな人物の苛烈な側面を垣間見る」というシチュエーションは、旧「田丸りさ」のときからの自分の性癖にドンピシャなのだ。つい口をついてしまったのも、致し方ない。
何重にも突き刺さった杭の戒め。
これではもう、動けまい。後は絶命を待つだけだ。
――しかし。
安堵の息をつこうとしたシルヴィアの呼吸は、胸の途中で凍りついた。
ぐわっと目を見開いた魔物の瞳が憤怒に染まり、彼女を射抜いたからである。ぐるるるる……、と喉の奥で唸る声は大きくなり、やがて。
「っ! 下がって!」
フォーリアの声とともに、魔物の身体が突然黒く燃え上がった。
まるで体内から発せられたような、黒き炎。それは魔物の表面を舐めるように覆い、そして自身を戒めていた杭を焼き払っていく。
「なんの……っ!」
魔物が体勢を整える前に、フォーリアは矢継ぎ早に攻撃を仕掛けていく。
爆発音とともに魔物の身体が次々と抉れていった。致命傷とまではいかなくても、大きな損傷は与えられたと思われる連撃。
しかし、その傷を魔物は気にした様子もない。ぶるん、と身体を揺する。すると表面の炎が抉れた箇所で揺らめき……、そして傷を修復していく。
光のない黒い瞳が、シルヴィアを見据える。獲物を見定めた昏い眼差し。
「ひっ……」
震えた声で、息を呑む。
とん、と地面を蹴る感覚がしたと思えば、シルヴィアはフォーリアに抱えられて数十メートル後退していた。
それと同時に、先ほどまで二人が居た場所目掛けて、ぶん、と魔物が勢いよく前足を振り抜いていた。地面が爪の形に深く抉れる。少しでも逃げるのが遅れていれば……どうなっていたことか。
シルヴィアを地面に下ろし、フォーリアは同じ場所へと目を向ける。
「一度仕切り直します。あれは些か……私の属性とは相性が悪い」
炎を毛皮にまとった魔物。その姿を厳しい表情で見やり、フォーリアは忌々しそうに呻く。
――やはり、シナリオの強制力というのは存在したのか。
フォーリアのその言葉に、シルヴィアの胸には強い後悔が去来した。自分の考えが甘かった――中途半端にシナリオを軽んじ、そうでありながらシナリオを過信して魔物の危険性を見くびってしまった。命の危険に晒されて初めて、シルヴィアはあの時の判断が人生の明暗をわける重要な岐路であったことに気がついたのだ。
今の自分が背負っているのは自分の命だけではない。同行してくれたフォーリアの……、そしてこの地域に住む住民の命が預けられているのだ。たとえあの時の判断が誤りだったとしても、それを言い訳にすることはできない。――私は、最善を尽くさなければ。
恐怖に力の抜けた膝を必死で踏ん張った。
フォーリアのおかげで多少魔物との距離を取ることができたものの、まだまだ射程範囲内に自分は立っている。ここで足を引っ張るわけにはいかない。
「――――――っ!」
苛立ったのか、魔物が大地を揺るがす咆哮を上げた。耳を押さえてもなお、鼓膜をビリビリと振るわせるような轟音。
厄災を具現化したような存在がいま、目の前で暴れ出そうとしている。
恐怖を必死に内に封じ込め、シルヴィアは瞬時に思考を巡らせる。一瞬この場から逃げ出すことも考えたが、慌ててそんな思いを打ち払った。自分たちが助かったとしても、それは魔物を野放しにすることに他ならない。そんなことをしたら、ここの住民はどうなることか。
しかし、フォーリアの属性では魔物に有効なダメージを与えることはできない。なにかできることは……そうだ。
「……フォーリア様。私の加護なしに十秒、あれを足止めすることはできますか」
咆哮の合間を縫って、シルヴィアは素早くフォーリアに耳打ちした。なにかを覚悟した表情のシルヴィアに、フォーリアは心配そうに視線を向ける。
「可能……とは思いますが、何をお考えですか?」
「属性騎士の皆様の力を増幅させる聖女の加護は、実のところ全属性の適性を前提としているんです。規模こそ小さいのですが……
足止めをしていただければ、私の持つ水の加護の力を使ってあの魔物の火を抑えます。そこをもう一度、先ほどのように串刺しできないでしょうか」
