14 悪役令嬢、奇跡に挑戦する⑥
一方、その頃。
「おや、おじょーさま。随分とお疲れのご様子で」
「今戻ったわ、クレイ……何か温かい飲み物をお願い……」
疲労困憊したシルヴィアは、よろよろとした足取りで自室へと戻っていた。
ふぅ、とため息をつきながらソファに深く腰掛ければ、心得たものでクレイの手によって即座に温かなココアとふわふわのマシュマロが供される。
シルヴィアが疲れている時に欲しがる、お決まりの組み合わせだ。
帰る時間も、主人の状態もわかっていないのにこの察知能力。
昔からクレイは勘の鋭い方ではあったが、聖女試験の場に来てから殊更その能力が上がったような気がする。
「奇跡のね……発現をしようとしたのよ、今日は……」
心まで温まるようなココアを啜りながら、シルヴィアは今日一日の出来事を振り返る。
「結局、失敗してしまったのだけれど。でも、その感覚がすごく勉強になってね? オリヴァー様やアクアと今後の方針なんかについて色々意見をやりとりしていたら、すっかりこんな時間になってしまって……でも、オリヴァー様はすごいわ、奇跡の発現はオリヴァー様のご負担が大きいのに、そんな素振りも見せずに最後まで議論を交わしてくださったのよ? おかげさまで、すっごく充実した一日になったわ。それと……」
少し恨めしそうなジト目になりながらも、シルヴィアは精一杯言葉を出そうとする。
「その……お昼はありがとう。私、あの場でちょっとキツイ言葉を放ってしまったところで……貴方が来なかったら、きっと周囲との亀裂ができてしまったと思う。
……でも、不思議なのよ。どうして、私の状況がわかったの? 特に、あのコが乱入するなんて、完全に予定外の出来事だったのに……」
シルヴィアの問いに、クレイはニコニコと目を細めて笑うだけで答えない。その微笑みは、少しだけ達成感が滲んでいるものの、ほぼいつもの表情と変わらなかった。
「……まぁ良いわ。貴方、そういう時は本当に何も答えないものね」
諦めて、シルヴィアは質問を切り上げる。
謎めいているところは素敵だが、こういう場面では困ったものだ。
もちろん、彼がシルヴィアのために行動していることに疑いはないのだけれど。
「……それで、おじょーさまから見て、属性騎士の皆さんやもう一人の聖女候補の方はいかがでしたか?」
「まだ、アクアとオリヴァー様としかお会いできてないけれど……、やっていけそうだわ。皆、良い方たちだもの。
でも、もう一人の聖女候補は、全然勉強不足ね。忠告を素直に聞き入れるところは美点かもしれないけど、今のままじゃ私のライバルとしてはまだまだ」
あ、そうだ! と、シルヴィアは忘れぬうちに伝えねばならなかった事柄について思い出す。
「あのね、今朝のアクアの様子だけど……昨日別れた段階ではもっとよそよそしかったのよ? 呼び方も普通に「義姉上」だったし……朝になったらあんなふうにデレデレになってて、私もびっくりしたんだから!」
そうですかそうですか、とさして興味もなさそうにクレイはあっさりと頷いた。
……やはり、あの面白くなさそうな反応は、思い過ごしだったのだろうか。でもだとすると、「仕返し」ってナニ⁉︎
クレイが気分を害していないことに安堵する気持ちと、ヤキモチを焼いたのかと思ったのに、と残念に思う気持ちが混在して、シルヴィアの心をぐるぐるとかき回す。
その渦に呑み込まれてはいけない、とシルヴィアはすぐ話題を転換した。
「それと、夜のうちに今日お手伝いいただいたオリヴァー様にお菓子を焼こうと思うの。きっと明日はお休みになられると思うから……
クレイ、明日お庭のお花を見繕って、お菓子と一緒に届けてくれる?」
「仰せのままに、おじょーさま」
そうして一日の報告が終われば、部屋の中は静寂に包まれる。
シルヴィアはそっと瞼を閉じて、しばらくクレイが働く音に身を委ねる。
「……ここの夜は、とても静かね」
ふと。呟きが、唇からこぼれた。
「ええ。限られた人間しか存在しない世界というのは、こんなにも静かなんですね」
シルヴィアを始めとする聖女試験の参加者たちは、まだ正式な聖女・属性騎士ではない。そのため、聖域へ足を踏み入れることができない。
ここはただ聖女試験を行うために作られた、聖域からもアースガルドからも独立した場所。それら三つの世界は、少しずつ位相が異なる……らしい。
「そうは言っても、これだけの空間を維持しているのだから実際にはそれなりの人が居るんでしょうけど。ウチの屋敷でも、見えている以上の使用人が居たのだし……」
屋敷の修繕や清掃を担当する使用人は、できるだけ目立たぬように振る舞うのが鉄則だ。きっとここもそうなのだろう、とそんな言葉を呟いたところで。
シルヴィアの顔を覗き込んで、クレイが楽しそうにニンマリと笑った。
「おや、おじょーさまご存じないんですか? この地の管理は、基本的に妖精が行なっているんですよ?」
「また貴方は、そんなふうに揶揄って……」
――って、そういえば居るんだ、妖精……!
