1 悪役令嬢、前世を思い出す
「おじょーさまなら、本日は雷の属性騎士のところへ行かれる予定ですよ。なんでも、産業の水準を上げる施策について話をするとか」
窓の外から飛び込んできた声に、部屋に足を踏み入れようとしていたシルヴィアははっと身体を固くした。反射的に息を押し殺す。
洩れ聞こえる軽い調子の聞き慣れた声。……間違えるはずもない。それは、彼女の護衛騎士のものだ。
――と、いうことは。会話の相手は。
「そうなんですね。教えてくれてありがとうございます!」
溌剌とした、聞いているだけでこちらまで元気が湧いてくるような真っ直ぐで明るい声が礼を述べる。
――思った通りの、でも信じたくなかったやりとり。
「いーえ。聖女適性試験、頑張ってくださいねー」
少し脱力した声でふにゃりと笑う彼の顔が目に浮かぶ。
……見なくてもわかる。このやりとりを、「私」は何度も目にしてきたのだから。
憂鬱な気持ちでゆっくりと踵を返す。
(クレイ……、やっぱり貴方は私を裏切るのね……)
シルヴィアの独白は声になることなく、ため息となって宙へと消えていった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
――シルヴィア・クレージュには、前世の記憶がある。
「田丸りさ」という、ごく一般的な日本人だったという記憶が。
彼女がそれに気が付いたのは二年前、十六歳になった頃。特に何の前触れもない、突然のタイミングだった。
いつも通りの夕食中。きっかけは、唐突な目眩にシルヴィアがナイフを落としてしまったことにあった。
使用人がそれを拾おうと前に出る。それを見て、彼女は咄嗟に「申し訳ない」と思ったのだ。
(申し訳ない……? 身を屈めて食器を拾う方が、よっぽどマナー違反じゃない)
頭ではわかっていても、その居心地の悪さは変わらない。
そんな己の心境に戸惑っているうちに、説明のつかない違和感はどんどん強まっていく。
やがて瞼の裏に、彼女を押し流すかのように数々の経験したことのない景色や感覚が次々と展開され始めた。
五感すべてを埋め尽くすような色、音、声……その洪水のような情報のあまりのうるささに、思わず目を閉じる。
見たことのない文化、技術、……そして何故かその中にある、画面を通してみる自分たちの姿。
「おじょーさま? 随分顔色が悪いですよ?」
心配そうに声をかける護衛騎士。
いつも顔を合わせているはずの彼のその姿を見て、シルヴィアは思わずはっと息を呑む。
(クレイ! ということは、ここは『アースガルド・ストーリー』の舞台となった世界……⁉︎)
今までの経験を積み上げてできてきた「自分」と、突然降ってきた知識が混ざり合い、シルヴィアを翻弄する。
氾濫する情報に意識を持っていかれそうになるのに耐え、混乱しながらもシルヴィアは努めて優雅に席を立った。
「少し、気分が優れないみたい。先に部屋に下がらせてもらいます」
本人は気づいていないが、既にその顔は真っ青だ。
「体調管理すらまともにできないとは、次期聖女としての自覚が足りん! 今後は生活態度をしっかりと改めるように」
そんな今にも倒れそうな顔色の彼女に向かって、厳しい父親の声が飛んでくる。
その叱責に大人しく頭を下げながら、シルヴィアは腹の内でこっそり「このクソ親父!」と毒づいた。
クソ親父なんて単語、先ほどまでのシルヴィアの辞書にはなかったし、たとえ知っていたとしてもその単語と父親を結びつけて考えることなどなかったであろう。父親に認められることこそが、彼女の至上の喜びであったから。
しかし、一生分の異文化の知識を獲得した今のシルヴィアは、もはや元の彼女ではない。娘を道具として見ることしかなく、体調を崩しても労わりの言葉一つすら掛けない父親は紛れもなく「クソ親父」であると、今の彼女には認識できた。
人生で初めて覚えた親への反抗意識に、胃がキュッと縮むような緊張と血が巡るような高揚という相反する感情が脳内でぐるぐるする。
そんな感覚がまさに今の自分と先ほどまでの自分との隔絶を雄弁に示しているようで、シルヴィアの思考をさらに引っ掻き回していく。
(とにかく……今はゆっくりと状況を整理する時間を作らなくては……)
ふらふらとした足取りながらもなんとか自室へ戻り、シルヴィアは寝台にごろりと横になって力なく天井を見上げた。
(信じられない。この世界が『アースガルド・ストーリー』というゲーム、だなんて……)
糸目で物腰柔らか・丁寧だけど、実は腹黒キャラ……良いよね……
そんな好きを詰め込んだ作品です。
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