「そんな危険なことをさせるわけには……」
「しかし、ここで退いては麓に被害が及ぶかもしれません!」
強い口調で言い切った。
先ほどの突進は、大型の魔物とは思えないほどの俊敏さがあった。その勢いで山を降りれば、人家はすぐそこだ。被害は恐ろしいことになる。
「……っ! わかりました、行きますよ……!」
シルヴィアの言葉に、即座に心が決まったらしい。
フォーリアはもう一度空中から杖を掴み取り、魔力を放出する。先ほどの魔力消費もあるだろうに、残量を気にしない全力の構えだ。
「――ハッ!」
短い掛け声と共に、魔物を囲うように四方八方から緑の蔦が頭をもたげた。
一呼吸空いてから、蔦は絡まり合いながら中心部の魔物に向かって飛び掛かる。しなやかで、瑞々しい鞭。
蔦は魔物の表面の炎に当たるとチリチリと焦げ、萎れていく。それでも何重にも絡み合い重なり合うことでそれを無理矢理鎮火させ、緑の鎖は魔物を締め上げ、拘束していく。
――ほどなくして、魔物を中心に閉じ込めた繭のようなものが出来上がった。
「完璧です、フォーリア様!」
叫ぶように言ってから、シルヴィアは祈りの体勢で瞑想を始める。
――見える。
繭の内で燻る、憎悪の火。少しずつ檻を食い破る、地獄の獰猛な焔が。
チリチリとした熱い痛みを感じながらも、胸の前で手を組み、祈りの姿勢で水をイメージする。
――渇きを癒し、穢れを洗い流し、生命を生み出す源となる水。
その特性をもってして、憎悪の炎をも拭い去らんことを……!
魔物を封じた繭の中を、徐々に水が満たしていく。
昏き炎の勢いが、徐々に弱まっていく。
「効いています、シルヴィア様! このまま――」
手ごたえを感じたフォーリアが喜色満面の表情で振り返った、その瞬間だった。
ぐいん、と黒い蛇のようなものが大地をのたうった。
まるで橋を支えるワイヤーが千切れたかのような質量と、勢い。大地に立つもの全てを薙ぎ払おうとする、大蛇の一撃。
その正体を見極めるより先に、フォーリアの身体がそれに当たって大きく吹き飛ぶ。
「フォーリア様……っ!」
どごぉ、と嫌な音と共に、一切の抵抗なくフォーリアの身体が木の幹に叩きつけられる。そのまま力なく地面へ崩れ落ちた彼は、そこから立ち上がる素振りもなくずるずるとその身を大地に投げ出した。
そこで、シルヴィアはようやく気が付いた。
魔物の持つ、大蛇のような邪悪な長い尻尾に。何重にも及ぶフォーリアの拘束をすり抜け、意志を持ったその尾は自らに歯向かう邪魔者を始末せんと、一瞬の気の緩みを見計らって襲い掛かったのである。
「ぁ……」
フォーリアの意識が失われたことで、魔物を拘束する繭が溶け落ちた。
ぶるぶるぶる、と大きく身体を揺すり、立ち上がった魔物。多少は攻撃が通ったのか、ひと回り小さくなってはいるものの、それでもその身体は熊より大きい。
光のない濁った目が、シルヴィアを捉える。
無意識に後じさりしようとした身体が、がくんと後ろに倒れた。足に力が入らない。
魔物はじりじりといたぶるようにゆっくりと歩き出し、シルヴィアとの距離を詰める。座り込んだまま必死に後退していた背中が、木の幹に当たった。
……逃げ場はもう、ない。
魔物が勝ち誇ったように、後ろ足で立ち上がる。
振り上げられた前足の先端がぎらりと鈍く光るのが、涙で滲んだ目に映った。なんて立派な爪だろう。これなら苦しまずに死ねそうだ。
最期の瞬間は、スローモーションのように流れる。
振り下ろされる前足。痛みの瞬間から逃れるように、シルヴィアはぎゅっと目を瞑り――……
ガキン、という鈍い音がした。
覚悟していた痛みは、なかなか訪れない。
恐る恐る、ゆっくりと目を開ける。その視界に映ったのは。
「俺の、おじょーさまに、手を出すな……!」
――今まで見たこともないような険しい表情をした、クレイの背中だった。
「来たー!」と自分で書きながら歓声をあげていましたw
主人公格好良いシーンは、書いていて楽しいです。