苦笑いでクレイの言葉をいなしてから、はっとシルヴィアは前世の知識に気がつく。
すっかり忘れていたが、主人公のハルカは妖精との相性が非常に良いという設定があるのだ。その妖精の力でゲームの記録をしてもらったり、属性騎士への手紙を届けてもらったりするのである。
気の利くクレイがいるシルヴィアには関係ないが、そうした助けがなければ確かに日常生活は色々と不便が多いだろう。今更ながらの事実に気がつく。
やはり自分は他の人の立場でものを考えるのが苦手だな、とシルヴィアは密かに嘆息した。使用人を連れていない人間が日常をどう過ごしているかなんて、考えたこともなかった。
「もしかして、貴方には妖精が見えているの……?」
正面に立つクレイを見上げて、もしやと恐る恐る尋ねる。
クレイは意外そうな顔で首を傾げた。
「おや、信じるんです?」
「最近思い知らされることが多いのよ。自分の見えてる世界だけが全部じゃないって――だから妖精だって、居てもおかしくないのかも」
今日の出来事を苦笑いで振り返る。
一歩間違えれば孤立するような場面ではあったが、おかげで自分が貴族の価値観でしか物事を見ることができていないと気付くことができた。
ふっと笑うように息をついて、クレイは優しい笑みを向ける。
「おじょーさまは、随分柔軟になられましたね」
ぽんぽん、と頭に柔らかいものが触れる感触がした。優しく、ねぎらうようなそのリズム。
なんだろう、と不思議に思って見上げたところで、不自然に硬直した状態のクレイと目が合う。
――どうやら無意識の行動だったらしい。
クレイの姿勢は、二回目の頭ぽん、を終えたところで、そのまま時間が止まったように不自然に静止していた。
普段彼が浮かべている口元の微笑みすら、貼りついた状態でその端正な顔に凍りついている。……細い糸目は、いつもと変わりないけれど。
「クレイ……?」
状況が飲み込めずに声を上げようとしたところで、弾かれたようにばっとクレイはシルヴィアから距離を取った。
「あ……す、すみません! なんかつい、反射的に……! 失礼しました……!」
「そそそそうだったのね、びっくりしたわ……!」
クレイの取り乱した姿を見て、遅れてシルヴィアも状況を飲み込む。
(頭ぽんぽんってされた……! 頭、ぽんぽんって……!)
実感と共に、じわじわと頬が熱くなっていく。
何これ、めっちゃ嬉しい。
口元がどんどん緩んでいく。
感情が振り切れて、泣きそうだ。
胸が詰まって、声が出ない。
護衛騎士としてだけでなく、使用人としても優秀なクレイ。もちろん今までにも、髪のセットくらい何度もしてもらっている。
髪を触られること自体は、珍しくもない。
――それなのに、その意味合いが異なるだけで。こんなにも感情がぐちゃぐちゃになるなんて。
「おじょーさま……」
クレイが何か言いかける。
――いやだ、それが謝罪だったら聞きたくない。
無かったことになんか、したくない。
クレイが何を言うつもりなのか……怖い。
「わ、私っ、オリヴァー様のクッキー焼かなくちゃ! 貴方は先に休んでいて良いわ、おやすみなさい!」
叫ぶように言って、くるりと背を向けた。
「っ…………」
クレイの何か言いたげな気配を背中ごしに感じるが、敢えてどんな表情をしているのかは目にしない。背を向けたまま、黙々と支度を始める。
「――では、お言葉に甘えさせてもらいますね。……おやすみなさい、おじょーさま」
やがて、諦めたようにクレイは優しい声で挨拶を告げる。
じっと身を固くしたまま、シルヴィアはその足音が遠ざかっていく音を聞いていた。
――その足音が、完全に遠くなったのを確認して。
「ふうぅぅぅ……びっくりしたぁ……」
シルヴィアは身体中の空気が出て行ったかのような大きなため息と共に脱力した。
――何だったんだ、今のは……!
心臓がギュッとなりすぎて、呼吸困難で死ぬかと思った。
今でも、頬が熱を持ったように熱くて視界がぐるぐるする。
「頭ぽんぽん」という単語自体は前世の知識で知ってはいたが、こんなにも破壊力があるものだとは……!
聖女試験が始まってから、クレイとの距離が随分と近づいた気がする。
屋敷に居たときの彼は、もっと他人行儀だった。たまに毒舌を吐くことはあったものの、主人と使用人の関係は周囲から見ても適正な距離感を保っていたと思う。
だというのに、周囲の、クレージュの家の目が無くなった途端、クレイは突然大胆になったような……
(もしかして、クレイも私のこと好きだったり、するのかしら……?)
自身に都合の良い考えが頭に浮かぶのを止められない。
そうだったら嬉しいと、浮き立った感情が叫びだす。
そんな妄想に浸って唇がニマニマ緩んでいたシルヴィア。しかしあることに気が付いて、冷水を浴びたようにさあっとその気持ちは一気に冷え込んだ。
昨日の、礼拝堂で耳にした会話が記憶に蘇ったのだ。
シルヴィアの敵であるハルカに、主人の情報を密告していたクレイ。
(そうよね……私のことが好きだったら、あのコのために動くはずがない……)
目を背けていた事実に、一気に思考が落ち込んでいく。
クレイの考えていることが、わからない。ハルカに惹かれているのなら、どうして私にこんなことを……?
考え事はまとまらないまま、時間だけが過ぎていく。
普段ならとっくに寝ている時間だというのに、シルヴィアの部屋の明かりはなかなか消えることがなかった……